第272話
ピタッと足を止めて賈翅を見詰める。それは考えなかった、古来より使者は丁重にもてなし帰還させるものと思っていたからだ。たとえそれが戦陣であっても話だけは聞く、そういう習わしがあるのは異民族も同じだった。人は理性を持っている、一人では狂い失ってしまうことがあっても、複数居るならば正気の者だっている。
ところがあまりに多数になると今度はまた理性を失うのが集団心理というのもなので、二人から十数人までの間が適性範囲とされることが多かった。狂人がいくら集まろうと狂人であることにかわりはないが。
「そうであれば最大限に利用するんだ」
「畏まりました」
一切任せると賈翅を信頼して枷を設けない、人を使うことが上手だった。もし、もしだが、董卓にもう少しだけ人の心があり残虐性が弱ければ、案外うまくやれていたのではないだろうか。他者に無情でなければ生き残れなかった厳しい地域で生まれ育った、それが良くも悪くも董卓と言う人物を形作っている。
◇
小黄の山要屋敷で荀彧の姿をみた島介は、喪服を着ているのを見て尋ねた。
「どうしたんだ荀彧」
「叔父の荀爽が逝去されました。伝え聞くところによれば、病に倒れそのまま帰らぬ人となったと」
董卓に殺されたのではなく、自然死だったのならば仕方ない、それが寿命だったのだろう。
「そうか。島介が弔意を示させて貰う。俺も幾度か触れた人物だ、一両日は喪に服すことにする」
子がいるが、こちらは官を履くつもりは全くなく、学問に全てを捧げていた。孫も然り。
「……時に我が君、訃報を持ってきた郎党によりますれば、胡軫軍団が潁川へ入り版図を拡げているとのこと。願わくば一族の避難先として小黄を使わせていただくことをお許し願えるでしょうか?」
「今さら何を言ってるんだ、当たり前だろ。早い方がいい、直ぐにでも希望者を呼び寄せるんだ。あ、いや、喪に服すんだったな……」
言ったそばから行動を違えるのは気持ちが悪かった。急ぐべきことなのに放置するのもまたそうだった。荀彧はその気持ちを大層嬉しく想い「ことは重大、ここでまごついていては叔父殿に笑われてしまいます。文若は速やかに郷里へと向かわせて頂きます」喪中でありながらもすべきを怠らないと示す。
「うむ、文聘と典偉、それと黒兵五百を護衛に連れていけ。遠慮はいらんぞ、一族と言わずに希望するならば好きなだけ連れて来い、全員俺が面倒を見ると約束しよう」
郷土兵を連れて行けと言われるものだとばかり思っていた、そうであれば到着も遅くなるし数も少ない。何せほとんど潁川に戻してしまっているから。
「我が君の寛大なお言葉に、文若が感謝を申し上げます」
その場から島介が去りややすると屋敷に半旗が翻る、弔意を内外に知らしめるものだ。荀彧は喪服のままで文聘と典偉に潁川へ向かうように命令が下ったと報せると、即座に動員を掛ける。出発は翌日になるだろうと思っていたが、たったの二時間で五百の武装兵団が整った。今は戦時だ、そのくらい出来ずに務まろうはずもない。
潁川郡潁陰県は許のすぐ西側、小黄から百五十キロ離れていて、騎馬で三日が目安だ。初日が午後からの出発ではあったが、途中急いだのでしっかりと三日目には到着した。
「不審な集団め、何者だ!」
郷の警備兵に留め立てされる、それも仕方ないだろう軍旗も立てずに黒づくめの騎兵が五百も現れて平穏無事なはずがない。緊張していると喪服で騎馬している者が進み出た。
「荀文若が戻りました。仲豫殿にお目通り願いたいのですが、お伝えして頂けるでしょうか」
「こ、これは文若様! 直ぐにお伝えして参ります!」
警備兵が駆け足でどこかへ行ってしまった、地元だけに荀彧の威光がこんな場所の警備兵にまで行き届いているのに文聘らは感心した。元から名声の程は耳にしているが、本当に凄い人物なんだなと。
戻って来た警備兵が案内し郷を進んでいくと、多くの住民が道々で頭を下げて挨拶をする。大きな屋敷へ行くと見た目も爽やかな四十路の男が出迎える。
「文若よ、久しいな」
「仲豫殿、ご無沙汰しておりました。叔父の喪中ではありますが、取り急ぎ用があったため戻りました」
