第252話



 途中面倒ごとがあり、三日目にようやく濮陽に辿り着く。実は曹操、このあたりには土地勘があった。直ぐ北に在る頓丘県の令として一時期赴任していたことがあるから。橋瑁との面識が出来たのも実のところその時のこと、旧交を温めるにも丁度良い。


 訪問を伝えると橋瑁も喜んでこれに応じてくれた。相手が誰であれそうだろうことは、人物像からも確かである。会って話を聞くくらいならば、そのような男なのだ。


「元偉殿、お久しぶりに御座います。曹操が参りました」


 ここでも笑顔でそう言葉を放った。東郡殿、あるいは太守殿と呼ぶのが一般的であろうところを、親しさを全面に打ち出してだ。無論橋瑁とて悪い気はしない、自分を慕ってくれている者として扱う。


「いやいや孟徳殿もご壮健のようでなにより。ささ、どうぞ中へ入られよ」


 肩に軽く手を当てて太守自ら招き入れる。席を設けると島らと同じように二人が上座に腰を下ろして酒を酌み交わす。頃合い由と見てついに曹操が切り出す。


「董卓が恐れ多くも帝を廃し、相国を名乗り勝手千番の振る舞い。士の多くが胸を痛めております」


「ふぅむ……それについては私もだ。おいたわしいことに、先帝陛下も命を落とされて。世が乱れているのは我等臣下が不甲斐ないがゆえ、お察しいたします」


 皇太后が逝去した、その月のうちに弘農へ落とされた廃帝が同じく世を去った。誰の目にも明らかで、謀殺されたに違いない。証拠など探せば幾らでも出ては来るだろうが、それを裁く人物ことが犯人であれば申し立てたところでどうしようもなかった。


 せめてもの救いがあるならば、献帝の手で母子ともに傍の陵へと葬られたことだけ。


「私は同志と共に立たねばなりません。ですがそのためには大義名分が必要になります」


 それぞれが想いをもって立ち上がる、それはそれで良いが、もっと多くの者が納得する何かがあってしかるべきだ。実のところその為に曹操はここにやって来ていた。


「董卓を討てとの勅令でもあればよろしいのですが……」


 皇帝は宮殿の奥深くに半ば軟禁されるかのように押し込められている。連絡を取るためには董卓の側近の目をかいくぐり、三公らの立ち合いの下でやり取りをするしかない。


「それですが、三公らの連名で陛下のお気持ちを伝え聞くことはできないでしょうか」


 文書にせずとも勅令は生きる。ならばその言葉を聞いたと三公が認めれば、勅令同様の効果が得られるとのことだ。董卓が相国に移って以来、司徒は楊彪、司空は荀爽、太尉は黄碗に変わっていた。一年に四度も入れ替わって忙しい限り。


「それもまた難しいでしょうな。確かに三公の言葉があればとは思うが」


 夏侯惇はここでピクリとした、曹操の口元が一瞬だけ笑ったように見えたから。そしてその笑いはいつもの作ったものではなく、本心から出て来たものを無理矢理に抑えたものに思えた。


「三公の檄文があれば、同志らが立ち上がり国を救うでしょう」


「うむ、そうであろう。だが――」


「元偉殿、貴殿はかねてより大将軍何進に呼ばれ軍を率いて洛陽の周辺に屯しておりました。昨今撤兵し東郡にありますが、その際に三公より檄文を与えられ帰還した。いかがですか」


 表情を殺して曹操は意外なことを言う。橋瑁は一瞬意味が解らずに顔をじっと見つめてしまった、その後に眉を寄せる。


「孟徳殿は私に嘘偽りを公言しろと仰せか」


「嘘ではありません! 献帝陛下は今や董卓に捕らわれの身。三公らも心を痛め、まさに董卓を除けと願っておりますればこれこそが真実です。ならばその心を檄文として諸侯に届けて何が悪いでしょう!」


 大真面目にそう言われて橋瑁が閉口する。事実である。それを自身が直接耳にしていないだけで、まぎれもなくその通りだろうと解っているのだ。ではそうだと檄文にすると何が起こるか、想像するとあまりにも荷が重い。


