第266話

 曹操は小刻みに頷くと、諸侯らを一人一人見詰めて後に袁紹に向き直る。


「盟主殿、どうやら董卓は洛陽を焼き払った様子。これは一大事ですぞ」


 全てを脇に置いてまずしなければならないことをしてしまう。


「孟徳よ、何故董卓が都を焼くような必要があるのだ」


 誤報、あるいはなにかの策略であろうと問いかける。実際に洛陽が焼き払われるよりも、はるかに可能性が高い。問われた曹操は中央の絨毯の上をゆっくりと歩く。


「都は長安に移り、献帝も朝廷も今や長安。かつての縁の地であるのは事実ではありますが、京兆尹は河南尹には及びません。それでも長安を都にするというならば、必要な措置であるからでしょう」


 ここまで言うと、諸侯のうちでも気づく者が現れる。袁紹はと言うと、理解はしていないようだった、袁術も然りだ。曹操が気にしたのは三人、孫堅、島介、張貌だ。もしかして、との顔をしていたのは張貌だけ。


「……だとしてもどうして?」


 袁紹が諦めて無知を晒す、多くの諸侯が答えを聞きたがる。自身の口から言うべきか、それとも誰かに任せるべきかを思案する。自身の見識を売り込むことにしようと自ら口を開いた。


「住む家、食べるもの、皇帝陛下が無い洛陽から、住民を長安へ動かす為に焼いたのでしょう。我々に利用されないよう念入りに」


 敢えて皇帝のことを最後に上げた。多少なりとも嫌な顔をした奴はまだマシなのかもしれないが、諸侯のなかでは孔抽と橋瑁しか居なかった。チラッとだけ劉備も見たが、相変わらず一切の感情が見えてこない。


「何かしらの罠という線はないでしょうか、曹操殿」


 橋瑁とてそこまでして罠にかけるようなことはないと半ば解っている、だが素直に認めたくないので牽制をした。


「さてどうでしょうな、孟津を手にしておればもっと詳しい情報もあり判断のしようもあったかも知れませんな!」


 折角手薄な要所があるというのに、宴会を続けることしかない諸侯にいら立ってしまう。かといって前進しようとすれば足を引っ張り功績を独り占めするなと言わんばかりの言動があるのにだ。


「より詳しく調べてから動くべきではないでしょうか。其敵を詳細に知るは兵法の基本であると」


 孔抽が珍しく直接的な発言をした、先ほどの献帝を蔑ろにした言葉が余程気に入らなかったらしい。それは橋瑁も同じであろうが。ということはだ、これは意図して誘導された発言である可能性がある。ガタッ。椅子を蹴って立ち上がる男が居た、孫堅だ。


「某、董卓と戦うためにこの場にやって来申した。いつまでも座しているつもりはござらん。我が軍は洛陽へ進出させていただだくゆえ御免」


 踵を返して集まりを抜けていくと、江夏太守の劉祥もまた一礼して座を抜ける。劉祥については孫堅の部下なので不思議はない。唖然としている諸侯、かといって正気を取り戻して後を追うわけでも止めるわけでもない、まるで痴ほうのようだ。


「盟主殿、本日の酒宴はお開きになされては?」


「うむ孟徳、そのようにしよう。諸侯らよ各自の幕へ戻られよ」


 考えが渦巻いているのはわかるが、それを御するだけの力が誰にもない。連合の弱点がこれだ、逆に言えばその時に自由に動けるのが強みでもあるだろう。


 軍営の大きな枠の出入り口を抜けて行こうとする騎馬集団の先頭を行く騎兵に話しかける姿があった。


「孫堅殿、洛陽に集まる部隊を攻撃しようと伏せている軍がいると思われるので注意を」


 異変が起こっているのを確かめようと近づく軍を狙う、なるほど誘引の効果がある。


「島介殿かたじけのうござる。某はあのような集まりは好かぬのだ、許されよ」


「俺も出来れば関わり合いたくはない、だが集ってしまった以上は無視することも出来なくてね。時に軍糧を余分に携えていくのをお勧めするが」


 外の軍陣に積んであるのかは知らないが、本営から出るのに荷馬車が全然ない。戦闘部隊が引き連れていくのは少ないが、全くないのはおかしい。


「それは袁術様が補給してくださるという約束なので心配無用。三日分は所持してござるよ」


 食糧総監として補給の総括をしているので、確かに孫堅の言葉は正しいのだろう。それでも自前で供給できるようにするのを制限されるものではない、曹操のように手持ちがなければ要請をした方が助かる。その原資は各諸侯らからの積み上げと、冀州牧韓馥から輸送されてきているものだ。


