第275話


「これはしたり、私の言葉が悪く大変申し訳ございませんでした。ここに心より謝罪致します」


 一旦区切って不覚腰を折って頭を下げる。面目はたった、ならば別にそれ以上は何も言わずに椅子にと腰をおろす。


「でしたら簡単なお話でありましょう。王匡殿は真の国士、それを妨げる者は何人であってもこれを排除すべきでございます」


 これは雲行きがよくない、楊樊は何とか話題を逸らそうとして言葉を挟む。


「時に逢紀殿、河内には使者が来ましたが本営には?」


「さていかがでありましょうか、懐城よりの早馬がきて即座に本営を発ったので、入れ違いの可能性は御座いますが」


 だれにも答えは解らない、何せ夜間に移動するのは難しい、その間に事を起こせば不明な部分が必ず出来てしまうから。何より大急ぎで早馬を仕立てたのは王匡の側、突っ込んではそれを指摘されるだけだ。


「数日様子を見て、各所に使者が出ているかどうかを確認すべきでは?」


「これは異なことを。使者がどこへ向かっていようと、王匡殿の心にお変わりがあろうはずがないのに」


 主の言葉を否定するわけには行かず、かといって逢紀の言を認めるわけにもいかず。するとどうなるか、俯いて黙るしかない。逢紀はそれで満足して楊樊から視線を戻す。


「逢紀殿の仰るように、太守殿は忠臣で御座います。使者を差し戻しこれを天下に知らしめるべきかと」


 杜陽はこれ以上余計なことが起こらないうちに結論を先に出してしまえと、お互い納得できる範囲で意見を出す。逢紀はチラッとだけ視線を向けると王匡を見た。


「王匡殿、使者を戻すと言うことは話を聞くつもりはないが、董卓の専横への意見もないとしているのと同義です。悪をお認めになられるので?」


「それは違います。太守殿は董卓に反する為にこのように軍を挙げておられる、行動によって既に示されているではありませんか」


 実際に軍をぶつけあっている者は少ない、杜陽の言葉はもっともだった。虎牢関で廻り番をして僅かに戦っただけの諸侯らとは一線を画している。


「さればこそ、先頭をゆく王匡殿がそのような甘い対応では世間がどのように思われるでしょう。断固としてここは使者を切り、長安へ躯を送るべきでありましょう!」


「き、切るだと!」


 つい王匡も声を上げてしまう。まさか娘婿を切り捨てるなど考えられない、城から追放するだけならば致し方ないとまでは思っていたが。こんなことならば会わずに拒否しておけば良かった、王匡は後悔してしまう。


「左様で御座います。王匡殿の御心は常に皇帝陛下のお傍に在ると仰るならば、陛下をかように苦しめている董卓の使者にご容赦めされるな!」


「むむむ!」


 かつて逢紀も王匡も何進大将軍の幕で一緒だった、それだけにどこが弱点かを知り尽くしている逢紀は一切の手加減をしない。まずい、そう感じた杜陽ではあったが良案が浮かばない。


「何も王匡殿の手で殺めよとは言っておりませぬぞ。法に則り逆賊を処罰する命を出すだけのこと、そうすれば使者も役目を蔑ろにしたわけでもないと董卓も納得し、長安に居られる娘も断罪されることまでは無いでしょう。ですがもし無事に帰りでもして王匡殿が敵対したままだとどうでしょうか、疑われ家族もろとも拷問にかけられてしまうでしょう」


 ではどうするか、可愛い娘を失うのを承知で董卓の機嫌に任せるか、ここで自分が汚名を被ってでも娘の安全を得るか。逢紀の論理は理解出来た、中途半端な状態で長安へ戻っても恐らくは無事では済まされない、逃亡させるなどもってのほかだ。


