第162話
意地の悪い撤退戦を続けて三日、妙に魏軍の動きが悪い部隊が混ざって来る。鄭度の策がじわじわと効果を表していると解る。現地調達した食い物は腹に入れてもの勝ちだからだ。兵員を半数交代して体力の回復を図りつつも、更なる撤退戦を継続した。魏の首都では曹真が押しまくっていると報告が相次いでいるはずだ、実際そうではあるんだがね。
「偵察より報告! 北東部に『買』『胡』の軍旗を持った軍がやってきます!」
あいつらか、地方に配された将軍の割に動きが良いな。きっと良将なんだろう、蜀なら主将を務められるような能力でも魏ではこういう扱いだ。そこへ別の装いの伝令が舞い込んで来る。
「南東より徐州刺史、呂威魏将軍が三万の兵力で接近してきます!」
そこへ更なる伝令がやって来て「南方より『執慎』『潁川』の軍勢一万!」次々と動員されてくる敵の情報が集まって来る。当初の目的は達成しているだろうが、流石にこいつは厳しいぞ!
こちらの兵力二万に対して敵は十五万はいるわけか、野戦で遭遇したらあっという間に揉みつぶされてしまう。いよいよ先行きを考える必要があるな。現在地はどのあたりだ、随分と東へ来ていたようだが。
「敵襲! 敵襲!」
幕の外で大声で叫んでいるのが聞こえて来た、直ぐに親衛隊が南西から魏軍がここに攻撃をしてきていると詳細を報告しに来た。一刻の猶予もない、交戦するか逃げるかの判断は先延ばしには出来ないから。
「牛巴奮武将軍の兵一万が突撃してきます!」
数の上では同数、何もせずに引き下がるのは今度に影を落としかねないか。
「こちらからも攻勢を仕掛けろ、速やかに撃滅して離脱するぞ!」
「ご領主様、私が指揮に出ます」
そう言い残すと直ぐに出て行ってしまった。
「東部に拠点になりそうな場所を探れ、逃げられんなら守るぞ」
宇山倉へ行くのもありだが、連絡が途絶えてしまうのはもう少し先にしたい。戦場の喧騒が小一時間続くと、場違いな報告が上がる。
「ご領主様、扶楽の馬県令からの使いが来て居ります」
扶楽が何か解らずにチラッと馬謖をみると「陳国の領域にて」簡単な言葉を添えた。直ぐに通させると使者は一礼して口を開く。
「陳国相楊喜より島大将軍を迎え入れるようにと命が御座いました。そのご意志あらば、扶楽は貴軍を受け入れる準備が御座います」
ほう、曹植と連絡が取れたらしいな。そういうことならば陳国は友軍として見ることにする。
「うむ、厄介になる。多数の魏軍がついて来るはずだ、済まんが行かせてもらう」
「お待ちしております」
県令からの親書だけを残して使者は去って行った。この場に居ても自身が邪魔になるだけだと解ってるんだろ。
「馬謖、陸司馬と李項に撤退の命令を下せ。扶楽へ向かうぞ」
「これが罠の可能性も御座います。先ぶれの軍を入れるが宜しいかと」
確かにそういう向きもあるな、警戒を疎かにしてはいかん。
「董軍師、先行して入城の準備を。夏予と兵千を連れて行け」
「畏まりました、ご武運を」
仮に罠であっても、董軍師なら粗略に扱われはしないだろう。実務的なことは夏予が居れば安心だしな。派遣を決めても牛巴はしつこく喰らいついてきた、牛じゃなくてすっぽんだなこりゃ。
混在しては足を止めて少数で距離を取っては後退を続ける、陸司馬の直接指揮で混乱は起きていないが移動に時間が掛かり、そのうち李項らの軍が姿を見せた。あちらはあちらで郭淮軍にまとわりつかれている。勤勉すぎる労働英雄のおでましか。
キロ単位で距離が空いてはいるが、殆ど同じ位の位置で撤退戦をする。ドドンドドンドドンとあたりに太鼓の音が聞こえると『陳国』の軍旗を持った伏兵が追撃して来る牛巴の側面から多数の矢を射かけた。味方からの突然の攻撃に狼狽すると、急激に足を止めて、西へと引き返していく。それをみた郭淮も大事を取って停止すると牛巴と合流するように西へと消えて行った。
李項と合流すると扶楽城へと急ぐ、どうも長平の北側十キロあたりの場所にいるらしい。一日かけて西へ行って、三日かけて撤退してきたようだ。城では既に董軍師が待っていて、馬県令と共に出迎えてくる。
