第276話

「僭越ながら申し上げます。交渉によりいずれかの諸侯の後援を得られたとしても、いずれは利用され疲弊するでしょう。むろん機を見て何かしらの行動を起こすまでの繋ぎになるでしょうが、根本的な部分の解決にならないばかりか、行動の制限を受ける可能性も御座います」


 島介はあごに手をやって数秒考える。


「曹操のようにだな。まああいつは言いたいことを多少は我慢させられるような場に居る方が周りは安心だろうが」


 側近の者らの顔を思い出す。苦労と言うか、迷惑と言うか、焦るようなことが多いだろうなと笑った。


「行動を選択できるのは大いなる優位とでもいいましょうか」


「世の柵や力不足に悩まされるのには慣れているが、自身の努力で避けられるならばそうすべきだな。別に楽を求めてはいないぞ」


 国家への忠誠、同義的行動、軍事力に経済力、そこへきて現場の兵糧、全てが何かしらの枷になって来る。生き抜くことがこうも難しい場所や時代はそうそうないだろう。


「潁川太守李旻が殺害されました。陳郡に座して成睾を始めとした河南尹を包括して支配している胡軫から、潁川を奪い返し我が君が太守になられてはいかがでしょうか。文若らを始めとした住民は、我が君を支援すること間違いないでしょう」


「ほう、潁川をか」


 目を細めてそれがどのような結果に繋がるかを想像する。奪えたとして陳郡と河南尹を分断することが可能になる、それは逆に見れば挟み撃ちにされているのと同義だ。兵力は圧倒的に敵が多く、増援が見込めるかと言うと懐疑的。


 荀彧が言うように豪族らの支持は得られるだろうから、一度奪ってしまえば運営は円滑に出来る見込みではある。その際には被害を許容させるかのような要求を突きつけることになり、徐々に関係は悪化するに違いなかった。折角良好な関係を築けたというのに、全てを失う可能性をはらんでいる。


「潁陰、許、新汲の線で通過を阻害すれば陳と河南尹の連絡を遮断可能です」


「新汲か、懐かしい響きだ。長平とて董卓を快く思って居ようはずがない。荀彧、潁川だけで留めようとするから先が苦しくなる、なぜ陳郡もまとめて奪おうとしない?」


 守勢にまわると厳しくなる、そんなことは当たり前のことだ。勢いがあるうちに前へ進み、一気に情勢を作り上げる。一つ一つのハードルは高くなるが、禍根を残すよりも予後が良くなる。


「可能でありましょうか?」


「それを考えるのが荀彧、お前の役目だ。故郷を取り戻し安全を求めるならば、知恵を貸してくれる奴らがいるだろ」


 最前線で戦うのは荀氏ではない、命を張るのは黒兵たちだ。ならばこそ無理難題を投げつけて答えの道筋を見付けさせることを厭わない。荀彧は大きく息を吸い込むと拱手した。


「畏まりました。どうぞお任せ下さいませ」


 秋口になったところ、荊州南陽郡の魯陽で練兵をしていた孫堅は、虎視眈々と董卓軍との再戦を想定して励んでいた。徐栄軍団に対して勝利したのと、孔抽が戦死したこともあり袁紹の上奏で豫州刺史に移っているが、本拠地であるのは相変わらず長沙と江夏である。


 後任の長沙太守は孫堅派閥の人物ではない。蘇代という男で、荊州の出身で袁術の指名だ。本来ならば孫堅は自身の支持者を刺し込みたいところではあったが、荊州刺史劉表と仲が悪くこれといって自分との相性に問題も無かったので抗議するのをやめて、良好な関係を築こうとしているところだ。


 洛陽から敗走してきて直ぐに、江夏、長沙、南陽で徴兵を繰り返し、すぐさま一万人の兵士を集めることが出来た。これはやはり孫堅の名声が高いのが原因なのと、荊州で盗賊を討伐して回り住民が感謝をしていたのが大きい。


 だがそのような行動を劉表は快く思っていない、豫州刺史になったのならば任地に赴くべきだとの、至極真っ当な考えがあるからだ。特に南陽の太守は不在なので、刺史である劉表に徴兵許可をとるべきだろうとの頭があったのが大きい。


 刺史は政治を監察するのが役目であり、本来軍事権限はない。だが黄巾賊の乱があって以来、刺史も軍事に手をかけることが多くなっているのが現実だった。官職の役割が変化してきている、時代が求めているから。


「義兄上朗報で御座いますぞ!」


「どうしたのだ呉景、長安で董卓が死にでもしたか?」


 腕組をして妻の弟である呉景を見る。呉郡の呉県が本貫である呉氏は地方豪族と言うやつだ。孫堅がまだ十七歳の時、海賊を退治するために僅かな人数で立ち向かったことがある。度胸一つで堂々と大軍を指揮するふりをして、海賊が動揺をしたところで切り込み追い払った。


 このことで有名になり、県の軍事を受け持つことになった孫堅は呉景の姉を見初める。嫁に欲しいと呉家に行くと、何と一族にお断りされてしまった。若かりし頃だ、逆恨みをするかのような表情を隠さなかった孫堅を見て、呉氏は自ら見知らぬ男に嫁ぐと申し出た。


 本人がそう言うならばと結婚を許すと、無事に結ばれることになった。現在二人の間には五人の子供が居て、それ以外の女性との間にも三人、既に逝去している子も幾人かいた。呉夫人の子が孫策、孫権、孫翊、孫匡と娘が一人。後世に劉備の夫人になる孫尚香は呉夫人の娘ではない、いわゆる庶子である。


「それはそれで朗報ではありますが、伯符が生きておりますぞ!」


「なんと、それはまことか!」


 厳しい顔をしていた孫堅がぱっと明るくなる。戦場で離ればなれになった息子、死んだものと諦めていた。先が聞きたいとじっと呉景を見詰める。


「行商人の話で御座いますが、陳留は小黄で孫策という年若く美麗な者が、黄蓋という中年と共に居て、島介殿の庇護を受けているとのことです」


「おお……島介殿が。良かった、本当に良かった……」


 誰にも見られないように涙を流す、指摘を受けていたというのに己の不明のせいで兵糧が足らなくなり、無心に向かわせた息子が不憫な目に遭ったと悔やんでいた。己の子ですら食わしていくのが大変な世で、居候を認めてくれているなど感謝してもしきれない。


「こちらから使者を送るべきではないでしょうか? きっと伯符も心配をしているでしょう」


「そうしよう。孫河。いやいまは兪河であったな、あれに二十程兵をつけて向かわせるのだ」


 孫一族の子で、癒家に養子に出した者を送るように手配をする。心を落ち着けてから郊外で訓練をしている兵を見て回ることにした。まだまだ動きがぎこちないが、そんなのはそのうち慣れるもので、こういう雑兵を指揮するのには何の不満も不安もない。


 翌日も朝から訓練を行わせ、夕方には荊州各地から兵糧を集めて来る役目を与えた豫州刺史長吏の公仇称を送るための大宴会を行っていた。兵にも飴を与えなければついてこない、南陽ならば食べるのに困ることもないので、多少は甘い指示もすることにしていたのだ。そんな時、北の方から土煙が立ち上り魯陽に董卓軍の旗を掲げた数万が迫って来る。

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