第392話

 あけた穴を左右に広げて両足を固定する。その間を負傷した仲間が必死に駆け抜けた。統率を取り戻した公孫賛軍が逃すまいと圧力をかけて来る。


「夏侯廉様、敵が押し寄せてきます!」


「兄貴は離脱したな、よしこちらも退くぞ。矛も盾も捨てて構わん、全力で撤退だ!」


 目的は味方の救援、ここで自分たちが飲み込まれてしまえば意味が無い。装備を軽くして駆け足で戦場を離脱させる。追手が装備を捨てるわけにもいかないので、何とか騎兵で先回りをしようと迂回して立ちふさがろうとすると、反対からも五十ほどの騎兵が現れて真っすぐに向かってくる。


「我は曹孟徳が長子、子脩なり。お前らの相手をしてやる!」


 歩兵が一杯で駆けている脇を騎兵が守った。こうなれば足止めは無理だと、公孫賛の騎兵は唾を吐き捨てて引き下がって行った。少しの間睨みつけていると、曹昂も本営へと引き下がって行く。岩場の陣営に駆け込むと傷だらけの夏侯淵の姿を認めた曹操が近寄って手を取る。


「妙才、良くぞやってくれた! ああ、それでこそ武将だ。ここは儂に任せ、治療をした後に啄城まで下がれ」


「代城の陥落には間に合わなかった、すまん」


「なに構うものか、お前で無理なら誰にも無理だった。今は傷を癒すのだ」


 兵らに肩を借りて救護所へ引き下がって行った。曹操は自身の幕に戻ると椅子に腰を下ろした。そこへ陳宮がやって来る。


「公台、次からは妙才をあのような任に用いてはならんぞ」


「それはどういう意味で御座いましょう」


「はっ、またわかっていて儂に言わせるつもりか。あいつは自身を晒していつか大事の最中に命を落とす。それではこちらの被害が大きくなりすぎる」


 自分で何かをしようとしすぎて、上下の別を忘れてしまう。それは一つの美徳でもあり欠点でもありえた。大軍や領地を任せた時、比例して被害が大きくなってしまう。曹操は理性で判断しているが、夏侯淵は感情で左右されてしまっていたから。


「でしたら今しばらくは心配ないでしょう。まだ目が届く範囲内でのことばかりですので」


「ふん、良く言う。それでこれからどうするつもりだ」


 事実、今回のように時間的にも間に合うならば好ましい結果が得られる。どこからがダメになるかは成長次第、備え次第といったところ。


「幽州を諦めます」


「捨てるには惜しいのではないか」


 幽州は人口が希薄で国家への忠誠心も薄い。それでも領土は領土であり、それ相応の力も得られる。せっかく奪い取ることが出来る下地や背景があるのに、それを諦めるのはどういうことか。


「一時預けておくだけの事。今回の件で公孫賛は敵を増やしました、それを利用すべきでしょう」


「というと」


「幽州を出て青州へ向かいます。そこから対抗を継続し、公孫賛を打倒いたします」


 北の幽州、南西の冀州に南東の青州。冀州は盤石すぎてどうにもならない、では青州はというと揺れていた。そして幽州の劉虞への弔いだといえば拒否も出来ない状況。


「放置では上手くないが」


「袁紹殿にも攻めさせます。その上で邪魔になっている平原の劉備、アレを調略いたします」


 どうにも行動が優柔不断な袁紹、これに頼るのは良い手とは言えないが、敵対するよりはマシだろう。ではそれが出来ていないのは何故かというと、平原の軍が張り付いているから。劉備、顔は覚えているが性格は掴めていなかった。国家への忠誠度が極めて高いのだけは覚えていた。


「劉虞を害したのだから、劉備も嫌とは言うまい。利用出来そうだな」


「日付を遡り、幽州殿の要請書でも携え、治安維持の協力依頼でも出しておけば恐らくは」


「ああ、ふむ、ではそうしろ」


 同時に劉虞死去の報は差し止めるようにさせて早馬を出させる。啄城を維持するのは難しい、ではどうするか「本初のところにも伝令だ、啄城を引き渡すゆえ南皮での徴兵と装備の供出を依頼する」拠点の移動を速やかに行える手筈を整えてしまう。


「これより十日や二十日は忙しくなりますな」


「やることがあった方が目が出る。儂は何の不満もないがな」


「それはそれは。では失礼いたします」


 流動的な状況こそが、千載一遇の機会でもある。いかにして間隙をついて座を射止めるか、曹操の飛躍の好機が到来しようとしていた。


 平原城に急使が飛び込んできた。名目は幽州牧、使者の田疇は従事ということで、隣州ではあるものの劉備も畏まり迎え入れた。竹簡を拡げて内容を告げると、使者はそれを劉備に手渡す。