「馬県令で御座います」
「援軍に助けられた、礼を言わせてもらう。俺が島介だ」
「楊国相のお考えは陳王のお考えで御座いますれば、我等はその意志に従うまで。どうぞ城へお入りくださいませ」
董軍師に目線をやるがにこやかに頷くので罠の類ではなさそうだ。敗軍というほどではないが、一度も勝利をしていないのもまた事実。城門を潜ると左右の民家の前に医者が立っていて、負傷兵の治療はこっちだと招いていた。
入城して二日、扶楽は十万以上の軍勢に包囲されてしまう。とは言っても隙間なく囲っているわけではない、軍営ごとに万単位で兵力が居て、それらが四方に居座っているだけ。それでも馬車や行商人が街道を進んで入城できるわけではないので包囲に支障は何もない。伝令がこっそりと通過できる可能性も残されている。
何人かは当然殺されているだろうが、夜中に一騎城へたどり着けたので外部からの報告が寄せられて来た。
「鐙将軍が宛の攻略に成功し、寓州城方面へ移動を開始しました」
今さらと言えば今さらではあるが宛を陥落せたらしい。つい三週間四週間まえとは状況が劇的に変わってしまっているのを痛感させられてしまう。だがこれで呂軍師もマシになるはずだ、こちらが虫の息というのが大問題だがね。
呂軍師と相談して全軍を動かすはずだ、こちらはどうやって生き残るかが課題だな。陳国の他の城とも連携するということにはなるんだろうが、そもそもの戦力差が厳しすぎる。伝令を下がらせると城壁の上に立って外を見回す。軍営の篝火ではない灯りが南の方に見えた。
「あれは」
「……長平のあるあたりでしょうか、城が燃えている?」
側近が目を細めては見るものの、朧気ではっきりとしない。闇夜に浮かんでいるオレンジ色の揺れる光、何かが燃えているのだけははっきりとしている。南の方角でこうも遠くにまで見える炎の揺らめき、林が全焼しているか、さもなくば城が燃えているとしか考えられない。
「偵察を出せ」
「承知致しました!」
もし長平が攻められているならば救援に出なければならん、あそこには楊喜だけでなく劉協も居るんだ。今後の戦略に大いにマイナスになる要因、これを放置はできない。小さめの通用門を開いて、二十騎が出て行った。途中で見つかる可能性を下げ、その上で敵のパトロールを突破できそうな数がこれだ。
緊急で偵察を出したことが李項の耳に入ったようで、夜中だと言うのに姿を探してやって来た。
「ご領主様、長平が魏軍に攻められているとか」
「うむ、もしそうならばこれを救援するぞ」
「御意。野戦となれば圧倒的不利、騎兵のみでの交戦ならば離脱も出来るはずです」
歩兵を連れて行っても戻っては来れない、騎兵だけだと数が不足する。ただ危険な目に遭わせるだけでは出て行く意味がない、どうする。二度と手に出来ないピースをここで失うわけには行かん、ならば答えは決まっているはずだ。
「ここで長平が落ちれば籠もっていても勝機など見えん。不利は承知で俺は救援に向かう」
「我等親衛隊、いかなる場所であろうとご一緒させて頂きます!」
李項の命令で親衛隊に重武装での待機が発令された。二日体を休められただけでも大きい、陳国から受けた恩はきっちりと返すぞ。数時間の後に偵察が帰還してきた、無事にたどり着けたのはたったの三騎。
「長平城を攻撃しているのは『買』『胡』『潁川』『徐州』などの軍勢、およそ五万です!」
扶楽は曹真の国軍、長平は近隣の軍で対応というわけか。指揮権が並列しているならば勝ち目はある、徐州の呂軍を散らせば。馬県令が傍に来ると「楊国相は、より遠くを見据えみだりに命を晒さぬように、との考えをお持ちでした。長平城は簡単には落ちません」こんなこともあると諫めて来た。
偵察兵を見て「見立てではどうだ」重大な質問をする。ここで大丈夫と言えば多くの仲間が助かる、それを承知で口を一文字にして眉を背寄せた。
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