第277話


「殿、一大事で御座います! 董卓軍が攻めてまいりました!」


 側近の祖茂が北を指さして顔を蒼くしている。散っている兵もいて、こちらは数千で訓練をしている最中、とてもではないがそんな大軍を相手に戦えるはずがない。気づいた兵士がどよめいている。


 孫堅は敢えて目の前の盃を手にして飲み干すと、骨付きの肉を持って平らげる。酒のお代わりを要求し、ゆっくりとそれを楽しんだ。大将がそんな態度なのを見て、兵らは何かの用意があるのだろうとその場に腰を下ろして落ち着いて飲食を楽しむ。宴会をしているところが見える場所に董卓軍の偵察騎兵が数十騎近づいてくる。


「よし、立ち上がり部隊ごとに集まれ!」


 孫堅がようやく命令を下すと、それぞれが整列して命令を待つ。訓練の延長でしかないと信じ込んでいるのだ。ところが偵察騎兵はそれを見て、こうも平然と動けるほど訓練されている軍を持っていると報告した。


 胡軫の奇襲を受けて敗走はしたものの、それまで連戦連勝できていた孫堅の地盤である荊州だ、精兵を集めて来たのだと勘違いしても仕方ない。董卓軍は無理をして負けてはいけないと考え、その日のうちに河南尹へと撤退していった。


 長安へは魯陽の守りが極めて固く、孫堅の精兵数万が防衛していたと報告されることになる。真実を確かめることが出来る頃にはすべてが遅い、誤った報告など日常茶飯事なので忘れ去られてしまうものだ。


 荊州ではこうだったが、河内では胡母斑の件で少し精神が揺れていた王匡がまた攻撃に出ていた。河陽津に進出した王匡軍、徐栄相手に戦いを挑む。袁紹が居る本営から弩一万丁に、冀州の韓馥から武将二人に一万の増援を受けて黙っているわけにもいかなかった、という背景もある。


 河陽津から西にある平陰津に敵軍を見たので軍を進めた。十キロも進み半ばを過ぎたところで平陰津からも前進してきて衝突するかのように思われたが、何と徐栄軍団は戦わずに引き下がって行く。王匡は士気が低いと見て全軍に追撃を号令する。


 ところが、二キロも進んだあたりには野戦陣が構築されていて、徐栄軍団はそこに入り込み守りを固めてしまう。それでも王匡軍は果敢に攻撃を試みたが、夕方になり河陽津と平陰津の間にある小平津から渡河してきた、独立増援隊の左中郎将蔡燿隊に背後をとられてしまった。


 徐栄軍団も陣を出て攻撃をしてきたので挟み撃ちにあうと、こぞって北へ逃げ出したので陣形が崩れ去ってしまう。少数の護衛だけを連れて王匡はまたしても河内を捨てて冤州へと逃亡。河内の勢力範囲がまた塗り替わることになってしまう。


 この蔡燿、実は学者だ、しかも天文や音楽の。還暦目前で、軍の指揮をしたことなどなかったのにも関わらず、一回出軍功を挙げた。董卓も学者としての才能を期待していたのだが、胡軫軍団は幅広く動き武将が居らず、徐栄軍団も連合軍本営を牽制するために将を配していたので人材が足りていなかった。


 偶然河南尹に残っていたので、徐栄も疑心暗鬼で挟撃作戦を依頼したところ、策をしかけた本人も驚くほどに大成功してしまう。とはいえ蔡燿は独善的であり、戦勝の経緯を上奏文で長安に提出した際にしくじる。


 属人が書き上げた上奏文を吟味せずに許可したせいで、部将の官職名を間違い、居ないはずの部将の名が記されたままだったのだ。それを確認した侍御史の桓典が相国に報告、董卓は上奏文を見てみぬふりをして桓典に差し戻させた。だが皇帝に対し不適切な文書を送ったとして、蔡燿は減俸処分を受けてしまう。流石に蔡燿もこれには平身低頭し、謹んで受け入れたそうな。


