第238話 歩兵校尉恭荻将軍


「それは皇帝の守護だから、でしょう」


 わかるようでいて、わからない者にはわからない物言いに、孫羽は鼻で笑った。右手で髭をしごいてこちらを見詰める。


「言い替えましょうか。皇帝を優先しなければならない立場を放棄したかったからではありませんか」


 国家の臣下として何を言っているのか意味が解らない、通常ならばそうだろう。だが俺達にはイレギュラーがあるからな。筋が通らないこの説明に、ようやく反応を見せる。


「守護なぞ董卓の小僧にくれてやるわ。見たであろうあの聡明さを」


 そいつに関しては確かに同意だ。子供の頃の劉協には多大なる可能性が見いだせた、これが長年の精神圧迫で小さくなっていったんだろう。


「控えめに言っても逸材でしょう。無事に成人するまで、自分は全力でこれを支えるつもりです」


「ふん、お前のようなガキに何が出来るというのだ」


 目を細めて牽制された。確かにそりゃそうなんだが、やられっぱなしは性に合わないからな。


「自分はまだ二十年でも三十年でも生きて役に立てる見込みがありますので」


 隣の癒彫が冷や汗をかいて天井をじっと見つめている。気持ちがわからなくもないぞ、まあ知ったことでもないが。


「はっ、言いよるわい! はっはっはっはっは!」


 声を出して笑うと、突然目を閉じた。どうした、電池が切れたか?


「……儂はそなた程の年の頃、張洪将軍の娘を妻に貰った。その妻が娘を産み、命を落としたのだ。匈奴戦線に在った際にその報を聞いた時、膝から崩れ落ちそうになった。十年以上も異民族と戦う最前線に在り続け、ある日都から都司空丞がやって来て罪を問うた。異民族と示し合わせて戦を長引かせているのではないかと」


「バカな!」


 中央の役人が考えそうな下らん言いがかりだ!


「張洪将軍が儂を庇いたてて官を去った。それから十四年、娘が王氏に嫁いだ。安北将軍・北河太守・仮節を与えられ北匈奴と幾度も戦い季節が過ぎ去ると、孫娘が帝の妃として嫁ぐことになったと聞かされた時は驚いたものだ。協が産まれ孫娘も健在でどれだけ心が満たされていたか。だが何皇后により孫娘は毒殺された」


 そいつは聞いている、嫉妬の類だろうなって。なまじ身分が高くなってくると、平和に生涯を過ごすことすら出来なくなるんだよな。


「協はまだ幼い。儂が協のことを後見してやれる時間はあまり長く残されておらん。だが右を見ても左を見ても、敵ばかり、時に協を利用してやろうと考えているものがすり寄る位だ。情けない、儂は志を持つ者を育てることが出来なかった。何が将軍だ! 何が列侯だ!」


 そこで咳き込む。癒彫が背をさすってやり落ち着くのを待った。軽く手をやって離れろと追いやる。


「だが天意だのなんだのと言い、絶望の淵にあっても協を裏切らぬ者が現れた」


 立ち上がるとゆっくりと近寄って来る。両手を伸ばして肩に置いてきた。


「儂がしてやれることは少ない。島介よ、志を託しても良いだろうか? 頼む、協を支えてやって欲しい」


 頑固一徹の爺さんが涙を流して懇願する。見てはいけないものを見たような錯覚に陥りそうになってしまった。


「頼まれずとも、自分はそうするつもりです。その為にここに在るのですから」


 小刻みに頭を上下させると、呼吸を整えるのにやや時間を要した。癒彫に支えられて椅子まで戻ると、顔をあげてこちらを見る。


「もう寿命が長くないことは己が一番よく知っておる。孫家の財産一切をそなたに託す。引き受けてくれるだろうか?」


 一歩下がり片膝をついて両手を胸の前で合わせ、頭を垂れる。


「この島介、孫羽将軍のお志を引き継がせて頂きます!」


 この人物は本物だ、歴史の狭間で名を忘れ去られた英雄だろう。寿命とは人に与えられた許しでもある、だが志は永遠を臨めるものだ。


「孫伯麗が島伯龍へ願う」


 孫羽もまた両膝を床につけて頭を垂れた。また咳き込んだので「閣下、どうかお休みになられてください」癒彫が肩を貸す。これ以上ここに居ると負担になるな。


「将軍、どうかお休みになってください」


「ああ、そうさせて貰う。伯龍よ、今後儂のことは長官と呼べ」


「承知致しました」


 ということはここの武兵らは皆……そういうことなんだろうな。肩を借りて寝所へ行く後ろ姿を見送ると、俺は屋敷を後にした。羽長官か、あの動乱の時代を見ることなく世を去ったのは、或いは幸せだったのかも知れないな。


 数日後のことだ、孫羽が死去したと急報が舞い込んできたのは。葬儀は国葬として行われ、喪主は劉協が務めることになった。異例のことではあるが、少帝が特にそれを許したので特別にそのようになったのであった。


登場人物などの寸評や職務

・島介 伯龍(153年産相当)恭荻将軍 身長180?前後の我等が島将軍。現代で二十年、三国志の世界では十年位は戦場で過ごしてきた戦士で司令官。いくつもの言語を理解する。


