第346話

「新たな帝を立て今上陛下を蔑ろにしようとした袁紹など気に掛けるに値せんであろう。あ奴は国賊だ、一方で劉虞殿は国家を憂える皇族、損益などを口にして惑わせるのは感心せん」


 ずっと腕組をして黙っていた夏侯惇が初めて口を出した。その内容は、国家をどのように想っているかがありありと解る一言で、皆が頷いた。程立もそれ以上は言わずに引き下がる。


「良かろう、この孟徳も漢という国の為に立つことを良しとする者の一人だと自負しておる。幽州で牧の補佐をするのを求められているならばそうしようではないか。その上で、功績をあげ己の糧にする。東郡の後任は元譲を指名する、皆は吾についてくるように」


 この夏侯惇、実は戦いをさせても滅法弱い、だが必ず生き残る。政治をさせると温和で、向学心に溢れていた。後方地の総責任者として最適だと曹操は常々考えていたが、その最大の理由は絶対に裏切らない事。夏侯惇と今までを過ごし、それを深く理解していた。


 これは別談にはなるが、曹操が魏という大国を興してからは配下のその殆どが魏の官職について漢が蔑ろにされていった。だが夏侯惇だけは曹操の功臣の中で唯一、魏の官職につかずに過ごした。曹操が夏侯惇を臣下に並べたくない、漢の中で同列でいて欲しいと願ったから。それほどまでに曹操が特別に想っていたのが夏侯惇なのだった。


 さて、屋敷に戻って来たな。良い天気だ、春は心地よいものだ。窓から外を眺めると、遅咲の梅が花咲いている。日本なら桜の時期だろうが、生憎このあたりではこちらが殆どだ。下僕が荀彧の来訪を報せて来た。直ぐに文官服のあいつが目の前にやって来た。


「文若参りました」


「綺麗な花だとは思わんか」


 目線をやらずに外を見たまま、ふとそんなことを呟いてみた。心に余裕をもって生きなきゃダメだぞ?


「左様でございますな。かように思えるのも全て今があるからでありましょう」


 窓の傍に歩み寄り、梅を眺めて暫く楽しむ。うぐいすの鳴き声が耳に優しく響くのを目を閉じて楽しむと、ようやく心を整えた。歳よりの言動だったな今のは、俺もようやくそういうところにやって来たか。


「仕事を遮ってしまってすまんな、それでどうした」



「いえ、良き調べを満喫出来ました。揚州の件でございます」


 揚州、言わずと知れた未来の呉の版図。今のところは長江向かいの広大な領土で、深刻な人口過疎地の辺境でしかないぞ。


「異民族が攻め込んできたりでもしたか」


「それならばまだ結束も出来たでしょう。袁紹殿が揚州刺史陳温殿の逝去に伴い、手勢の袁遺殿を刺史に任ずると派遣したと聞きました」


「あいつにそんな権限はなかろうに。いや、俺もそうだから文句は言えんか。ん? 袁遺というと山陽太守のか?」


 任城の帰路に寄った昌邑であったのがそいつで、反董卓連合軍にも顔を出していた奴だよ。


「左様にございます。朝廷より新任の山陽太守に劉景殿を任命したと報せがあり事情を耳にいたしました」


 俺が不在の間にそんなことがあったのか、いや正確にはずっと前にそういうことがあり今知らされたんだよな。ということは俺が刺史になる前に既にそうだった可能性すらある。何とも言えんタイミングだ。


「そうか。それでその太守は何者だ?」


「広陵王劉荊の子孫であり、傍系の皇族とのこと」


「ふむ、わかった。きっちりと仕事をしてくれればそれで構わんさ。揚州はどうなるんだ」


 向かったからには何かしらの伝手があるんだろうが、袁紹はそれどころではないだろう。或いはそちらにも基盤を作るために行動しているのか、別に自身で耕す必要は無いからな。