 雪が降りだしそうな季節になった頃、孫堅のところに使者がやって来ることになる。初平元年、動乱の先駆けは様々な事件を引き起こし続けるのであった。


 初平二年一月。河内にある連合軍の本営で旗揚げから丸々一年を過ごした曹操のところに、袁紹からの密書が届いていた。近隣ではあるが別の場所に陣を張り、積雪もあるので互いに顔を合わせるのにはそれなりに手間がかかるので書簡を出してきたのだろうかと訝しむ。

 

 何はともあれ手にして読んでみると、署名に袁紹と韓馥とあり最初に驚く。一体何が書かれているのやら。目線を進めるうちにどんどん前のめりになった、そして天を仰ぐ。


「なにが『天子は幼く董卓の傀儡だ、劉虞こそが真の皇帝に相応しい』などと言う寝言を。さてどうしたものか」


 誰に相談すべきかと思いを巡らせるが、陣内にこれといった人材が存在しない。いや一人だけ顔が浮かぶ。


「誰か陳宮を呼べ」


 ややすると三十路頃の文官服をまとった男がやって来る。陳宮、字を公台という。実直な学者肌ではあるが、実務を無視することをしない現場主義者でもある。有能ではあるが何せ決断が遅いせいで、戦場や目まぐるしく状況が変わるような場面では使い物にならない。


「孟徳殿、及びとのことで」


 とはいえ目覚ましい戦果もないようなこの時分に、他のなみなみいる諸侯ではなく自分に仕官してきてくれた人物なので蔑ろにはしない。まずは小手調べと書簡を目の前に差し出してやる。


「読んでみろ」


 陳宮は曹操を見ると「では拝見」書簡に目を通し、何故自分がここに呼ばれたのかを想像する。


「どう思う」


 短く問いかけた。良いと思っていれば席次の高い部下を呼ぶなりして画策をしていただろう、では乗り気ではないのだとあたりをつける。


「これに応じてはなりませんぞ」


「それは何故だ」


「袁紹殿には十の罪が御座います。一つ、不忠である。天子を助けようとせず見殺しにしようとしていること。二つ、不実である。別の人物を天子に据えようとしていること。三つ、不義である。天子が存命だというのに、皇族に――」


「わかったもう良い」


 喋っている最中に手を前に出して遮ってしまう。望んでいた答えと違っていたからではない、一致しているからこそ無駄なことをしたくなかったからだ。


「公台殿、袁紹は道を誤ることになる。これは恐らく袁術のところにも届いているだろう、荒れるぞ」


 袁紹と袁術が不仲なのは世の知るところだ。そしてこれは一方的に袁紹に非があると言ってもおかしくはない。袁術にしてみれば好機なのだ、さりとてあまりに不甲斐ない理由で袁家の家名を汚すのもまた面白くない。


「袁術殿が取られる道は三つありましょう。内々に反対をし話が外に漏れないようにする。公然と反対をし天下に非を知らしめる。賛同をし暴挙に出る」


 パッと見て解るように賛同するのは下策中の下策でしかない、詳しい人物まではわからないが、劉虞は聖人君子のような存在で異民族からも慕われていて、それはそれは天子に相応しいと伝え聞いている皇族だ。ではそんな人物が天子を退けあなたがなってくださいと言われて、わかりましたなどと言うだろうか。


 つまり天子を見限り梯子を外され、逆賊として落ちていく未来しかない。なぜ袁紹はこのような書簡を出したのか頭を疑いたくすらなった。


「天知る、地知る、子知る、我知るだ。では袁術は公にし反対をするであろう。家門の面汚しとして非難をするのを甘受するわけだ」


「いずれ秘密は外に漏れましょう。敢えて恨みを買う必要はありますまい、孟徳殿は袁紹殿に内々に諫める書簡をお出しになられてはいかがでしょうか」


「うむ、そうすべきであろうな。時に公台殿、以後私の文学従事として傍に在って欲しいがどうだ、ん?」


 使える部分があるならば使う、それをしてみてこその将軍だ。足元は見えずとも遠くが見えるならば、こういった役目を用意してやれば良いだけのこと。陳宮は謹んでこれを引き受けた。一方その頃、やはり同時期に袁紹からの書簡を手にしていた袁術が顔をしかめていた。


「袁術様、いかがされました」

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