第345話

 裏山に住んでいるはずだが何も聞こえてこんぞ、俺が留守にしているからだろうが。それにしたって少しくらい何かあるだろうに。


「ここより程北の山岳に居を構えているようですが、狩猟や採取だけでは食糧を賄いきれずに苦労をしている様子でして」


 冬越えの当座だけしか約束してなかったからな、それに山になら住んでも好いぞって。馬鹿正直に平野に降りて来るのを自重していたりするのか?


「厳しそうなのか?」


「木の実や山菜が取りつくされてしまえば恐らくはかなりの餓死者が出るかと」


 春先の山菜や僅かな獣肉で生きて行けというのは酷な話だ。かといって援助を受け取るだけではあいつの立場が無い、一つ仕事をくれてやるとするか。


「地図を」


 言葉も短くそれだけ言うと、荀彧は陳留周辺の絵図が記されたものをしっかりと持ってきた。意志が通じ合っている証拠だよ。もしもの時の為の備えにもなるし、三方に益がある。


「ここから西にある俊儀県の詳細を」


「陳留と河内の県境で街道の要衝、戸数は二万を切る程度、楽県令が赴任しております」


 先にあれこれと調べていなければすっと出てくることもないだろう、勢力下の県令だけで百人近くいるんだからな。


「朱儁将軍の支援、並びに食糧増産の為に屯田を始めるぞ。だが俺の手勢は他にすべきことがある、於夫羅単于に何とかそこを担当して貰えないかと打診しておけ」


「畏まりました。かの地は未開発の地が多く、きっと楽県令も喜ばれるでしょう」


「もし承諾し任地に赴くならば、費用一切をこちらで受け持つとも伝えておくんだ」


 まったくなんだよその笑顔は。まあ荀彧じゃなくても流石に解るだろうが、そこは気づかないふりで通してくれ。さて、冤州の統合を優先してしなきゃならんが、現任の太守を追い出すのは得策ではないな。


「我が君の所信表明を行ってはいかがでしょうか?」


 俺の心が読めるのかこいつは、何も言ってもいないのに解決策を提示して来るとはな。正式に任官したんだ、これからの方針を示す宣言はすべきだな。実務は荀彧と荀攸殿がつつがなくこなすだろうが、大元の俺が何を考えているかを報せないのは良くない。


「何をどう表明したらいいんだ」


「漢という国家が何であり、これからどうなるか。そして冤州刺史として冤州をどうしていくか。その想いを言葉にすればよろしいかと」


 そうか、別に政策を述べろというわけじゃないもんな。俺にとっての漢とは劉協だ、元通りにはならんだろうが中央が統制をする世に落ち着けたい。その為に冤州は民が国家を信頼する地にしたい。


「皇帝が君臨し民を統治する世を取り戻す。冤州は全土に先駆け最も住みよい地を作り上げ、国家に所属するという幸せを感じられる場所にする。民が国を愛する限り、官はこれを護ると約束する。たとえこの島介が朽ち果てようとも、志は受け継がれる」


「素晴らしきことと存じます。早速布告を出し、州全土に知らしめさせて頂きます」 


 言葉にした以上はもうこれに反することはせん。元よりそうだが、これからはより幅が広い制限が見えてくるぞ。










26

 冤州東郡の郡都、濮陽で冤州刺史の使者を屋敷で歓待させて皆を集めて会議をしている。その主座に座るのが東郡太守曹操その人だ。城主の間に在るのはその多くが曹操の親族集団で、それ以外は僅か。


「孟徳殿に出て行けという話であろう、そんなものは受け入れられるはずがないぞ!」


 常に曹操こそが大切と、言葉でも行動でも示している曹洪が憤慨する。自分が死のうとも曹操は生き残るべきだと、敗走時に自身の馬を差し出したことで側近としての地位を確立し、このような重要な場にも顔をだしていた。


「確かに、孟徳殿がやっとの思いで手に入れた東郡を追い出そうとは、島将軍は人が変わられたかの様子」


 妻の弟、つまりは義弟にあたる夏侯淵が不快感をあらわにした。武官らからは概ね反対の意見が相次ぐ、だが夏侯惇だけは黙って口をつぐんでいる。この男は政治に関して滅多に口を挟もうとしない。


