第164話
だがそれでも魏の方が兵が多い事実だよな。しかし、何故呉がこちらについたのか未だにわからん。情勢が激動している、ここで敗北するわけには行かない。何とか長平に入城したいが、そうさせまいと必死に邪魔をする呂虔軍が恨めしい。
曹真軍が鮮卑とを丸ごと引き受けているので、手が空いた買軍が長平城への攻撃に戻り、更に胡軍もそれに続いた。必死に防いでいるがちらほらと城壁の上で戦いが行われ始めてしまう。戦場を左袖に見て北から河を下って来る船が数十、そこには『陽夏』の旗。長平の城が歓声で沸く。数は五百そこそこでしかないが、西側の船着き場に到着すると城内に駆け込み東の城壁へ上がった。
「島大将軍、陳国は陽夏からの増援の様子」
「そうか」
馬謖が騎馬したまま全域に目を配り不足を補う。決戦、あるいは壮大な消耗戦だぞこれは。かつてあったらしい長平での大決戦、双方合わせて四十万や五十万が戦えるだけの広大な平地がある。その一角に閉じ込められる形で防衛をしているようでは俺もまだまだだ。
膠着状態のまま更に二日が過ぎ去り、兵にも疲労が蓄積されている。魏の水軍もちらほら現れてきては長平水軍と交戦を始めた。そんな折、東側に『青州』『程』『安東』の軍勢三万が見えてきて、河の北側を進んできた。一体どれだけの援軍があるんだよ! あいつらが河南に行くと橋を守り切れんくなるし、骨進が引き上げることになるぞ。ところがそんな簡単なことが解っていても程軍は真っすぐと長平城へ向かってきた。
「馬謖、どういうことだ、魏の安東将軍は案山子なのか」
「かつて田予将軍が北方にある時、程喜将軍を差し置いて北部異民族と交渉し戦闘し功績を上げました。本来の責任者は程将軍であったのに、勝手に事を進めた田将軍に強い不満を持って汝南太守へ転任させるよう上奏を行ったとか。これは恐らく意趣返しでありましょう」
どいつもこいつも私怨を優先させるわけか、だがそのおかげで今がある。いくらでも俺に群がってこい!
「陸司馬、どうらやこの場を死守して敵を引き付けるのが役目のようだ。入城を諦めて防備を重ねるんだ」
「はい、ご領主様!」
隙を見て長平へ入ろうとして浮ついていた時期もあった、だがここでこの場を譲るわけにいかなくなる。陸司馬の命令で防御用に装備も陣地も構築が進められていく。この場に在ろうとしているので、ついには土木工事で水濠すら作り始めた。
少量ではあるが繰り返し城から走船で糧食も運ばれてくるし、重傷者の搬送も引き受けてくれている。橋を失えば魏の船がここを通過して補給路が無くなる、確保は絶対だ。夏予には重装兵を二百配して決して退かないように厳命してある。関所の防御はお手の物だと信じている。
昼になる前に信じられないモノを見てしまった。遠く南東の空に舞い上がる砂塵、それは騎兵のものであるのがはっきりと分かった。馬謖も指さしてみるようにと複数の者らに注意を促す。大体こういう時はろくなことが無いんだ。
「交代で休んでいる者も武装させろ、いつでも防備に加われるようにするんだ。李項は夏予の後詰に回れ」
軍馬を一カ所に集めて木製の小屋に囲って保護してある、火矢を射かけられても消火用の水は幾らでもあった。親衛隊はその全てが騎兵から歩兵となり、重装歩兵と弩兵に別れて防衛の要となり位置を占めている。戦えないが重傷程でもない兵は、弩の準備役に当たっていた。
砂塵がどんどん近づいてくると、河向こうの山の影から『張』『前』の騎兵五千が姿を見せる。
「張文遠ここにあり! 田将軍そこを退け、俺がやる!」
「張都督のご命令だ、全軍後退せよ!」
大慌てで汝南軍が南へと引き下がり進撃路を開いた。橋の南側がぽっかりと空いてしまい、重装歩兵が盾を並べて騎兵団を睨み付ける。南方に行ってたのが呉の裏切りで防衛に戻るんじゃなかったのかよ、どうしてここに。
「第二線以降の歩兵に命じる、投擲布を用意し石を三投する準備だ!」
李項が腰につけている手拭いを取らせて、そこらにある石を分配するように準備命令を下した。相互の距離を取り、五人に四人がしゃがむと布を振り回す空間を確保。騎兵団が一キロまで接近してきたところで命じる。
「一投はじめ! ……続いて二投!」
放物線を描いて石が空を舞った。騎兵団が直線を駆けるのを控えて少し迂回してそれを回避する、勢いが少しだけ削がれた。橋の目前にまで進み出ると、今度は夏予が命じる。
「弩兵斉射!」
射程はさほど長くはない、だが訓練時間が短くて済むので本営では弓ではなくこちらが主流。前列の騎兵に命中すると十騎単位で転倒して脱落する。それでも敵は突っ込んで来る。
「手投げ槍だ!」
先が細くなっている投擲用の槍を投げつけると前列は左右に分かれて河沿いを走って行く。重装兵が持っている盾を貫いて穂先が歩兵の鎧にぶつかり止まった。だが重装兵以外の歩兵らは投げ槍で少なからず負傷してしまう。双方投射の応酬がされると、円を描いて最初に投擲した騎兵が矛を手にして重装歩兵に襲い掛かる。
接近戦になれば射撃兵器は使えない、互いに矛を振るっての戦い。高さは強さと同義だ、頭を割られる重装歩兵が次々と現れた。後列同士の遠距離射撃、回り込まれないだけマシだ、そう思っていた。
「二手に分かれて渡河だ!」
なんと騎兵が次々と河に飛び込むと泳いで渡ろうとする。これを許すわけには行かないぞ!
