第214話
素直で元気な奴らは気持ちがいいな。五百の軍勢で山の中をゆっくりと進んでいく、出来るだけ道を拡げるような感じでだ。開削までは出来ないが、人間の通り道だぞという位に足跡を残すことは出来るからな。
山脈の切れ目はなさそうなので、二つの山の中央を選んで出来るだけ標高が低いところを越えるために進む。そのうち陽が暮れそうになってきたので今夜はここで宿営ということにした。
「ここで止まれ! 野営をするぞ、寝床を作り飯の用意だ。一隊は周囲の警戒を怠るな」
気が抜けたところを奇襲されてはたまらない。石や枯れ木を集めさせて、周囲に防壁を構築する、面倒だがこれが有効なんだよ。小川や湧き水を探させて、飲み水の確保も出来るだけ今のうちにやっておく。備蓄を減らすのは最後の最後だぞ。
深夜になると獣の遠吠えが聞こえた、夜行性なら囲いを飛び越えて来ることもあるだろう。篝火を絶やさないようにさせて、敵軍を警戒するような対応をさせた。すると兵士からこんな声が上がって来た。
「見通しが良い高地です、そんなに神経質にならなくても」
見張りは睡眠時間が削られるし、そりゃやりたくはないのは解るぞ。士気が低いのはある種仕方ないが、俺には軍を運営する義務と責任と権利がある。
「軍令が聞こえなかったのか? 俺は敵軍が居るものとして警戒しろと言った」
冷静に感情を押し殺してじっとそいつを見て問いただす。すると兵士は顔を蒼くして「た、確かに! ご命令通りにします!」大慌てで逃げていくと、同僚と共にそそくさと外縁に見回りに行ってしまう。
ふう、こんなことも一から教育とは、何とも困ったものだな。怒鳴っても改善はしない、繰り返し教えていくしかないんだ。
「我が君、いずれは部曲兵をお抱えになれば、此度のようなことも減るかと」
「わかっているが食わせていける基盤が無い。俺は搾取するつもりはないんだ」
県令の立場で多めに徴税して、それで手下を養えばいいんだ。私兵を抱えたらさっきのようなことは確かになくなる。
「では搾取ではなく別の方策をおとりになられてはいかがでしょうか」
「別の? それは一体」
「家業を持たれるのです。郎党を定め、それらに産業を持たせ、利益を還元し、家々より兵を出させる。それらを引き連れ県を移動することも可能なれば、多くのわずらわしいことが霧散するでしょう」
収入源になる民を自前で用意するってことか! 手に職を持っていて農民でなければ、確かにどこででも仕事は出来るな。この時代の鍛冶窯も大規模なものでなければ石窯を分解して運ぶことも……いや、それこそ現地調達が出来る。
「そいつは魅力的な考えだ。検討しておこう」
問題は俺に従ってくれるような奇特な民がそこまでいるのかって話だよな。インフラが無くていいなら、それこそ集団で好きな場所に行って村を作ればいいか。河沿いなら案外何とかなるんじゃないかこれ?
「お気に召していただけたようで。最大の懸案事項はやはり食糧になりますので、家禽の飼育や木工職人、知学、医療、商業などが主になるかと」
「うーむ、正直俺は実務に向かん。荀彧はどうだ?」
詳細を言われてもピンとこなかった、ということはダメなんだろ。見切りは早い方が他人に迷惑をかけずに済む。
「ご命令とあらば」
「こいつは俺のわがままな願いだ。もし良ければ頼む」
結局は無しで我慢しろと言われても誰にも文句を言えないし、成立しても自分が楽をするだけじゃどうにもな。だというのに荀彧は嬉しそうに「仰せの通りに」受け入れちまうんだよ。全く世の中どうなってるやら。
翌日の夕方に揖県に辿り着いた。生気が無い住民がボーっとこちらを見ているのが、なんとも不気味に思える。
「様子がおかしいと思わんか」
供回りに異常があることの認識をすると、眉をひそめて「ここでお待ちを」十数人が城の奥へと走って行った。その間も護衛が少しばかり輪を大きくして警戒をする。
「城内の民の多くがこのような状態になっています。他に異常は見られません」
この異常だけで充分だよ。何なんだこれは。
「荀彧、これはどういうことだと思う」
「妖術かなにかでしょうか? このまま放置しておくのもいかがなものかと」
妖術だ? ふむ、未知の事柄はそうなるか。しかし、こちらまで同じようになったら危険だな「直ぐに軍を離す、道を戻り陣営を敷くぞ」山林の中腹で城が臨める場所に位置度ることにする。