「志とは軽いものなのでしょうか。辛く険しい道のりがあり、その先に成り立つものではないのでしょうか。貴殿を始めとした官らは、陛下の御為に世を導くのが役割なのではありませんか。何故道が分かっているのに躊躇をするのか!」


「わ、私は…………」


「いま私は全ての官職を失い無冠の身。出来るならば自分でやっておりましたが、刺史を経て太守の座にあり、名声高い貴殿が檄文を預かったとした方が、より多くの同志の心を揺さぶります。何卒ご決心を」


 曹操が拱手して深く深く頭を下げる。橋瑁は中空を見詰め、やがて大きく頷いた。


「承知しました。孟徳殿、どうかお顔をお上げください。貴殿こそ真の忠臣というもの。三公の檄文をしたためますので今しばらくお待ちを」


 目に強い意志が宿った橋瑁が偽造した檄文は、中平六年十二月、各地の諸侯の手元へと届くのであった。


6


 外に雪がちらつく中、屋敷に伝令が駆け込んできた。陳留の冬は寒い、とてもではないが外で過ごすのは遠慮したいところ。


「島長官へ申し上げます! 己吾県で曹操が挙兵し、反董卓を掲げて酸棗へと行軍をしつつ兵を徴募しております!」


 近いうちにこうなることを聞かされていたので、島は落ち着いて伝令をその場に留めて側近らを集めるように命じた。二時間とせずに小黄城へ出ていた者らも全員が集う。荀彧が部将らに告げた。


「曹操が行奮武将軍を称し、己吾で挙兵、徴兵をしつつ酸棗へ向かっているとのことです」


 奮武将軍は雑号将軍であはあるが、前漢の時代からある伝統的な称号だ。その上で、正式な任官を董卓がさせるはずがないので曹操が上位職を代行する意味で、行の字を当てている。下位の職を兼務するならば守、総括して臨時ならば領、事務のみならば署、他にも時代や意味合いで様々存在している。


「陳留太守はこれを支援する姿勢だな。島殿も動きますか?」


 こうなると想定していたのは何も少数ではない、張遼もいつかこうなると見ていた。こんなものは世間を見ていれば一定数が感付く。


「そう焦ることはないぞ。この雪だどうせすぐには動かんさ、冬支度をして寒さに耐えられるよう準備だけしておけ」


 逆に言えば挙兵した事実が広まるが董卓も軍を送ることが出来ない、様々考えた上での時期なのだろう。一番にはせ参じたからどうだというわけでもない、ならば様子を見て重い腰をあげるというのが主流になるはずだ。どれだけ固く約束をしていても、言い訳をして遅れる。


「三公よりの檄文が飛び交っております。ですが眉唾物かと」


「どういう意味だ?」


 荀彧が憶測だけでもの言うはずがない、何かしらの確信があってのことだと先を促す。この場の誰よりも情報通であり、その方面では対抗することが出来ない部将らは沈黙を保つ。


「橋瑁が当時の何進大将軍に呼ばれて洛陽外で待機をしていた頃から、領地に撤兵するまでの時期としてはつじつまが合います。ですが董卓が三公を離れた後には荀爽叔父が就任しております、ならばそのような書を認めるはずが御座いませんので」


 確かに董卓が自ら自分を排除するよう檄文を出すはずがないので、その後の三公という話になる。ところがそれでは楊彪、黄碗、荀爽の三人の仕業と言うことだが、ことの真相を知っている島と荀彧は、荀爽が正体を隠して行動するつもりだという大前提を得ていたので矛盾する。


 どこかに綻びがあれば矛盾が浮き彫りになって来る、では動かぬ事実が正しいとすれば、誤っているのは檄文そのものになるのだ。


「偽物を流布か、曹操の奴めヤったな」


 軽く笑って少し前のめりになる。荀彧も笑みを浮かべて目を閉じてしまった。部将らは、ほぉ、と声を漏らして感心している。情報操作も能力の内、騙される方が悪い。ところが世間では知っていてわざと騙されたふりをして、更なる躍進を狙う輩が割拠している。

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