・張遼 文遠(島-12歳、以後省略記載)恭荻将軍司馬 雁門出身の元官吏。男なら立身出世を、と夢見て島を誘い旅に出て以来配下として身を置いている。他者との相性にやや難あり。


・荀彧 文若(-10)恭荻将軍長吏 潁川出身の名族荀氏の一人。若き日に、島に将来を予言され、それに驚き配下になる。その後、心を通わせ主と仰ぎ補佐をすると決意した。独自に様々な人材と繋がりを持っている。


・典偉(-3)恭荻将軍従事 陳留出身の一般人。伝令として結構あちこちに出入りしていたことがある。島と殴り合って互いを知り、以降供にあり島を親分と呼んで慕っている。自分を前に出すことが極めて少なく、相性を問わない。


・甘寧 興覇(-6)恭荻将軍司馬 巴出身の江賊山賊で鈴羽賊と呼ばれていた。江南で島と戦い、指揮でも個人戦闘でも破れ、力づくで配下にされていた。共に在るうちに馴染んできたところ。独自の部下を抱えている。


・文聘 仲業(-14)恭荻将軍主簿 南陽出身。盧江で単身遊学していたところを島に誘われ行動を共にすることになった。穏やかな性格で丁寧。司令官に適するが、戦闘指揮官としては並。


・荀彧 友若(-8)恭荻将軍従事 潁川出身の名族荀氏の一人。従弟の荀彧に願われ島を一時的に補佐することになった。


・荀攸 公達(-3)黄門侍郎 潁川出身の名族荀氏の一人。荀彧の甥だが年上。荀彧に願われ島を一時的に補佐することになった。


・陳紀 元方(+24) 潁川出身の名族陳氏の一人。陳子の著者でもある。中原から江南へ避難し、県令時代の島の庇護下に入ったことがある。島の志に触れ信用を得た。


・陳韋 長文(-13) 潁川出身の名族陳氏の一人。中原から江南へ避難し、県令時代の島の庇護下に入ったことがある。


・辛批 佐治(-15) 潁川出身で陳韋、辛批、杜襲、趙厳は四氏名が知られている。中原から江南へ避難し、県令時代の島の庇護下に入ったことがあり、辛批、杜襲、趙厳は潁川でも避難先でも同じ家で暮らしていた。


・杜襲 子緒(-16) 潁川出身で陳韋、辛批、杜襲、趙厳は四氏名が知られている。中原から江南へ避難し、県令時代の島の庇護下に入ったことがあり、辛批、杜襲、趙厳は潁川でも避難先でも同じ家で暮らしていた。


・趙厳 伯然(-18) 潁川出身で陳韋、辛批、杜襲、趙厳は四氏名が知られている。中原から江南へ避難し、県令時代の島の庇護下に入ったことがあり、辛批、杜襲、趙厳は潁川でも避難先でも同じ家で暮らしていた。



 さて守護を得た董卓だが、ご挨拶だ、劉弘が罷免されて司空に任命されたわけだ。何だか意外だ、軍権を握りに来ると思っていたが違うんだな。屋敷で報告を聞いたのちに、荀彧がやって来る。


「聞いたか董卓のことを」


 こいつが知らないはずがない、変な確信だとは思うがね。ここに来るまでにあれこれと考えを用意してきてるに違いない。


「存じております」


 にこやかに肯定する。小さく頷いてやり視線をやって先を促した。


「司空でありますれば司徒の副でありますが、司徒の丁宮殿は先だって免官しておりますので、国政を取り仕切る責務を一身に受けていることになります」


「俺の記憶では董卓は武官だったはずなんだがね」


 肩をすくめて概ね共通するだろう寸評をぶつけてみる。地方の行政官を兼務している事実はあるが、基本軍官として異民族を相手にあちこちに出向いたり、反乱を鎮圧に走っていたはずだぞ。黄巾賊相手では手を抜いていたのか功績はあがっていなかったがね。お陰で当時、俺が迷惑を被ったわけだ。


「左様に御座います。司徒を据えるまでの臨時とのことでしょう。太尉である劉虞殿下は、歴史に無い初の在外任命であり、未だに都へと帰着しておりませぬので、三公が一人しか都にない異例の事態に御座います」


 上公ってのは皇帝の近侍でもあるからな。傍で目を光らせる為に敢えて名目を持ったのが、逆に実権を握る手段にもなっているわけか。


「劉太尉はいつ頃戻るんだろうか」


 任じられたのは今年の春のことだったはずだ。色々ありすぎて全く頭に無かったよ。もう夏も終わって陽が短くなっていくってのにな。


「幽州の牧であり、民の強い要望で引き留められている上に、烏桓らもよく懐き彼の地を退くことはないでしょう」


 という事情があっての司空か。一方で俺は司馬を失ったので、恭荻将軍、歩兵校尉なわけだが、随分と差があるな。まあ国を支配するのが目的じゃない、俺は劉協を保護し、支え、共に歩みたいだけだ。


「何皇太后の様子はどうだ」


 何進だけでなく、同時に何苗まで失ってしまい、肉親の力をあてに出来なくなり不安を持っているはずだが。


「お心を痛めておられます。兄らのことだけでなく、董卓の少帝陛下への態度からのことであります。当代を廃立し、別の者を皇帝に立てようと算段しているとの噂も」


「それでは何皇太后も穏やかではいられんな。そのような蛮行を断固許さぬ者が多かろう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る