「百人の隊で揖県周辺の捜索を行え。偵察騎兵は夥県の様子を見て来るんだ」
五騎だけを東へと向かわせて、残りはここで野営の準備をさせた。何も原因が無いのにああはならん、かといって妖術というのはいただけないな。もうすぐ日が暮れる、百人隊が走って戻って来た、まあ早く合流したい気持ちはわかる。
「申し上げます、揖県周辺に生えていた草木の類を手にしている住民が居たので、それを持ってきました」
丸い頭をした何か、ピンポン玉のようなそれをじーっと見ていると、ふと閃く。
「生えていたと言ったな。自生していたのか? それとも畑に植えるように?」
「城の南の日当たりが良い場所に密集して植えられていました。恐らくは栽培しているのでは?」
「我が君、何か気になることがおありで?」
荀彧が草を見て難しそうな顔をする。まだそういう知識がない時代なんだろうな、そうでないならこいつは知っていそうだ。
「こいつは常習性がある毒草だ。幻覚を見るようになり、体力が失われ、集中力が低下していく。揖県の住民の間で蔓延しているんだろう、これが広がると大変なことになる、見つけ次第全て焼き払うんだ!」
「なんとそのようなものが! よくぞご存知で。してこれの名はなんと?」
毒草だと知った瞬間から兵も少し距離を置くかのような動きを見せる。
「芥子という、こいつを乾燥させて摂取することで麻薬になる。ただ触った程度では何もならんから心配するな。鎮痛剤に使えば劇的な効果を発揮するが、後遺症がきついので生きるか死ぬかの時に使うだけにした方がいい」
「薬も過ぎれば毒となる、ですか。焼却処分を進めます、兵等への訓示も行っておきましょう」
「ああ、そうしてくれ。揖県だけなら良いが……」
そういやこのあたりは東南アジアとの接点だな、何かしらのきっかけがあって阿片地獄に陥ったんだ。来年もまた見回らせて焼却してしまえば、簡単には再度蔓延することもあるまい。これから先苦しむだろうが、それはどうにもならん。
夥県を見に行った騎兵が戻り、あちらは異常がないと報告をあげて来る。その地の有力者に十本ほど実物を持って行き、警戒するようにと助言を与えた。すると揖県のことを耳にしていたようで感謝される。県令が派遣されたら従うとの言質も取れたので、ひとまずは襄安へと戻ることにした。
頸県、春穀県を経由して見聞を拡げさせて戻って来る。秋風も冷たくなってきて、いよいよ冬が近づいて来る。北方と比べると緩いが、寒気が入れば凍死だってするので甘く見てはいけない。
「我が君、宛陵より使いが来ております」
「太守から使いが? いよいよ知らんふりも出来ないな」
年単位で接触をしないことを選んだが、向こうから連絡をしてきたな。時間稼ぎは十分出来た、支配の素地もするからおいそれと悪手もうてないだろうさ。使者に会ってみると、やはり周太守が話をしたいから宛陵までこいとのことだった。
「いつかは行くつもりだった、それが今になっただけの話だな。何か懸念はあるか?」
「保身を蔑ろにしてはいけません。ここは陳紀殿にも同道を願い出てはいかがでありましょうか」
「陳紀殿を? それはなぜだ」
せっかく厄介ごとをかわすために避難してきているのに、こちらから巻き込むような真似は褒められんぞ。
「周太守はその昔、清流派の大夫陳蕃師に教え受けた人物。同じく清流派の陳紀殿が居れば、きっと厚遇するでしょう」
「もしかして陳紀殿は結構な人物だったりするのか?」
そういえば前に顔をみた朝廷の使者が驚いていたよな。
「おやご存知なかったのですね。陳紀殿は陳子を著し、先の黄巾の乱では太尉、司空、司徒、大将軍ら上公全てから是非幕下へと招聘を受けられ、これを辞退した方。入府すれば程なくして卿の位になるでしょう」
うーん、そいつは大人物だ。一方で俺はそんなのを知らずにこんな片田舎に囲っているわけか、世の損失とはこれだな。
「落ち着いた人物だなとは思っていたが、想像を越えていたよ。何なら今からでも県令を譲るぞ」
譲れるものだったか? まあ何とかなるだろう。
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