第293話


「仲豫殿の仰る通りに御座います。異を唱える者はいないでしょう」


 それぞれの目を見ていくが、ここでは確かに誰も反対はしない。わかっちゃいるが確認は必要な行為だからな。


「わかった、自称でしかないがそうするとしよう」


「ご心配されませんように。黄門侍郎の公達殿に上奏を起こしていただいておりますれば、都に使者が到着次第正式な任官になる見通しで御座いますので」


 ああ、お前はそれを書いていたわけか。荀攸殿が中で一番高官だものな、そういうことだったか。これが正式なやり方というならば俺はそれに従うよ。


「そうか。長吏は地元から出しても構わんのか?」


「構いません、ご指名が御座いますか」


 あると知っていてこちらに任せたか、誰が一番の適任かは皆が知っているな。事実上の太守だが、本籍地ではなれない決まりだからな。


「迷惑でなければ荀悦殿を指名したいのだが、支えてくれるだろうか」


 納得の空気が流れる、そりゃそうだよな。だがずっと郷に籠もっていて表には出てこなかったらしいし、拒否されてもおかしくはない。学者として一生を過ごしたいならばそれを認めるさ、もうそれだけの役目は果たしてくれたからな。


「されば一年だけで宜しければお受けいたしましょう。その後は書を認めたく思います」


「うむ! では頼むとする。書とは?」


 こいつは何を研究しているんだ、聞いても全く理解出来ないんだろうがね。


「漢の歴史や政治体形、言語や風俗について綴りたく」


「おお、それは面白そうだな! 俺も是非読んでみたい、あまり長いと読みづらいし、難しい言葉を使われてもな、簡単に読めて理解は出来ずとも納得しやすい何かになれば嬉しいが」


 辞書のような書き方が多くて、殆どのことは軍師なり参軍なりに尋ねて、言葉にしてもらって判断していたんだよ。知らない何かを読んで感じられるならよろしい。


「なるほど、興味あるものは読み進めるだろうと考えておりましたが、そのような考えも御座いましたか。著書を編纂する際に参考にさせていただきます」


「うむ、後の楽しみが出来た。ああ、みなすまんな話の腰を折ったようになってしまった。俺は統治はしても行政業務も司法業務も疎い、長吏に任せるゆえ報告は荀悦殿にするように頼むぞ」


 細かいことをせずに前も軍事と外交というか政治全般だけをみていたからな。ここでもそれで通るような規模かはわからんが、出来ないことをやろうとすればひずみが産まれる。全権委任できる相手が居るならそうしたほうが多くが幸せだろう。


「我が君、陳郡の取り扱いについても方針を下知いただけますでしょうか」


「それだが荀諶殿がとりまとめを出来ないだろうか?」


 座っている先を目で追って様子を窺う。驚きはしていないが、喜びもないか。荀攸の存在があるからだろうな。


「友若殿、いかがでありましょうか」


 荀彧は立ち上がると一礼する。


「お言葉、誠にありがたく、身に余る思いで御座います。されど某よりも適任者が幾人も居りますれば、その方を採り上げるよう伏してお願い申し上げます」


 陳紀は本籍者だから外すとして、荀彧の事も含んでいるのかも知れんな。あとは甘寧あたりも一応入れてるのかもな。


「俺は今の状態は一つの通過点でしかないと考えている。いずれ董卓を打倒し、皇帝をあるべき姿に戻すその日まで、戦いは終わらない。その為に必要な措置なんだ、想いがあるのは解っている、だがこれも国家の為だ。引き受けてはもらえないだろうか」


 じっと荀諶を見詰める。誰でも良いわけがない、適任だから指名している。贔屓だと言われても荀氏を登用するのをやめはしないぞ。居住まいを正し、拱手すると深く腰を折る。


「そのように仰られるのでありましたら、微力では御座いますが、謹んでお役目をお受けいたします」


「ありがとう荀諶殿。軍を編制し陳郡へ差し向ける、準備が出来次第赴任するつもりでいて貰いたい」


 これで地盤固めは進むはずだ、大問題が城外に滞在しているわけだがね。荀彧に視線を向けると、こちらが何を懸念しているのかを察したようだった。


「一か月ほど待てば、そのお悩みは氷解することでありましょう」


「なんと俺は予言者を傍に置いていたとはな」


「これは予言などではなく、必然というもの。どうぞご心配なく」


 うちの部将らは難しい顔をしているが、荀氏らは涼しい顔をしているのが、どうにも器の違いを思い知らされたよ。



 長安の都では董卓が相国として君臨している。洛陽を離れたことでこのあたりは非常に安定した治安がもたらされている。末端では酷い物ではあったが、それでも董卓のひざ元では彼の命令以外では自由に動けるものが居ないので、意外とまともな状態だったのだ。


