第280話


 翌日になり、陽擢に荀彧がやって来た時にようやく解放されたと喜びを露にした。楽英の部下だった兵士に帰投を呼びかける、罪を問わずに再雇用すると言う条件を示して。呼びかけを荀彧名義で行うと、即日五百人が戻ってきたのでそのまま郷土防衛に組み込んでしまった。


 陽擢の指揮を荀彧に任せると、島介は潁陰へと入る。案の定潁川へ侵入すると胡軫は速やかに反撃に出てきたが、無血開城をされてしまい部隊が入った城を落とすまでの用意は出来ずに、一日睨み合って引き下がって行ったらしい。潁陰の主座に腰を下ろして幕下の者らを見渡す。


「ふむ、孫策は行かなくて良かったのか?」


 魯陽に行っていぞと許可を与え、切り出しづらいと悪いのでいつ行くんだとまで聞いてやったが、そのまま潁陰についてきてしまっている。その方が安全だと言われればそうなので、判断は預けているから強くは言わない。


「そのうち父上が赴任して来るでしょうから、こちらで待たせて頂きます。お気遣いに感謝します」


 出来た子供だなと軽く笑って好きにしろと話を切る。長社と許に行っている部将らを除き、多くがここに集まっている。各地から等距離にあるので、ここに本軍を置いて増援に出すのが一番だろう。となれば北瑠と張遼は手元に寄せておきたい。


「甘寧、長社に行って張遼と交代して来い」


「なんでぇ俺じゃ役に立たないっていうのかよ」


「お前は陽擢できっちりと仕事をこなしている、俺はそれを認めているぞ」


 流言流布、荀氏の者達だけでなく鈴羽賊が共に暗躍してこその成果だ。おかげでつり出された楽英はこの世にはもういない。


「あいつらは金さえ手に入れば文句はいわねぇ」


「褒美は出すさ。それより長社だ。あそこは河南尹と陳郡との連絡路のど真ん中、諜報をしつつ連絡を断ち切るような役目は甘寧が適切だ。何せ河が走っている、そこを制圧出来るのはお前しかいない。やってくれるな」


 潁水が虎牢関の側から別れて南東へと走っている、地名がこうなっているのも納得だ。陳郡への連絡路、陸も水上も長社が軸になっているので、黄巾の乱の時分でもここを要塞化して官軍が使っていたのは記憶にある。


「確かに水の上なら負ける気がしねぇよ。わかった、俺が行って来る」


「荀攸殿に常に相談をして動くんだ。方針や実務は甘寧が決定しろ」


 どちらが上かを定め、その上で実際の成否は荀攸次第という形を定めて置く。こうしておけば大きく当たることはあっても、失策など無くに等しい。近隣なのでまさかがあってもどうとでも挽回する手段もある。


「荀彧、各地の状況は」


「許、臨潁、長社、潁陰、それに陽擢が統治下に入っております。五県で凡そ九万戸が住んでおり、八割がたを掌握可能な見込みで二十万戸余、陳留兵らを全て維持しても数千の余裕が御座います」


 当初の目的の一つ、騎兵の維持。正直足りるかどうか税率次第であって、荀彧が想定している六割の徴収ならば全く問題がない。酷吏と呼ばれる太守らが課す最大税率九割に比べれば、農民も子を捨てずに食べていける割合なのは認められた。


「武装さえあれば臨時で郷土兵を守備に立たせるのも可能だからな。陳郡を攻める為にも後方の県城を恭順させてまわるのを優先させる、手配は任せて良いな?」


「どうぞお任せ下さいませ」


 言われる前に準備はしている、島介もそのつもりで深くは問わずに全て委ねてしまった。群雄割拠とはこのようにして行われる、結局民が求めているのは安寧なのだ。それに応じる形で推される人物が君臨するか、どこからかやって来るかの違いでしかない。