「うむ、まずは中へ。お連れの方々もむさ苦しいところでは御座いますが、どうぞ」
もしかすると美形の血筋なんだろうかと文聘は二人を見てしまう。実はその通りで、この家系は美男美女ばかりが輩出されている。外から入る血もまた見目麗しい女性が来るので洗練されていったのだろう。余程の才覚が無ければ家柄で嫁いでいたので、輿入れさせる側も気を使う部分が多かったろう。特に娘は美貌でなければ肩身が狭い思いを一生するのだから慎重だったに違いない。
席に着くと茶を用意されるが、やはり喪服の者達ばかりだ。亡くなった人物もまた名高き人物だったというのを示している。
荀悦、仲豫とは現役世代である荀彧らの中で一番の年長者。即ち親世代の長男である荀倹の次男だ、長男は幼くして逝去している。一族でも長男、次男で家督を継ぐ者は大体が出仕していたが、荀悦だけは郷里から出ることなく研鑽を続けた。
そのせいあってか学者としての名は上がったが、家督相続者としての評判は低い。有体に言えば書物に向かっているだけで、一族に食べさせてもらっていたという話だ。
「して文若、急用とは董卓軍のことかな」
決して頭脳が劣っているわけではない、むしろ世には出ていないが極めて切れ者だ。幼いころから荀彧だけは荀悦のことを慕い続け、常に肯定してきている。それだもの荀悦にしてみても従弟が可愛くないはずがない、十五歳も離れているので弟というよりも子供のような感覚もあったかも知れない。
「はい。潁川を侵略しており、程なくここにも毒牙を向けるでしょう。董卓の残虐さ、非道さは聞き及んでいるものかと」
さしたる理由もなく郷一つを虐殺したこともある、またそれを咎めるような側近もいない。黙っていれば害がないという保証が一切ない、近寄らないのが一番だ。
「良い噂は聞かぬな。春の租税の減税措置が布告されているが、あれは荀爽叔父の進言だったと聞いている」
どのような意図で布告したか、少しでも頭が回るような者ならばしっかりと見抜いていた。とはいえ住民としてはなんら悪いことはないので、そういうものだと受け入れている。
「その叔父上も世を去り、朝廷は今や董卓の専横を見てみぬふりをするしか御座いません。潁川で狼藉が行われるのを座して待つこともないでしょう。良い避難先を用意しています、仲豫殿もどうかご一緒に」
じっと見詰める。何せ郷里で暮らすことが当たり前で、それを捨てて別の場所で生きていくのは道を外れることだと信じていた。そういう教えが先祖代々続いている、自分の代でそれを壊すのはかなりの勇気が必要になる。
「……多くの者がこの地に残るだろう」
「では仲豫殿も行く事は難しいと?」
出来れば死んでほしくない、憐れみと言うよりは荀彧の希望であり、期待だ。誰も他人に未来を強要など出来ないと解っていても願わずにはいられなかった。
「さだめとは人では変えることが出来ぬものだ」
「ですが――」
「何も行かぬとは言っておらぬ。文若がそうまで惚れ込んだ人物が居るのであろう、ならばさだめに逆らってみるのもまた一興ではないか」
相好を崩して必死な荀彧に微笑みかける。
「だが先に言ったように多くの者が残るはずだ、私はそれを翻意させることが出来そうにないのが情けない」
ずっと郷里にあって、誰がどういう想いをしているかを知っている。だからこそ、無理だと思うことは無理で、凶事が迫っていようと変えられないことがあると悟った。
「我が君に真っ先に紹介させて頂きます。董卓軍は刻一刻と迫っておりますので、私は家々を巡り説得して参りますゆえこれで失礼を」
「いや待つんだ、私が家長らをここに呼び集める。その方が早かろう、文若は少し休め」
言うが早いか下僕を呼んで急ぎ招集をかける旨、手配をさせた。荀氏の本家筋、その当代当主が大急ぎで重要な話があると言われれば、仕方なくやって来るだろう。陽が暮れてしまった頃に、本家に三族の代表が揃う。
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