「ああ平原殿、幽州殿はこのような目に遭われなければならない方だったのでしょうか」


 長安へ使者として道なき道を進み、皇帝に忠誠を示し勅令を得た人物。騎都尉に任命されるも、このような動乱で己が出世をするなどどうしてできようかと辞退した道義的な者。返書を持ち代へ戻ったところ、なんと城が炎上していて愕然としてしまった。


 農民に尋ねると劉虞は公孫賛に処刑され、晒されていたとのこと。ところが曹操の勢力が亡骸を奪還して、どうにか助けをと、田疇を使者に立てたいと頼まれ快諾した。


「なんとおいたわしい。幽州殿の徳治は田舎者の私の耳にすら届いておりました。心よりご冥福をお祈りさせて頂きます」


 実際に劉虞の統治は民に受け入れられていた、それだけでなく異民族にも。どこにもいかずに領地を治めていて欲しい、そう願われて幽州に在ったのだから多くがそう感じていたのだろう。


「兄貴、やっぱり公孫賛の奴に加担すべきじゃなかったんじゃねぇか」


「これ翼徳、兄上には深い考えがおありなのだ」


 同門の誼、それに苦しい時に援助をくれたという恩義があったので要請に応じていた。袁紹のことを牽制していたのは事実なのだ。だがその公孫賛が道義を外れた行いをしてしまった、その責任の一端は自分にもあると知ると、心が痛かった。


「それで幽州別駕殿はこれから?」


「公孫賛殿に対抗すべく動くとだけ。残念ではありますが、独力では地力が違い不利は免れないでしょう」


 元から幽州山奥に押されていた劉虞、そのうえ頂点を討たれてしまい勢力は四散してしまっている。このような状態でどれだけ対抗可能だろうか。


「俺は呂布が嫌いだ。けどもな、兄貴を困らせる奴はもっと嫌いだ!」


 短腹で直情的な張飛が思ったことを次々と口に出す。劉備はそれを苦々しく思いつつも、有り難くも感じていた。何を考えているのかわからないと良く言われるので、そいういう役どころの張飛が居てくれて助かっているのだ。


「兄上、公孫賛は今後きっと幽州を掌握すべく各地に圧力をかけてゆくでしょう。そうなれば曹操殿では食い止めることが出来ないのでは?」


 属を受けていた別駕だ、主たる官を失い路頭に迷ってしまう。もし自分だったらどうするか、劉備は残兵を集めて戦いを挑んでいたかも知れないと考えてしまう。


「田疇殿、貴殿はこれからどうするのでしょうか」


「返事を別駕殿のところへ持ち帰り、幽州殿の墓前に陛下のお言葉を供えます。その後は、隠遁し山間で畑でも耕して暮らそうかと」


 世の中に疲れたとはいわないが、敬愛する主人を失い気を落としているのがよくよく感じられた。そのような人物を引き留めるのもは失礼にあたると、劉備も目を閉じて頷くのみ。


「平原は……公孫賛殿への協力を断ち切り、渤海郡への干渉をやめ、軍を退くことをお約束いたします」


「お返事確かに。私もこれより渤海郡へ赴き、事情を説明して別駕殿が拠る啄城へ帰還いたします。それではご壮健であらせられますように」


 城で一泊することすらせずに、直ぐに出立するという。替え馬と糧食、道案内を用意して護衛の騎兵を仕立てて趙雲に指揮を預けた。城から空をじっと見詰める劉備、何を思っているのか。


「兄上、曹操ですがどうにも城を枕に討ち死に、という感じがいたしません」


「まあな、あいつなら何とかして公孫賛に一撃入れてやるって考えてるんじゃねぇのか」


 それについては劉備も同じ印象を持っていた。関りが深いわけではないが、目ざといというかなんというか、そういう人物ではないと確信していた。


「袁紹殿が共同し対抗するならば形は保てるであろうが、それだけでは不足。浅学菲才の私ではそれ以上考えが及ばん」


「いっそのこと俺達も公孫賛を攻撃したらいいんじゃねぇか?」


「ああ翼徳よ、お前には節操というものはないのか。つい先ほどまで協力していたというのに、急に手の平を返すなど」


 それこそ劉備が大嫌いな裏切りのようなもの、おいそれとそのような行動に出るわけにもいかない。何よりも劉備は平原相であって、幽州への口出しをするような立場にはないのだ。ふと気づいて二人に振り返る。


「それかも知れんぞ翼徳」


「えっと、それってなんだ兄貴」


「曹操殿の目論見だ。幽州の治安維持を側面より助けてほしいと書かれていたが、あれは幽州殿の書ではなく、恐らくは曹操殿のもの」


 竹簡を拡げて内容を再確認する。書いてあることは変わらないが、印鑑部分を再度よくよく見てみる。他とやや違うような違和感が持てた。それ自体は当然ではあるが、陰影部分が古い感じがした。


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