第268話


「奪われてはならぬと、何者かがここに隠したのでありましょう」


 きっと身を引き裂かれるかのような思いだったろうことが伝わって来る、無念とはこれだ。


「皆に命じる、このことは口外無用だ。今夜はここで休み、翌朝に洛陽を離れるぞ」


「それが宜しいかと。兵に残された食糧が無いかを探させておりますが、期待はできないでしょう」


 腹を空かせたままにさせるのは可哀そうだが、無いものは仕方ない。補給は待てど暮らせど届かない、今になり島介の言葉を思い出した。


「おおそうだ、孟津に島介殿が入っているはず。兵糧を借りられぬか早馬を出してみよう」


「父上、ならば伯符が参ります。島将軍に礼を尽くすべきでありましょうから」


「おお行ってくれるか。黄蓋が護衛につけ、三百人つけるゆえ息子を頼む」


 黄蓋は孫堅が長沙の制圧をしている時からの部将で、三公の招聘を拒否して孫堅に従っている子飼いの人物。大出世を蹴ってまでついてきているので、忠誠度は確かだ。


「この身を挺して若様をお守りいたします」


 孫堅に、次いで孫策に拳礼をする。


「急ぐ故直ぐに出ます。それでは明日の朝にでも」


 洛陽と孟津は二十キロと離れていない上に、街道は整備されているので回り道も殆ど無い。関所のような部分はあるが、それでも行って戻って来るだけならば時間はさほどかからない。それなのに朝と言ったのは兵糧を伴ってくるとの心意気の表れだろうか。


 残る僅かの食糧を皆で等しく分け、一口だけの麦と水で腹を膨らませた。兵は不満があったが、大将である孫堅も同じだけしか食べずに、息子が食糧を貰いに休みもせずに走っていると聞かされたので今日のところは我慢することにしたらしい。


 深夜を越えてシーンと静まり返り、風の通る音だけが聞こえてくる。見張りの兵士は数が少ない、何せ城壁に囲まれているから。だが通用口からこっそりと入り込んだ兵が、音もなく洛陽城の西側に溜まる。千人単位で集まるとついに行動を起こした。宮殿付近に転がって寝て居る孫堅軍を攻撃しだしたのだ。


「て、敵襲!」


 寝起きでわけがわからずに警戒しようとするが、まずは何処で寝て居たかを思い出し、方角がどうだったかを思い出す頃には混乱に巻き込まれてしまう。どこからともなく現れては襲い掛かってっ来るので何ともならず、収拾をつけるのを最優先しようとする。


「皆の者、城外に出て戦うぞ! ついて参れ!」


 松明を持って軍旗を掲げると、孫堅は東門目指してゆっくりと進む。途中で合う仲間は出来るだけ密集するように命令して、外へ出ることと敵味方の区別をつけるのを目的とした。東門の外で軍旗を立てると、太鼓を鳴らして集合を命令する。そのうちに夜が明けた。


「ううむ、あれは胡軫軍団だな! 城内で夜襲を受けるとは!」


 どうやら結構な数が城内に居るようでこのままここで戦うのは上手くない。連合軍の陣営に戻るべきかそれとも……孫堅は決断を迫られる。孫策も別行動だが、待っているわけにもいかない。


「総員聞け! 我等はこれより南下し荊州へと向かう、遅れるなよ続け!」


 玉璽を手にした、これを持って連合軍本営に行くよりも一旦領地で態勢を立て直した方が色々と見通しがつくと進路を定める。本来ならば東へ行くべきところを、突然南に折れたから胡軫も驚く。どこかで情報が漏れたのかと考えたが、そうならば夜襲を受けはしないだろう。


 五千程の数になり孫堅軍が移動を始めると、洛陽城から同数程が追撃を仕掛ける。それを見て東の山地からも王方部隊が現れて孫堅軍へ向かって行く。


「むむむ、朱治よ先行して足止めが容易な場所を調べて参れ!」


「御意!」


 五十騎が先行して土煙を上げて走っていく、だが歩兵は速足以前の速度でのろのろと移動を続けた。追いかける方も同じなので脅威は少ない、だが追われている者の真理としては良くなかった。


 各所の砦に兵が残されているので、ここぞというところで近道を選択できないのは痛手だ。空腹のせいで歩みが遅くなっていくのも辛い。二時間も行軍していると、朱治が戻って来る。


「この先の伊河を越える石窟という場所が守りに適しています!」


 山地があり、河を挟んで平地があった。その平地の手前に石窟という郷があり、山間の道になっている。ここをやや西に行けば直ぐに平地になるので関所もなにも置かれていない、だが今はその回り道が時間の浪費になり面白くない。