 董卓に呼ばれて賈翅は寝室へと入った。ここに出入りできるのは、ごく一握りの人物のみ。


「相国、お呼びと聞きました」


「おう賈翅か、世は治まっておるか」


 大雑把な物言いに、今日の董卓は機嫌が良いことを悟る。温めていた報告の類をどの順番で聞かせようかと二秒で思案して決める。


「概ね平穏といったところで御座います。未だ袁紹を始めとした連合軍の存在は残っておりますが、河内の端で形だけといったところ」


「はっ、所詮小心者の袁紹ごときでは何も出来ん」


 鼻を鳴らして小僧が何するものぞ、と見下した笑いをした。これだけ勢力の勢いに差がついてしまえば、それも仕方ないこと。政治力の差は歴然、やはり帝を手中にしているのが大きな違いだろう。袁紹は劉虞に何度も立つようにと願ったが、劉虞は一切取り合おうとはしなかった、そのせいで求心力が低下している。


「公孫賛が誘いを受け、冀州を攻略しようと動いておりますれば、袁紹も気が気ではないでしょう」


 冀州には袁紹の根拠地である、渤海郡の南皮県が所属している。元はと言えば渤海太守をしていた袁紹だが、車騎将軍を自称してからはずっと留守のまま、印綬は持っているが現状どうなっているかは定かではない。


「愚か者同士で醜く争えば良いのだ」


 誰が殺し合おうと漢の土地が無くなるわけでもないので、便利な道具として官職を利用出来る立場にご満悦だ。未だ名誉が実益を上回ると信じている者が多い、それは人が利益では動かないことがあるからに他ならない。


「孫堅を討伐に出た軍があまりの精強さに無理を悟り河南に引き返してきております。なんでも数万の大軍で近づいたのに、一万程の孫堅軍は目の前で平然としていたとか。荊州に戻り精兵を招集して伏せていたのではないでしょうか」


「そのように直ぐに兵が集まるものか! まったく、少し調べればわかることに怖じ気付きおってからに!」


 憤慨する董卓を見てここで朗報を刺し込む、そうすることで怒りが収まるのを知っているからだ。


「ですが実際に万の軍勢が荊州入りしているという報も御座いました。それは決して悪いことでは御座いません」


「ほう、それは何故だ」


 寝台に座っている董卓が、右ひざに肘を乗せて上体を押し出して来る。貫禄十分、気が弱い者ならば睨まれてしまい萎縮していただろう。


「その軍勢、袁紹と袂を分かち離脱した袁術軍ですので。荊州へ東回りで向かっているとのこと」


「おお、そいつは朗報だ! やはり袁紹ごときでは大事をなせないということだな、ははははは!」


 無事に報告を終えることが出来たので、表情には出さずに賈翅もほっとしている。朝議が始まるので一旦ここで退室して議場へ向かった。今日の集まりは悪くない、というのも朝議は大臣らが出席する権利があるものであって義務ではないからだ。権利の行使をするかどうかは個人個人に任せられている。


 先に面々を観察して異常がないかを頭に入れると、その場で董卓が来るのをじっと待っていた。ややすると董卓がやって来て、本来座するべきではない玉座に我が物顔で腰を下ろす。そしてそれを注意する者は誰も居ない。残念ながらこれが現在の力関係なのだ。


 各種の報告が行われていくが、どれもこれも何かを改革するようなものではなく、進捗状況の確認のようなもの。そんななかで、一つの懸案事項が発表された。


「賈翅、あの件を」


「畏まりました。先だって胡軫陳郡太守が潁川も攻略していたため、かの地の太守を任ずるべきであろうとのことです。そこで段猥殿に赴任して頂こうかと。皆さまが宜しいでしょうか」


 段猥はどちらかといえば武官肌ではあったが、涼州の出で今まで董卓に従ってきた者の中では比較的性格が穏やかというもの。先だって中郎将に任じられてはいたが、董卓の幕僚として都に滞在したまま。丁度良いと言えば丁度良いのだが、何と珍しく待ったがかかった。


「はて司空殿、なにか御座いましたでしょうか」


 一歩進み出たので賈翅が名指しを行った。意見するなどどうされるかわかっているのか、という丁寧な威圧でもある。


「相国へ言上致します。段猥殿は相国の幕に連なるものゆえ言い出せませんでしたが、潁川へ出すというならば話は別で御座います」


「ほう仲拂、どういう意味だそれは」


 反抗して来るようならば三公であっても容赦はしないつもりで目を細める。朝議に立っているみなは顔を蒼くして経緯を見守っている。


「されば段猥殿は農事に詳しく、その見識たるや見事と耳にいたします。相国が幕より出すおつもりがあるのでしたら、是非とも大司農として司空府へ招きたくここに願い出たく存じ上げます」


「なに」

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