第282話


 立ち上がり一礼した。稠沸は文官、趙謙は武官として栄達した武将だ。世が世ならばこのようにこそこそと会わずに済むと言うのに。


「いや、急に来たのはこちらゆえお気になさりませんよう」


 お互い着席すると近くから家人を含め全てを遠ざける。家の囲いからは姿が見えないように植え込みがあり、池には魚が放されていて飛び跳ねたりすると音が響いた。屋敷では弦楽が弾かれている、ここならば他者に聞かれずにすんだ。


「長安の冬は長引きますな」


 それが季節を意味しているのか、それとも時世を表しているのか。見張られているのが長くてついついこういった言い回しになってしまいがちだった。苦笑するとどうしたのかと目で問いかける。


「今上陛下は誠に聡明であらせられる。このような事態を打開できずに私は情けない想いばかりが募っている」


 来て早々に弱音を吐く。気持ちはわからなくもないが、だから何が出来るのかと言われると辛い。


「稠沸殿、それは某とて同じだ。せめて中軍の総指揮権があれば勝負を仕掛けても良いと思っているが、名ばかりで中郎将の一人とて動きはすまい」


 実際に近衛を与えられている五官らは董卓の手の者、そう信じていた。実は一人李儒だけは味方になり得るのだが、まったくそのような素振りを外に漏らしていないので気づかれていない。ことが起これば裏切って劉協の側につく未来を彼らは知らない。


「三公ともあろう我等が手をこまねいている間に国家は大いに乱れ、民は苦しんでいる。連合軍はまだ動きませぬか?」


 仕掛けるならばまだ見込みがあった洛陽の時にすべきだったのだが、その頃は誰しもが直ぐにこんな状況は過ぎ去るだろうと黙っていた。他人任せだったのだ。


「未だ対陣しているだけだ。副盟主を名乗っていた袁術殿が陣を離れたと耳にしている」


 また一つ希望が遠ざかってしまう、稠沸は肩を落とす。先ほどの話を思い出し尋ねてみた。


「……時に、陳留の島介とやらはどうしていますかな」


「ふむ……何か懸念が?」


「陛下が仰ったのです。島介こそ友である、その時が来るまで耐えてみせると。私は胸が張り裂けそうな想いでありました」


 うなだれて涙を流す。五十路を越えて老師とまで呼ばれることがあると言うのに、泣くなどと。


「陛下がそのようなことを? そうであったか」


 ふーむ、と唸って趙謙は目を閉じる。考えを整理して後に「実は早馬が駆け込んできた」多少の推察を混ぜてでも情報をまとめる。


「何か急変でも?」


「荀氏の支援を受けて島介が胡軫に攻撃を仕掛け、潁川の西半分を奪ったと。陳紀殿もそれを支持していると聞いているので許県から南西へかけての支配権を得たのだろうと見ている。潁川太守は亡く、表面上ただの略奪ではあるが久方ぶりに心が躍ったさ」


 董卓軍が破れた虎牢関の時以来だと明かす。その時も島介が無謀ではあったが逆落としをかけたと聞き及んでいた。


「そうでありましたか! ならば我等に出来ることは、上奏があり次第速やかに島介の潁川太守を認めること。横やりが入らぬように注視致しましょう。何者かの名があがりそうならば、中央の高官に推薦してしまえば宜しいかと」


「そうだな、より上位を認め持ち上げれば董卓とて渋々同意するであろう」


 目があるならばそれをこっそり裏から支持する、今の彼らに出来るのはこれで精一杯。いずれ洛陽を越え、函谷関を突破し、長安へ迫ってくれることを願ってやまない。意見のすり合わせをすると稠沸は自分の屋敷へと戻って行く。その馬車を見届けた密偵が董卓のところへ駆け込んだのはその日のうちだった。


 いまや朝廷の主になってしまっている董卓だが、まだ清流派の支持が得られていないこともあり悩みは尽きない。時間は自分を利するだろうと、焦らずに懐柔をしていくつもりで構えていた。それとは正反対の所業を行うのもまた董卓の特徴で、ある日突然朝議で発言をしたことがある。