「渡河中の騎兵を狙い撃て!」
李項の命令で弩兵も投石も左右に散る、河にハリネズミになった死体が幾つも浮かんでいた。だが張遼がそんな不味い指揮をするはずもなかったことに気づくには秒の単位で遅かったかもしれない。
「橋の守りを固めさせろ!」
「突破しろ!」
俺と張遼の声は同時だった、ならば最前線で指揮する側の方が早くに浸透するのは当然。騎兵団の中央に隠れていて見えなかった、外套をはねてど真ん中を突進して来る騎兵が突撃槍を鞍に据えて重装歩兵にぶつかる。重装騎兵、こちらにいればあちらにいても不思議はない。
馬の体重を乗せた突撃が重装歩兵を跳ね飛ばして、橋の防衛隊を突き崩す。親衛隊の列を抜けると、更に食い込んでいく。混戦になれば歩兵が騎兵に勝てるわけもなく、橋から追い落とされ北側の端に寄せられてしまう。くそっ、重要拠点を失った!
「汝南軍は橋を確保せよ!」
双方に被害が出る、だが戦では失うものよりもなにを得たかが重要だ。数時間の交戦で橋への進出を許してしまい、補給路を断たれてしまう。圧倒的な劣勢に追い込まれるが、魏も自由ではない。
「張将軍、合肥の防衛隊より帰還を願う矢のような催促が!」
側近に懇願され、己の本来任務を胸の内で繰り返す。ここにやって来たのが騎兵だけなのも、歩兵を先に合肥へ向けていることと関係があった。つまりは移動時間の猶予がある間のみここで戦闘に加われると。
「ええい、後は任せた。合肥へ戻るぞ!」
点在していた騎兵があっという間に河の南に集合すると、四列縦隊になりすぐさま駆けだすと姿を消した。なんて統率能力だ、これが真の武官というやつか。感心してばかりもいられんぞ、こちらはじり貧だ。四方を囲まれ糧食も僅か、ここから離脱すべきか?
そうはいっても入城はここを維持するよりも困難だ、異民族らも正規軍に押され始めている。陽が暮れる、血路を切り拓いてこの場を落ち延びて再起を図るようにと進言してくる参謀らが居た。そうすべきかもしれない、頭のどこかで感じることはあった、だが決して首を縦に振ることはしなかった。
より包囲を狭められた朝、長平にも限界が見え始めていた。明らかに城壁に登っている守備隊の傷が深くなっている。防御陣を置かれた魏の軍陣を攻めようとする鮮卑も烏丸も、陣地戦は苦手で攻めあぐねていた。
「ご領主様、今夜が山場でありましょう」
李項が時間的な面での限界を伝えてきた、どうするにしてもここで判断をしなければならない。あらかた出てくる勢力も打ち止めで、これが全貌といった感がある。やはり魏は強大で地力で優っていたと。ふむ、ここが最期か、それも良いかもしれんがね。
「少しで長くこの場に在り続けるのが蜀軍への貢献になる。俺は逃げんし、決して降伏などせん」
「御意!」
ここで共に死ね、そう聞こえたのだろう。だが李項は悲壮な顔をすることもなく、ただただ言葉を受け入れた。魏軍ではここで誰が長平を落とし、誰が大将軍の首をとるかの功績争いに切り替わる。とどめの一撃を狙うのだ、全力で行動せずに牽制と様子見の攻撃が行われる。
そのせいで、またはお陰で夜になるまでに危険な状況は訪れなかった。散々に打ちのめされしまうが次の朝を迎えることが出来たのは想定外。本営には『帥』旗が翻っている、これが倒れるのも遠くは無いだろうと、変な感傷に浸ってしまう。
変化は起こった、烏丸と大鮮卑が交戦を減らして徐々に北上する動きをみせて来た、離脱の構えだ。まともに戦闘しているのは骨進の代烏丸だけになる。それが首領としては真っ当な反応だろうさ。口元をほころばせて、怒りなどしない。
「魏軍の攻勢来ます!」
陸司馬が何度目になったか覚えていない警告を発する。絶望的な状況にあっても親衛隊だけは士気が下がらず戦い続けるが、その他の兵はどうやって逃げれば良いかを探っている状態だった。銚華に連れられている羌族も離脱を打診しているが、銚華がうんと言わずに辟易しているらしい。
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