「在地の太守等が袁殿を受け入れるかは未知数であります」


 たたたたたた、と足音が聞こえて来たので言葉を飲み込み様子を窺うと、下僕が「火急の使者が屋敷の外に参っております」随分と顔色を悪くしてやって来た。


「どなたの使者でありましょうか」


「それが太傅様の使者とのことで」


「太傅というと確か……直ぐにここに通すんだ。荀彧、これは一大事が起こったぞ」


 ついにか、あれは春先の事だったんだな。揚州がどうだとか言ってられんぞこいつは。実は何年にこうなるかは全く覚えていなかったんだよ。朝服ではなく旅装、それも武官のなりだ。やって来ると片膝をついて拳礼をする。


「某、馬日太傅の属人で盧子明で御座います! 火急の件につき無礼ご容赦! 都、長安の宮にて参内された董太師が急逝されました!」


 荀彧がピクリとしてこちらを見るが、俺は結末を知っていたから驚きもしてやらんぞ。


「そうか、どうせ養子の呂布にでも裏切られて殺されたんだろ。横暴が過ぎた結果だ」


「そ、その通りに御座います! 太師は参内馬車が衛士に扮した呂布一党に討たれ、当の人物は勅令を全うしたと宣言しております!」


 俺の予言に荀彧が唖然としている、少し前に董卓が呂布にという話をしたのを思い出したのかもな。養子とはいえ呂布は呂布だ、養親を切る位はするような奴だぞ。


「まさかこのような……ああ、文若は心のどこかでこの結末を否定しておりましたが、正しいのは我が君でありました。なんということでしょう、文若などまだまだ小人の証」


 本気で嘆いているな、俺の言うように監視だけはしていたんだろうが本当にこうなるならばもっとあれこれ出来たって感じか。いいさ、やれと命じなかったこちらの手落ちだからな。


「そんなことで悔やんでいる場合ではないぞ、これからすべきことがいくらでもあるだろう。それについては俺はとんと無力だ、支えてくれるか荀彧」


 両膝をついて拱手し頭を垂れると「どうぞご命令下さい。荀文若は生涯を主君に捧げさせていただきます」感銘したようで遜って来る。そんなことせんでもいいぞ、言葉にはせんがな。


「信頼しているぞ。使者もご苦労だった、ここで休んでいくといい」


「ありがたいお言葉でありますが、まだ行く先がありますのでこれにて失礼させて頂きます!」


「そうか、では替え馬と糧食を用意させる。荀彧、手配を。聞いておくこともあれば今の内だぞ」


 そう言葉を添えて二人を送り出す。董卓の奴が死んだか、時間差もあって今頃長安は恐ろしいことになっているだろうな。あのおっさんはなんだかんだで無事に生き残りそうだが、多くが命を落とすぞ。ま、俺に真っ先に報せを寄越した分くらいは働いてやらんとな。


 李鶴と郭汜はこのあとどうやって権力を手にするんだろうか、上官がうようよいるというのに。俺が手立てを知るよしもないが、結果が解るのは相変わらずズルだよ。宮廷のいざこざには手を出すことは出来ん、長安で政争をして生き残るの奴がわかっていれば荀彧ならば手立てを打ち出すだろう。


 暫くすると荀彧が戻って来た、表情はどこか悲しげでもある。盧ろいうやつに何か聞いたんだろうな、荀氏の誰かが巻き込まれでもしたか?


「我が君、長安は現在大騒乱の真っ只中に御座います。太師に連なる人物も、真っ先に部下に狙われ命を落とし、齢九十になる老母も嘆願受け入れられず斬首。都は血で血を洗う乱れっぷりとのこと」


「今がこの国の一つの変節の時であるのは確かだ。嘆いてなど居られん、俺は劉協を支える為に動くのみだ」


「御意。どうぞご命令を」


 そういう理由で顔色が悪かったのか、こいつは情を持っているからな。なんでも計画通り、全ては決めごとというのも悪くはないが、俺はこういう方が好みだよ。


「宮廷で権力争いを行うはずだ、結論から言うぞ。王允や李鶴、郭汜が力を持つ。そうであると考え荀彧が今後の対策を考えろ」


「司徒王允殿に、騎督の李鶴殿、郭汜殿でありますね、承知致しました。文若はもう迷いはしません」


「それと政争とは無関係にすべきことがある」


「何なりと」

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