第376話

 袁術か、焚きつけたのはこの俺だからな、文句は言えんぞ。荀彧に視線をやると目を細めてどうするべきかを思案しているようだった。


「我が君、盧江は程なくして袁術の支配下に移るでしょう。また孫閥の茜殿も取り込まれることになり、丹楊は呉景殿がやはりその系列。ここは下流の歴陽から曲阿へ抜けるのが宜しいのではないでしょうか」


「うん、曲阿というと孫策の出生地だったな。先ごろは行く予定から外れたが、今度は寄ってみるとしよう」


 荀彧は微笑を浮かべ目を閉じる。ため息をついている感じか? 茜殿には助言感謝と残し、船で河を下ることにした。横切るのと違い、ただ流されるだけでも速度が保てるので、岩にぶつかったりしないようにするだけですいすいと速度を得ることが出来た。


 途中で中型船に乗り替えて、たったの四日で曲阿にまでたどり着くことが出来た。歩いていたら一か月はかかっただろうな、やはりこの時代の船は別格の機動力と輸送力だ。


「大自然といった場所だな」


 河に山、森林に僅かな平野。ここも漢の版図ではあるが、固守したところで何かを産み出すような場所とも思えない。だからと暮らしている人物から孫堅らのような俊英が出るわけだから、捨てるのは筋違いだ。


「このあたりまで来れば、徐州殿も袁術殿も手出しを出来ないでしょう。随分と遠くに来てしまいましたが」


 呉郡という場所がここで、後の呉国の語源ってやつだ。というか遠い昔に呉国ってのがあったらしいな、春秋戦国時代とかいう時に。それが西暦でどのくらいかは知らんぞ。


「冤州へ戻るには手勢五十では危険ですので、何とか兵を増やし行軍することを目指してはいかがでしょう?」


「うーん、趙厳の言うことはもっともだな。寝首をかかれる可能性もあるし、出来れば手下は選びたい。まずは情報収拾から始めるか、それと暫定的な居場所も確保する必要があるな」


 もうすぐ雪が降って来るような時期になる、その中を動くのは危険だ。来春に出発できるように下準備、といったところか。どうにもあれだ、時間が流れるのが早いよな。飛行機でひとっ飛びしたり、電話で解決が出来ないんだからそうもなるが。


「それでしたら、孫堅殿の弟である孫静殿を訪問なさってはいかがでしょうか。きっと我が君の名を聞き及んでおられるでしょう」


「孫堅の弟か、確かにあってみたい気はするな。大勢で出向いては驚かせてしまう、使いをやって会談の場を作りたい。典韋、出来るか」


「俺ですか? 行って話をしてみますよ。どこにいきゃいいんでしょ」


 無害というか警戒心をなくすというか、典韋にはそんな雰囲気がある。裏表がないというか、そんなところだ。こちらの言葉をそのまま届けているってわかってくれるだろ。


「曲阿の孫氏の居場所を街で尋ねれば、直ぐにわかるでしょう。酒樽の一つでも持って行くようにして頂きましょう」


 軍資金から銀貨を幾らか渡されて、荷物持ちの兵士を二人と台車を一つ連れて典韋は城へ向かって行った。こちらはこちらで野営準備、そこらで狩猟したりで鍋を作ろうとしている。まあいいか。岩に腰かけて空を見ていると、暗くなったあたりで典韋が戻って来た。


「親分、明日孫静があってくれるってよ」


「そうか、よくやった典韋。荀彧何か準備して置くことはあるか」


「でしたら、今一度孫氏の系譜のおさらいを」


 そこから小一時間勉強会が始まってしまった。当然ではあるが、孫なにがしの名前が並び、見分けがつかなくなる。孫堅、孫策、孫権だけはわかったので、それ以外が別筋と覚えることで付け焼刃に多少の色付けが出来た……かも知れない。


 翌日だ、孫静の指定した場所、飯店の一室に向かった。何でまたそんなところにと思ったが、会って話を始める前に何と無く気づくことになる。同年代の男が、年配者一人と若者二人を連れて現れた。こちらを見て目を細めている。連れて来たのは典韋と荀?だけ、兵は趙厳に預けてある。