「太守殿が求めておられるのは、地方の一郡の権利なのでしょうか」


 文官服を着ている中年、この中では比較的年長の程立が誰にというわけでもなく問いかける。この男、身なりはこうでも体は一番大きい、百九十センチを超える巨漢でこの時代の巨人に値した。子供を肩車したあたりにある顔の位置を皆が見上げる形だ。


「手にした以上はその権利を守るのが務めであろう!」


 曹洪が当たり前だと突っ掛かる。曹操は座ったまま目を細めなに一つ語らず反応もしない。


「刺史殿は東郡の後任を指名するのを認めるとも言っておられるならば、幽州への異動はそのまま権限が増えることを意味すると愚考致します。それともこの中には、任につけばもう言葉を容れぬようなものばかりだとでも?」


 意地悪な物言いをするものだから武官らが黙って睨み付けた。そんなことは無視して平然としているあたり、甘やかされてこの場にあるわけではないのを表していた。


「このような流れを打ち出したのは、荀氏らなのでしょうか」


 ここで曹純が喋った。だが内容は方向性とは全く別、話題を逸らしたともとれる。亀裂が入るよりは良いと、積極的にそちら側に乗る者が一人いた。線が細く身体が弱い若者、面々では異色の人物。


「これは文若殿のお考えではありますまい」


「志才殿、何故かお聞きしても?」


 程立は現状ではどこまでを参謀である荀彧が考えたのかが見切れていなかった、何せあって話をしたことが無かったので人物についてわかっていないからだ。


「それは東郡を影響下に置きつつ、幽州へ赴任という内容だからです」


 返答になっているような、そうでないような物言い。曹操が自ら幕下に連ねた偉才、隠れ住んでいたのを何とか知恵を貸してほしいと遜ってまで招いたのだ。何故か、曹操の幕には武才を誇る人物は多くいた、それこそ戦略でも戦術でも、ただの殴り合いでも。だが知略を求めようとしても満足いくものは僅か、程立だけでは幕下の者らとの相性もあり不味いと感じていたから。


「我等にも解るように説明して欲しいが」


 顔に疑問の表情を浮かべている曹仁が、比較的丁寧な感じで接する。曹操が招いた人物だけに、客人のように接しているからだ。一方で程立は同僚として見ている違いがある、どちらがより良いかは何とも言えない。


「東郡を取り上げ、拒否を選べぬような手順を踏み、抜け道が無いのが策略でありますれば。文若殿であればこのように太守殿にも益があるような選択を提示はなさいませんでしょう」


 なるほど策とはわかっていても回避できない悪辣なものを言う、そこは皆が納得した。荀氏といえば知恵に関して右に出る者が居ないと賞賛される一族、このような甘い仕打ちを残して献策などしないだろう。


「では誰が?」


「それにつきましては、太守殿の方が詳しくいらしておられるのでは」


 戯英がにこやかに曹操へと話を振る。となれば皆は黙って待つしかない、口を挟むのは作法として良くない、ましてやそれが主君へあてられているのだから。


「ああ、ふむ。確かに、智謀の士であればこのように話を持ち出しはせんだろうな」


 あたかも己ならば逃げ道など残さずに絞めると言わんばかりに頷く。それを見た程立が「そう思わせるのが罠ということも」一応の警告をする。そうするならばどのような罠かを添えて語るべきという部分、あえて指摘をせずに聞き流す。やり込めることが目的ではないから。


「んん、はあ。これは恐らく島殿の言であろう。ああ」


「島将軍がどうして孟徳殿を追い出しに……」


「子廉、そうではない。そうではないのだ」


 目を閉じて頭を左右に振るも、それ以上は曹操は語らなかった。どうしたものかと曹洪が程立と戯英へ視線を向けた。先達へ譲る、その意味で戯英は黙ったままだったので、程立が応えた。


「頭を押さえつけるのではなく、幽州牧である劉虞殿を援ける為にとのことでありましょうな。東郡を担保しつつ、太守殿を幽州へ異動させてこれを補佐させる。そこで公孫賛殿なり、袁紹殿なりと対立でもすれば益になるのか損になるのか」


 幽州では公孫賛が、青州冀州北部では袁紹がその勢力を拡げに掛かり、劉虞の勢力と接触している。小競り合いのような偶発戦は既に起こっていて、いつ正面切ってぶつかるかと思われている。


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