第347話

 こいつは映画か何かのシーンだったはずだ、それが現実になるかは知らんし、いつかも知らん。だが出来るならば備えはすべきだ。


「今ではないいつか、ここではないどこか。荒れ果てて口にする水の一杯も肉の一切れもない状況。劉協が長安を脱出し向かう先はきっと旧都洛陽だ、その時俺が傍に居られる保証はない。いつか一行が現れた時、その空腹を満たしてやる為に近隣に僅かで良いので食糧を備え渡してやりたい。野山に暮らし、来るかもわからぬ者の為に常に周囲を観察するするものを手当てしたい」


「君子役物、小人役於物。手にした財貨や人物をそのようにお使いになられるならば、皆が納得しますでしょう」


 ここから本格的に世の中が乱れるぞ。それにしても呂布、例によって女に良いように使われたんだろうか。


「頼むぞ。ところで呂布の詳細は聞いたか?」


「はい。未央殿で帝の病気の快癒を祝う式典で、手下を衛士に扮させ太師の馬車を取り囲み、詔であるとこれを討伐したとのことでございます」


「王允殿はどうやって呂布を味方につけたんだ、やはり女か」


 貂蝉の話はあまりにも有名だからな!


「それも絡んではございます。呂布殿は太師の侍女と密通をしていたことがあり、疚しいこころを持っていたとのこと。ですが決定的な理由はやはり太師の破天荒な性格でありましょう、いつ処罰を受けるかと悩んでいた様子」


 あれ? 貂蝉じゃないのか、そうか……ふむ、作り話の一種だったのかも知れんな。密通がバレたら処刑では釣り合わんが、董卓ならやりそうだというわけか。欲しければ侍女の一人二人くれてやり、祝ってやればこうもならんだろうに。やっちまったな董卓。


「まあいい、では頼むぞ」


 朝廷の一室、宮の奥で煌びやかな装束を身に着けている子供を前にして、髭を伸ばした老年の男達が身を寄せて跪いている。決して広いとは言えない部屋、調度品も控えめ。


「陛下に言上致します。董卓が誅殺され、司徒王允が奮威将軍呂布と手を取り朝政を動かし始めております」


 司空である淳于嘉が嬉しそうにそう告げている。董卓の暴政は終わりを告げた、次なる首魁は清流派の王允であれば未来は明るい。呂布も居るが、そちらは制御できるだろうと思われている。


「おおそうか、ようやく朕もひとごこちつけるのだな」


 齢十一の子供、劉協こそが漢の皇帝。わけもわからず祭り上げられ、玉座にあったが己の意志を通せる機会など一度も訪れなかった。だが全てを牛耳っていた董卓が死んだ、それも部下の裏切りで。混乱が訪れるのは致し方ないが、それでも今までよりは希望が持てた。


「現在残党を捕縛して回っている最中で御座います。程なく落ち着きを取り戻した後に、朝議を主宰されると宜しいかと」


 いつもは皇帝不在の巨頭会議だった朝廷が、ようやく御前会議になりそうだと淳于嘉も心が晴れやかだった。何があろうとも耐え忍び時を待ち続けた甲斐があったというもの。隣で膝をついている老人が続けた。


「形骸化し、数を減らしてしまっている近衛兵団を速やかに再建すべきでありましょう。御身をお守りする術が御座いません」


 馬日碇が嘆息する。もしここに乱行をしに兵がやって来ても、それを差し止めるだけの手が無いのだ。全て董卓が奪って行った、近衛校尉の席次も空席ばかりのうえ、近衛騎兵も解雇され各部隊に散ってしまっている。


「そうであるか。光禄勲はどうであったか」


 近衛を統括するのが光禄勲であり、全ての皇帝軍の司令長官でもある。その上に太尉があったりはするが、そちらは皇帝の相談役であり現在は皇甫嵩が就いている。


「先の光禄勲であった荀爽殿が逝去されて以来空席で御座います」


 卿と呼ばれる大臣級の官職は皇帝の裁可を得て任命される。そして董卓が皇帝への取次一切をしていたので、空席になった高官は多岐にわたっている。実務は官僚である中級以下の者らが行うので、それほど困ることもない。だが国家の方向性を決めることが出来ないので徐々に衰退していく。