「程普! 騎兵を率いて石窟に陣を敷くのだ、一隊を据えて敵を足止めする」


 いち早く騎兵だけを到達させ、そこで郷の住人らを動員して瓦礫で防備を敷かせるとともに、食糧を徴発する。手持ちの銀銭を全てくれてやると、納得して協力してくれた。遅れてやってきた本隊、無傷で戦える兵が千人選ばれると飯を与えられる。


「この場は某が指揮致しますので、どうぞ荊州へお向かいを」


「すまぬが程普、後は頼んだ。必ず落ち合おうぞ!」


 ここでも一口だけの飯を腹に入れ、さっさと河を渡る。船頭は渡し賃さえもらえれば後はどうでもいい、必死になって何度も往復をし続ける。五日も南へ行けば荊州だ、郷里に帰ることが出来るならばと我慢を重ね、翌日になりようやく郷でまともな飯にありつけた。


 そこでもさして休むことなく、敗残の軍が歩き続ける、荊州の端に辿り着いた時には脱走兵もあり数は千人程にまで減っていた。だがようやく安全圏に来ると、胸をなでおろして顔を上げることが出来た。


「伯符よ、無事で居てくれ。島介殿、頼み申すぞ」


 離れたが最後、二度と顔を合わせることが出来ないことなど幾らでも考えられた。だが行った先が戦友であることに多少の望みがある、孫堅はこれより暫く長沙に滞在することになるのであった。


 初平元年、三月下旬。孫堅が今まさに洛陽から領地へと撤退していく中で、孟津を占領していた島介のところに僅かな騎兵がやってきていた。年若い武者と、それを補佐すべく寄り添う黄蓋だ。それに付随する兵士が一握りのみ、どれもこれも傷を負っていて散々な状態になっている。


「止まれ、何者だ!」


 街の外で兵士に止めだてされると、中年の部将が「長沙太守孫堅が長子、孫策が島将軍へ言伝を持ち参った。某は黄蓋と申す、お取次を」乱れた姿でも礼儀を以て申告する。ただごとではないと感じた兵士が、当直の部将である趙厳へ伝えると直ぐに島介への面会が手配された。


 異常があれば直ぐに上長へ連絡をあげるようにとの命令が徹底されていた。ではなぜ当直が居るのかと言うと、その場で対応しなければならないことがあった際に、即座に行動が起こせるように。即ち、少しばかり先の丘にまで追撃者が見えていたので、手勢を率いて追い返すため出撃したというところまでが趙厳の仕事といえる。


 外套が破れ、甲冑に若干のへこみや傷があるが孫策自身は全くの無傷。黄蓋は少しばかり怪我をしているが、目下のところそばを離れて治療するといったほどではない。樽を椅子代わりにして将校が集まっている場に案内されると、すぐに島介を見付ける。


「島将軍、孫伯符です!」


 一報は受けていたが、争いの跡がそれなりに見て取れたので島介はいくつかの状況を想定し、最悪である部分を見越し近侍に洛陽の偵察を命じさせた。


「孫策か、その恰好はどうした?」


「要所の砦を通過するに際して、守備兵に邪魔だてをされたので一戦して参りました」


 はきはきとこともなげに言う姿に好感を持つ。恨み言も焦りもない、ただ事実のみを簡潔に報告する態度が、軍人として誠に宜しいと。


「ははははは、襲ってみたら相手が孫策では、守備兵も災難だったろうな」


 冗談を飛ばして椅子代わりの粗末な樽を勧めると、用件を尋ねた。ここは宮殿でも無ければ、格式にこだわりたいと思う高官や諸侯らは誰もいない。


「手勢を幾らか失いましたが、それに十倍する敵を切り捨てました。父上ですが洛陽城に入り今宵を明かす予定です」


「うむ、どのような状況だった?」


 現状を知る者の言葉を聞きたいと荀彧が耳を澄ませてじっと孫策を見詰めている。


「はい、街も宮殿も焼け落ち、人の姿はなく、全てが持ち去られ破壊されていました。廃墟という言葉がしっくりとくるでしょう」


 答えは解っていたが、それを目にした者が口にするとまた重みが違った。真っ新な土地に街をつくるのよりも、これを復興させる方がより難しいのは恐らく多くが想像するだろう。


「そうか。それで孫堅殿は」


「軍に補給が全く届かず、孟津の島将軍に食糧を借りることが出来ないかと自分を派遣しました。袁術様が約束を守らなかったのか、それともどこかで襲撃にもあったのか不明ですが、現実に兵が腹を空かせている始末。恥ずかしいことではありますが、どうか拝借させていただけないでしょうか」


 孫策と黄蓋が頭を下げる。こうなることが目に見えていたので、事前に忠告はしたのだがやはりそうなった。だからとそれを指摘しても関係性が悪化するだけで何の利益もないが。


「ああいいだろう、わざわざ孫策が来たんだ、手ぶらで帰らせたら俺が笑われてしまう」

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