「こちらは孟津で船の徴発でもしに行って来るつもりだ。何かあれば伝令を寄越してくれ」


「我が戦友の島介殿に感謝を」


 互いを認めて礼を交わす。孫堅の後ろに居る諸将らも島介に礼をした、それぞれと目を合わせてから孫堅に戻す。


「では武運を祈る、再会したら一杯やろう」


 にこりと笑うと隊列を見送る。その姿を遠くで諸葛玄が見ていて、すっと袁術の幕へと戻って行く。この諸葛玄は諸葛珪の弟で、洛陽に郎官として出仕していたのを袁術に引き抜かれて以来幕に連なっている。諸葛珪とはかの諸葛亮の父親で、諸葛玄は孔明の叔父ということになる。


「袁術様、孫堅殿が出立いたしました」


「そうか、諸葛玄殿はどう思う? あの孫堅のことだ、不覚はとらぬであろうが」


 荊州で領地を宛がい盛り立ててくれた恩義が袁術にはあり、孫堅のことを気にかけている。なにせ優秀、現在の武勲名声で言えば朱儁、皇甫嵩らに次ぐだけのものがある。


「それですが、能力が高いのは間違い御座いません。ですが、荊州の平定に引き続き洛陽の奪還までされてしまえば、袁術様を蔑ろにする恐れがあるのではないでしょうか?」


「それはどういうことだ」


 眉を寄せてじっと諸葛玄を見詰める。代々二千石の家柄である諸葛家、ただ前を向いていれば良いわけではないことを深く知っている。そして名士とは他者の言に耳を傾ける者であると袁術は信じていた、少なくともこの時点では。


「奸臣である董卓に焼かれた都をいち早く取り戻した英雄、世間は孫堅をそのように見るのではないでしょうか? もしそうなれば立場は上がり、賞賛を得るでしょう。名目上は下手に出るかも知れませぬが、全ては孫堅の胸先次第で命令には従わなくなるかと」


 世の中は実力こそが尊い、力なきものがなにを言おうと誰も従いはしない。それは献帝を見ていれば明らかだ。


「ではどうすれと言うのだ、私は本営にあって動けはしないのだぞ」


「簡単なことで御座います。孫堅一人にばかり功績を上げさせないだけで宜しいのです」


「では董卓に与せよとでもいうのか、そのようなことはせぬぞ」


 流石にそれは面白くない、敵に手を貸すなどもってのほかだ。諸葛玄は表情を変えずに応じる。


「なにもしなくてよろしいのです」


「はて、それは?」


「言葉の通りに御座います。孫堅は軍糧を携えずに前進致しますので、袁術様は補給を与えなければ、孫堅は仕方なく引き返してまいりましょう」


 袁術は目を大きくして言葉の意味を理解しようとした、裏切り行為である、だがそうすれば恐らく孫堅は撤退せざるを得ない。だが怒鳴り込んで来るのは明らか、知らぬ存ぜぬと白を切ることは出来ない。


「それでは孫堅に恨みを買ってしまうが、どうするつもりなのだ」


「行破虜将軍に推薦し、補給隊を出した事実を作ります。その部隊は途中で襲撃されたという体で残骸だけを残しておけば孫堅も強くは言えぬでしょう」


 輸送隊が途中で消えることはよくある、突出する部隊があれば補給を受けられないのはそれこそ日常茶飯事。事実手配をして送っていたならば、届かないのは袁術の責任だけではない。そこへ来て将軍への推挙までしてくれているならば、一方的に責めるのは流石に難しかった。


「……わかった、そのようにしろ。だが補給の任をそなたに一任するゆえ責任は取るように。上手く行けば褒美をとらせたうえで県令に推挙しよう」


「かしこまりまして」


 賞罰を明確にする、時と場合で様々な結果に切り替わることをその身をもって知ることになる。



 洛陽の南にある小さな山地、と言っても一万人が隠れるには大きすぎる場所に伝令がやって来る。討議をしていたのを中断し、報告を上げさせた。


「洛陽の傍に孫堅軍が現れました、その数凡そ七千!」


 正確な数字かどうかを過去情報から脳内で確かめる、騎兵は五百そこそこで歩兵は五、六千というのを聞いたことがあったので、ほぼ全軍で動いているだろう推測をした。

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