第322話


「己吾から北上し、冤句まで行けば済水が流れております。それに沿って行けば大野沢湖、ずっと河沿いを歩けば済北国につきます。物資の一部を水上で運びますので、移動速度は早い方でして」


「概ねどれくらいでつく予定だ?」


 早いと言えども歩きは歩きだ、長蛇の列を回避できるのはありがたいがね。それに道に迷わなくなるのも正直有り難い、ぼーっとしていても目的地につくんだからな。


「そうですね、三十日程かと」


「おいおい、それじゃ辿り着いても雪で戦っている時間なんて残されていないな」


 時間との競り合いになることほど窮屈なことはない。これは計画段階で破綻寸前ってことか。


「それですがご心配なく。冤州東部は真冬でも気温が下がりづらく、精々水たまりがうっすらと凍る程度。また積雪もひと月でこれほどなことが殆どです」


 荀彧は親指と人差し指で幅を作って笑う。たったのそれだけ? 水が無い地方……というのは河があるからいいのか。積雪がないのは内陸の山地の都合何だろうな、そこまで調査してあるなら俺が言うことはないぞ。現代ならば真夏で三十度をたまに超えるだけ、真冬でもマイナスで二度か三度くらいらしい、過ごしやすい土地なんだな。


「ということは逆に盗賊は一年中活動するってわけだよな」


 良し悪し半々ともいえる。今回に限っては無駄な時間が減るから歓迎か。他所で行動が停止して、自分達だけ進めることが出来るのはむしろ有利だな。


「取り締まりもまた一年中というところで」


「まあ、そういうことか」


 能動的に何かが出来るだけでも充分だ。急がせることなく行軍を続け、二十日も経ったあたりで東平国の須昌県で大休止しているところに伝令が駆け込んできた。


「申し上げます、勅使がこちらへ向かって来ております!」


 荀彧と目を合わせてしまう、勅使というと皇帝の使いだぞ。


「上奏した賊滅の件についてでありましょう。勅使を迎えるにあたり準備をする必要が御座います、今日はここに野営してはいかがでしょうか」


「そうか。ではそうするんだ」


 急遽移動が取りやめられたが兵士らはそこらで転がって休むなりして気にしていない様子だった。仮設の幕を大急ぎで用意すると、数時間でかなり見栄えの良いものが出来上がった。こういうのの専門家はいるものだな。


 翌朝、幕に勅使を招き入れた。白いものが混ざった髭を垂らした男。


「陛下の勅使で、黄門侍郎鍾揺である。潁川太守恭荻将軍島介へ勅令を伝える」


 今この瞬間だけはこの使者が皇帝であるとして扱う、皆が膝をついて勅使の前で頭を垂れて言葉を待った。


「島介に東部賊徒の鎮圧を命じる。その才覚を以てして国家に貢献せよ」


 書が認められている巻物をくるくるとして目の前に突き出す。それを恭しく受け取ると「謹んで拝命致します!」承知を宣言する。簡単ではあるが儀式のようなものを消化すると、ようやく立ち上がると同時に声が上がる。


「元常殿が勅使でしたか、いやお久しい」


「公達殿、こんなところにお出ででしたか」


 ふむ、友人ということか。荀攸と鍾揺ね、そういえば荀攸も黄門侍郎とかで同じ部署だったか。


「このような場しか設けられず、元常殿に対して申し訳ございません」


「おお、文若殿も。何とも不思議な感覚ですな、ははははは」


 うん、荀彧とも友人か? なんて顔をしていたらちゃんと説明してくれるんだから流石だって思わないか。


「こちら潁川は長社出身の鍾揺、字を元常、清流派の士人であり書家でもあるお方です」


「なるほど、それにしても書家?」


 いままでそういう感じの紹介なり説明をされたことはないな。郤正がそんなだったか?