「島将軍、中牟からの行商人の話ですが、袁術殿の軍が南下をして荊州へ向かっているようです」


 趙厳が拾ってきた話を披露する。本営を離れるのは本当に荊州へ向かっているだけなのかどうかはわからない、少なくとも移動しているのは事実だろう。


「待機しているのに飽きたか。余計な接触はしないほうが良さそうだ、見つけても誰何せずに通過させるようにと触れを出しておけ」


 用事があれば嫌でも向こうから連絡をしてくるだろうから、あえて自分からは何もしないように決めておく。目的不明の軍隊がうろつくのは気味が悪い。それに袁術の事を島介は良く思っていない。歩兵を伴う行軍と比べたら、商人の移動は早い。情報を運ぶのも商売のうち、そういった話を聞かせてくれた相手からは、多少利益が上乗せされていても笑顔で購入してやるものだ。


「許の文聘のところに積極的に偵察を出すように命令を出すんだ。潁陰から武器兵糧を輸送しに兵士五百も増員させる。牽招が指揮して向こうでは文聘に従え」


「御意」


 島介の幕は異様に若い者達が多い。孫策は兄くらいの年齢の者が既に部隊を単独で指揮しているのに感銘を覚えている。年功序列はあるが、豪族らの部将が指揮することがやはり多い。だがこの幕には荀氏と陳氏しか豪族が居ないのが極めて特徴的といえる。何せこの二氏は直接的に軍を指揮していない。


「孫策、お前もここに居るならそのうち部隊を率いてみるんだ。何事も経験だ、良い副将も居るようだしな」


 黄蓋は拳を併せて一礼する。まともに話をしたことなどほとんどないが、主君筋である孫策を買ってくれていて恩義もある人物が褒めてくれていることに悪い気が全然しなかった。


「お言葉に甘えさせて頂きます。胡軫が現れた際には是非とも一隊をお預けください、そっ首を叩き落としてご覧にいれます!」


「おう期待しているぞ。解散する、荀彧はついて来い」


 場を散じて自室へと向かう、県城の中心にある県令の屋敷をそのまま使うことにしている。新しく用意するという話もあったが、そんな労力があるなら他に使えと突っぱねた。権威の象徴としては今のままで充分。余裕が出来た時に刷新すると先延ばしにしてある。


 私室に入ると上着を脱いで楽になる。ここからは私人としての色合いが濃くなる、というのを態度で示しているのだ。先に椅子に腰を下ろすと「お前も座れ」片手をやって勧める。会釈をして荀彧も座る、不思議とそれだけなのに絵になるなと島介は感じた。


「まずは緒戦を上手く運んでくれて感謝する。ありがとう荀彧」


 ほれ一杯いけ、と盃に注いでやった。お互い下戸とは程遠いので、飲みながら話をしても頭が鈍ることなど無い。


「滅相も御座いません。一族も郷里に戻れたと喜んでおりますので」


 それについては何の修正もない素の反応だった。しかも自分達の手で取り戻せたのだから、地元の豪族である荀氏としても誇らしい歴史を積み上げられたと、自尊心を満たしてくれていた。


「そいつは何よりだ。俺としても嬉しい限りだよ」


 盃をあおると目を閉じて味わう。勝利の美酒はいつ飲んでも美味しく体に行き渡るものだと、しみじみとしてしまった。


「潁川の支配、二か月もあれば強固なものになるでしょう。胡軫もその前に再度動いてくるものと見られます」


 一度動員して攻め寄せたが無理とわかって退いた、直ぐに出てくることはない。勝ちを確信できる準備をしてから出て来るのでなければ、連続で撤退となるので士気がガタ落ちになってしまう。それに五月、六月になれば麦の収穫が見込めた。


 初期の防衛に兵力を最大限充てられた、まさに島介が手勢を減らしてでも前線を強化した甲斐があったものだ。


「ギリギリだろう、ならば遅延してやり次の一戦で勝負をつける。延々と守るなどどいうのは無しだ」


 守る相手を倒すのは存外難しい。攻めて来るのを迎撃するかされるか、野戦でこそ大きな勝敗をつけられる。籠城する相手を包囲して降伏させる、降伏が見込めない包囲は多大な苦労を伴うから。傍流の下位者ならばまだしも、董卓の三軍団の一つを指揮している胡軫だ、降伏はない。


「戦場での決戦、我が君の手腕にご期待しても?」

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