「馬日殿、何か考えがおありでしょうか?」


「兵が無いのであれば、今いる者らを活用すればよろしいかと。董卓の三族が滅されたことでその部曲が宙に浮いた状態、これをまとめるのです」


 董卓が死ぬと直ぐに、董旻も董曠も部下に攻め殺されてしまった、どちらも董卓あっての人物だと見限られたのだ。一方で娘婿である牛輔だけは部下に守られて長安の混乱から脱出したが、なんと牛輔が恐慌状態に陥り部隊を捨て僅かな側近だけを連れて逃亡、それを見た部将の攴胡赤児が呆れて首をとってしまった。


「徐栄、胡軫は王允殿に従属しましたが、牛輔と董卓の直属は行き場がありませんな」


「今や董卓の部曲は死罪を申し付けられるのではないかと、恐れて逃げ惑っております。陛下、これらに恩赦を出し出頭させるのはいかがでありましょうか」


 兵も生きていかなければならない、食べて行かなければならない、ならば許して配下にしてしまうのが一番だと提案した。暗愚な、いや平凡であっても今までの皇帝ならば提案を受けると「良きに計らえ」ですませていたものだが、優秀である劉協は違った。


「董卓並びに牛輔兵らの頭は何者か」


「下問に対しお応えさせていただきます。涼州兵の中核は涼州騎兵であり、その騎督は李鶴、郭汜の両名で御座います」


 勇猛果敢な西涼騎兵の騎兵隊長、騎督の頭は二人居た。いわば現場指揮官の域を出ないのだが、それだけに兵からの支持は概ね高かった。


「李鶴、郭汜両名に勅書を下し、兵をまとめ帰順するよう申し付けるのだ」


 淳于嘉は明瞭な命令を出す劉協に感激し、天に感謝した。こうも明るい主君を使わしてくれたことに、祈りを捧げそうにすらなってしまう。


「御意。勅令確かに」


 平伏し、万歳万歳と繰り返し退室する。感慨深い気持ちを抑え込み、やらねばならないことをこなすために執務室へと向かうと、戻って来るのを待っていた属官が報告を上げて来た。


「蔡邑殿が処刑されるとの話が御座います」


「なんと! 投獄までは仕方あるまいが、処刑とは穏やかではない。それはまことか」


「司徒殿がお決めになられたとか」


「こうしては居られん、直ぐに行くぞ」


 沙汰を出すのを後回しにして司徒の居る場所へと速足で進む、諸官らが集まっている中心に王允がいるのを確かめて近づくと皆が左右に割れた。


「司徒殿」


「おお司空殿、いかがされましたかな」


「蔡邑殿についてでございます。投獄しただけではご不満とのことですが」


 一直線触れ難い話題に触れたせいで、取り巻きが距離をおいてしまう。言い争いが起これば巻き込まれてしまうので、そっと離れる者すらいた。


「吾はしなければならいことをするまで」


「鯨首を受け、史の編纂にのみ生を得るとまで仰っているのです、なにも死罪にまでせずとも宜しいではありませんか」


 罪人であるとの刺青を入れる、名誉を重んじる人物にとっては死ぬと同義なほどの屈辱。それを受け入れて歴史編纂のみを行うならば、温情を与えてもよいだろうとするのがこの時代の主流でもあった。


「昔、武帝が司馬遷を殺さなかったばかりに、誹謗の書が世に流れる事となった。幼主の左右で佞臣に筆を執らせるべきではない。聖徳に益無く、また私がその誹謗を被る元となるだろう。結論は変わりはしませんぞ」


 王允はことさら頑固な性格をしていた。中央から追放されようとも己の意志を曲げない位に、こうと決めたら引き下がらないのだ。無理を悟り邸宅に戻ってどうしたら良いかと悩んでいた夜、処刑が執行されたと聞くことになる。


「おお董卓は死に、良き政が戻って来ると信じていたというのにどうしてこのようなことに! 天よ、何故我等にこのような苦難をお与えになるのだろうか!」


 嘆きの声が屋敷に響き渡ると、下僕たちは悲しそうな表情で俯いてしまう。また一つ、名声高き星がその光をうしなってしまった。


 春麦の収穫が行われ始めた頃、任城の荀攸殿からの報告が届いた。冤州東部の治策として布告したものが徐々に浸透し、山賊に身をやつしていた民が続々と帰順してきていると。


「上手い事してくれているようでなによりだ」


「公達殿ならば適切に統治を促進してくれるでしょう。彼に御仁らとの約定も果たせそうで何よりでございます」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る