「見ていだければお解りになられるでしょう。宜しいでしょうか元常殿」


「はは、ここで断ることが出来るのかね。筆と墨を」


 そりゃそうだ、この流れで嫌だと言えるような奴はこういう対応をされなかっただろうさ。暫し待っていると布を持って来て、小さな机に載せられた。こういう布は貴重品なんだけどな、あっさりと放出したものだな。


 何かをサラサラと書いていくと、それはもう見事な文字で凄まじさが伝わってくるようだった。だが、荀彧らも驚いている。達筆なのは知っていたんだろ?


「どうした荀彧」


 真剣な表情になると荀彧と荀攸が視線を交わし、鍾揺も頷く。何が書かれているんだ? あまりの達筆で俺には読めない、上手な文字と読みやすい文字は別なんだよな。これは芸術の類だな。


「元常殿からお願いいたします」


「これは陛下のお言葉であって、勅令では御座いません。某が記憶していたのを勝手に綴ったものです」という前置きをするということは、何かしらあっても劉協に責任はないぞということにしろって話だ「朕の友人が、朕を迎えに来るまで、決して折れはしない。信じて待っている」


「……協……すまん、直ぐにでも駆け付けたいが、今の俺にはまだ力が必要だ。年端も行かぬ子供に、こうも辛い想いをさせることしか出来ぬ自分が情けない!」


 手近にあった木箱に拳を叩きつけた。メキっと音を鳴らしてへこみを作ると、大きく深呼吸をする。そうだ、回り道などしなくて良かった、最短距離を行くんだ!


「悪い、取り乱した」


「我が君の憤り、文若にも強く伝わって御座います。必ずや大志を全うできますよう、補佐させて頂きます」


「ふむ、文若殿が我が君とは、潁川殿という人物がどうかが伺えます」


 真剣そのものの表情を崩すことなく、鍾揺はじっとこちらを見詰めている。それまで黙っていた郭嘉が口を開く。


「しかし鍾揺殿、随分とお早いお付きのようですが」


 そういえばそうだな、潁川から長安目指して勅令を貰ってここに辿り着くなんて、結構な日数がかかるはずだが。それについては皆がそう感じているはずだ、だがやってやれない行程でもないが。


「小黄門らを隣接州に派遣し、速やかに協同体制をとるようにとの言を下すためにて。これは三公らのご指示で」


 ふむ、三公か。確か司徒王允、司空淳于嘉、そして太尉にはあのおっさんだな馬日碇、元気にしているようでなによりだよ。そちらは勅使ではない、法的根拠の類はなし、上のお気持ちというやつでしかない。なんだ、荀彧らの表情が渋いな。


「主殿、道を急ぎましょう。行動が知れ渡る前に、可能な限り兵を進めるのです」


 郭嘉が主殿と呼んだのを鍾揺は聞き逃さなかった、幕の者らの顔を確かめて首を垂れた。


「よかれと思いしたことでしたが、どうやら悪手だった様子。弁解のしようもありません」


「鍾揺殿が謝罪する必要はありません。三公らの気持ちもです。その程度の状況の変化など現場で処理します、その為に私が在ります。張遼!」


「ここに!」


 幕の脇に立っていたが武装を鳴らして一歩進み出て声を張る。


「北瑠と黒兵千を率い、速やかに荘平県入りを果たせ。本営が盧に入城するまで西部からの使者を一切通過させるな!」


「承知! 北瑠、行くぞ」


 部将を引き連れて直ぐに幕を飛び出していく、数時間で北部の県城へたどり着くだろう。盧へ到着するにはまだ時間が掛かる、休んでいる暇はないぞ。


「荀彧、部隊に行軍を命令だ。穀城県を目指し進める、その後は盧県だ。山地が続く、甘寧は斥候を出せ!」


「おうよ大将、俺も先行する」


 そう情けない顔をするなよ鍾揺、最後はその協同要請こそがこちらの糧になる。ちょっと現場が慌ただしいだけさ。


「鍾揺殿、劉協には必ず約束を果たしに行くとお伝えください。それと、三公らの心遣いにも島介が感謝していたと」


「伝言は必ず。ですが……」


「ご心配なく。ここには智者がこれほども居るのです、どうとでもします。そうだろ荀彧」


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