「…………使者の処刑を命じよ」


「素晴らしきご判断で御座います」


「太守殿! 本当にそれでよろしいのですか?」


 あまりに悲痛な絞り出すかのような声に不安を覚えてしまう。


「そうするしかないのだ、世の正道を示すには誰かが犠牲にならねばならぬ。いずれ私もそうなるであろうが、なんの恨みもない」


 握られた拳があまりに強すぎて血が滲んでいる。杜陽は王匡の前に進み出ると両膝を折って頭を下げた。


「この杜陽、太守殿の英断に心より賞賛を申し上げます。必ずや世は正され、多くの者が感謝を捧げることでありましょう。どこまでも付き従わせて頂きます!」


 この杜陽、韓浩の舅である。ある時、賊の人質になるが同じように正道を選べと叫んだ。その娘婿の韓浩は意志を継いだ。軍に染まった際に夏侯惇の将となることがあり、敵に夏侯惇が捕縛され人質にされた時、泣きながらこう言った。


「これも国家の為です、見殺しにすることをご理解ください!」


 結果夏侯惇は助かり、韓浩を許した。それを聞いた曹操は軍令を定めた、人質をとられたとしてもそれに従ってはならない、と。以後法律として正式に定められたのは、この時のことが心に残っていたからだろうか。


 首を跳ねられた胡母斑の棺を見ると王匡は号泣して覆いかぶさった。従者らに棺を長安へ運ばせると、そのうち娘からの書簡が届いた。あまりに恐ろしすぎてそれを読むのをどれだけ逡巡したか、意を決して読んでみると王匡は膝から崩れ落ちた。


 父上のお気持ちは悲しい程理解出来ます。夫のお気持ちもまた悲しい程理解出来ます。とだけ書かれていたそうだ。以後、娘と会うことも便りを交わすこともなく、王匡は生涯を閉じることになる。


 夏が訪れようとしていた、初平元年六月下旬。董卓軍の胡軫は潁川郡を踏み越えて陳郡にまで勢力を伸ばしていた。太守に任命され、自らその地を奪い取ったのだ。陳郡太守の許楊は郡都である陳県で戦死、豫州刺史の孔抽もまた命を落としている。


 袁紹らは相変わらず修武あたりに駐屯して変節が訪れるのを待っていた。董卓は長安にあって何を思ったか都の銅像の類を全て集め溶かしてしまい、新しい銭を鋳造し始めた。だがこの銭、形も品質も不安定で表面を磨くこともしていない粗悪品、流通させれば国家の威信が下がるだけで役に立つとは思えない代物。


 董卓と和平が成り立った諸侯は居ない、しかしこれといった新たな離反も聞こえてこない。ひっそりと手打ちをして様子を窺っているだけ、事実上の停戦措置をとっているのは感じられる。そんな中引き返すことが出来ない男は五人だ。


 盟主袁紹、副盟主袁術、曹操、王匡、孫堅は状況を考えると打倒するまでは終われない。多くの諸侯が領地へ戻ってしまい、連合軍は勢力を弱めている。戦闘能力だけでいえば実はそこまで低下はしていないが、士気という面では話は違う。一応劉備も本営の傍に留まっているが、相変わらず蚊帳の外に置かれていた。


 陳留にも張貌が戻って来ていて、兵らは領内の盗賊退治につくなど治安維持を推進している。小黄には島介一党が居るので盗賊寄り付きはしないが、それはそれで別の問題が起ころうとしてた。山屋敷の方で執務をしていた島介に荀彧が言う。


「我が君、一年は宜しいのですが、この軍規模に対し収入があまりに少なすぎます。このままではいずれ破綻することが目に見えております」


 二千もの騎兵に幾ばくかの歩兵、大勢の部将ら。これらを養うのは並大抵ではない。以前は孫羽将軍が冤州の都督であったので公費でもってそれらの費用を工面していたが、そういった公権力が今はない。恭荻将軍として軍を保持している名目は説明が出来ても、確かにまったく養えていない。


「うーむ確かにそうだな。この数は郡の半分を支配していたとしても維持できるかは怪しいぞ」


 歩兵だけなら良いが、軍馬を維持するのは金がかかる。騎兵戦力は歩兵の十倍だが、維持費も十倍かかる。欲しいと思い用意しようと思っても、騎兵は二年や三年かけて徐々に数を増やすので精一杯、簡単には増やせないので手放すのは選択肢の最後の最後にしたい。


「何かお考えが御座いますか?」


「まずは荀彧の話を聞こう。考えもなく指摘をすることなどないだろ」


 にやりとして腹案を出してみろと促す。頂点として思案が足らないと取るべきか、部下の意見を聞く耳があると取るべきか。

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