「ワシは相国となり、献帝の後見人でもある。親子の歳の差もあるのだ、尚父と呼ばれても良いのではないだろうか?」


 尚父とは亜父であり、親の如く尊敬する人物という意味合いを与える。まだ成人していない劉協に妻をとらせるわけにもいかないので、そういう方面から地位を固めようと思っての発言。ところが朝廷では大反発を受け、董卓ですら自ら却下を認めなければならないほどの雰囲気になってしまった。


 そのようなことがあって以来、何かと様子を伺うような態度に終始している。便利な側近である賈翅を左馮翊に任命していた。これは人間関係に強い賈翅からの助言を得あるためである。


 左馮翊とは洛陽における河南尹のようなもので、長安の京兆尹と右扶風を含めた三長官は、長安が首都の時には最重要地域の太守代わりの名称として定着していた。場所柄地方官でありながらも朝議に参列出来るのだ。


「賈翅よ、最近の皇甫嵩の動きはどうだ」


 一時は官職剥奪して投獄していたが、皇甫嵩の息子である皇甫嬰が必死に日夜嘆願してきたので罪を免じたことがある。というのも董卓は皇甫嬰と気が合い友人関係だったのだ、その父親を処刑するのは流石に躊躇いがあったのと、赦免するのに充分な態度をとってくれたので解放した。


 その後、取り敢えず役目が無い議郎にしておき、その後に御史中丞の席次が空いたので任命した。これは独立した官職で、いわば検察官のようなもの。二千石以上の高官を捜査し弾劾を行う、あるいは上奏文を監査し違反が無いかと目を光らせる。


「御史中丞殿はこれといった動きをしていません。無暗に交友を拡げようともせずおとなしいものです」


 董卓は満足そうにうなずく、余計な真似をしないならばそれで良い。いずれわだかまりも無くなり、また国家の為に働いてくれれば万々歳だった。功績をあげた人物が何もせずに禄を食んでいるような時期があっても構わない、そう考えていた。充電期間のようなものを。


「ならば良い。袁紹らはどうか」


「修武、共、汲などに別れて屯しておりますが、全く動く気配を感じさせません。冀州よりの供給も止まっているようでジリ貧でありましょう。とはいえ収穫時期が来たらば再度兵糧を送り始めるものかと」


 冀州の韓馥を苦々しく思う、傍に居れば叩きのめしてやると言うのに遠い。ではどうしてくれようか、髭をしごいて目を細める。


「……公孫賛に攻めさせよう。連合軍についているのは名目でしか無かろう、薊侯に封じ将軍職をくれてやるのだ」


「それは宜しいお考えで。放置して居れば幽州へ乗り込みそうな勢いが御座いますので、目を南方へ向けさせるべきだと」


 名ばかりで自分の勢力拡大に忙しい。一時期騎都尉ではあったが、今は降虜校尉という一つ下の官職でしかない、列侯と将軍任命は嬉しいだろう。


「曹操の奴は行奮武将軍を自称しておったな、目障りな奴をついでに蹴落とすとしよう。公孫賛を奮武将軍薊侯にし、青州冀州の治安を保てと詔勅を発するのだ」


 青州には南皮県が含まれている、渤海郡の都であり袁紹の本拠地でもある。そこを奪われては袁紹もたまったものではない、しかも曹操が赤っ恥をかくであろう号を贈る、帝より発せられる官爵だ気持ちはどうあれ受け取るしかない。董卓にしてみれば一手で二度も三度も美味しいというのに、これといって支払うものがない。


「速やかに手配させて頂きます」


「涼州だが未だ反乱が多く異民族との折り合いがついておらん。羌族は恭順してきたがまだまだだ。馬騰を呼び寄せ反乱を鎮圧させるとしよう、あいつは使えるぞ」


 涼州事情には詳しい董卓、羌族を始めとした異民族にもかなり顔が利く。味方も多いのだ。若いころには異民族巡りをしたことすらあり、比較的現状でも統治は出来ている部類なので影響はあったのだろう。


「確か馬援の後裔だとか。現地部族の長らを抱えてやれば戦力になるでしょう、各地に使者を出してみては?」


 そう言われてかつての行き先を思い浮かべてみる、幾人かはそれで恭順してきそうな気がしてしまう。

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