「親分、こちらが孫静でさぁ!」


 なるほどな、その調子で話を持っていたわけか。そりゃ警戒もされる、怪しい人物を見るような目線だぞ。まあ、こいつだから仕方ないが。


「孫幼台と申す。親分殿が話をしたいと聞き参った次第」


 お付きの年配者もこちらを窺ているが、見たことが無い奴だと小さく唸っているな。このあたりの山賊ではないぞ。


「うちの典韋が失礼したようで、先に謝罪を。申し訳ない」


「え、親分?」


「ふむ。子分とは違い多少は道理を知っているらしいですな」


 これについては典韋を使者にした俺の不足があるんだよな。でも荀彧を出したりしたら直ぐに知れ渡り迷惑がかかる可能性もあるんだよ。


「そちらに迷惑がかかりかねないと思いましてね。私の名乗りを聞いてそれが広まれば、面倒に巻き込まれるかもしれない。それゆえ典韋を使いに」


 髭を軽く撫でてその真意を見抜こうとしているようだが、ヒントが少なすぎて答えなんて出るはずがない。事情があることだけを認めて、こちらの失礼については水に流してくれることになった。


「して、どのようなご用事でしょう」


「実は地元に帰るために多少危険があり、兵士を集めて安全を担保しようと思いましてね。それで縁がある孫静殿の名を耳にして不躾に参った次第」


「私と縁が? はてさて、思い当たりませんな。そろそろ名乗って頂いても宜しいでしょうか」


 飯店には他に客が居ない、聞いて立ち去ることだって出来るな。一応荀彧に目で尋ねると、小さく頷く。そうか。


「貴殿の兄君と、甥御殿とは轡を並べて戦った仲でしてね。島介と言います、今は冤州刺史恭荻将軍を」


「なんと、貴殿があの島伯龍殿でしたか! なるほど、それならば確かに縁がありますな! しかし、何故このようなところに?」


 椅子から立ち上がりそうになるほどに驚き、異様な事実にも気づく。そりゃそうだよな、任地を離れてこんなところで何をしているんだって。こちらも好きで呉まで来てるわけじゃないぞ……ないよな?


「話せば長いのだが、献帝陛下を援けるべく、徐州で談合をしようとするのを邪魔され、逃亡中に盧江から下って来た。孫策の郷が曲阿だったなと思い出し、寄ってみたわけだ」


 名乗りを上げた以上は官職に沿うような態度をしなければならない、多少威圧的になるのは我慢してくれよな。


「伯符の、そうでしたか。兄が仕切りに貴殿のことを褒めておられました、それに伯符のことについては感謝してもしきれないとも。孫氏が受けた恩義があります、ここでそれを返さずにどうしましょうか。孫幼台が喜んで兵を集める協力をさせて頂きましょう」


 意志を確認出来たところで荀彧がようやく口を開く、これからは自分の役目であるぞといわんばかりにな。


「申し遅れました、私は冤州別駕で潁川出身の荀文若と申します、以後どうぞお見知りおきを」


「おお、あの五荀の文若殿でしたか! お会い出来て光栄です」


 いつものように高名が行き届く相手なら心配もなさそうだ。見たところ孫静は猛将って感じじゃないんだが、孫堅の弟なんだから武才はあるよな? 


「過分な評価を頂き、お恥ずかしい限りです。さて、兵を集めなければなりませんが、冤州まで同道するだけの忠節も持ち合わせていなければ話になりません。ですので徴兵という手は避けたいと考えております」


 無理矢理に従わせたって逃げ出すだけだからな。食い詰めモノを集めても使いこなすくらいはするが、やはり信用出来ない奴を引き連れるのは良くない。情報漏れにも気を使う。


「確かにそうですな。となると選択肢は二つ」


「一つは丹楊郡でありますね」


 荀彧が先回りをする、呉景、つまりは孫静にとっての義兄弟が太守を名乗っている地域で兵を集めるならばマシな奴が集まるだろうってことだ。袁術の影響力があるせいで、そのまま御用という可能性もある程度ありそうだが。


「はい。ですがそちらはお気に召しませんでしょう。もう一つは会稽郡、ここより歩きで十日の行程で山陰県に向かい、そこで募兵の許可を得れば認められるでしょう」


 中華の果てまで行けってことか、今でも充分僻地ではあるがね。荀彧ですら少し考える、知識の引き出しから何かを見つけて来たらしい。


「唐瑁太守で御座いますね」

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