第156話

「胡将軍の首は取れず仕舞いでした」


 隣に来た陸司馬が残念そうにそう口にするが、簡単に出来て居れば苦労など無い。


「なに、もっと大きなやつを取ればいいさ。これで襄邑さえ無関心を装ってくれたら万歳だが、どうもそういうわけにも行かんのが世の常だ」


 雨のせいで土煙が見えないが、何かしらの敵がいるはずだと俺の勘がいっている。誰が出るかで概ねこちらの未来が決まって来るが。二時間進んで目の前に数千の軍勢を見ることになった。今度の魏軍は『奮慮』『買』か、幕僚らに視線を流す。ここでも楊県令が口を開いた。


「あれは奮慮将軍買達殿でしょう。魏の首府と地方を何度も行き来し、遠征では幕に連なり、魏王曹操の葬儀責任者を務めた御人。屯田兵をまとめ、農政を司る優秀な武将。一方で曹休征東将軍と不仲で前線から外されているはず」


「だが事実兵を持って立ちはだかっている、ここは前線ではないがな」


 こうも短時間で軍を集められるとは思えん、あれは農兵の可能性がある。魏ではどこまで将軍が独断で権力を使えるのかが解らん、大事をとって正規兵が過半数だと見積もろう。


 本来ならば挟撃でもするつもりだったんだろうが、各個撃破の良い例になったな。だがこちらのほうが数がかなり少ない、倍はいるだろうなアレは。


「迂回すれば別の方面軍が現れる可能性があります」


 こちらの考えを読み取ったのか、陸司馬が逃げても無駄だと進言した。実際こちらに船でもない限りは振り切れないだろうから迂回は効果が見込めない。


「こういう時は司令官を討ち取るに限る。無論それをさせんように位置取るわけだがな」


 中央やや後ろに将軍旗がある、そこまで食い込むのには連れて来た軽騎兵では厳しい。李項の重装騎兵なら何とかできるかも知れんが。


「ではまた押し通るまでです」


 力押だけで出来ないことも無いだろうが、いたずらに兵力を損耗するのは避けたい。話して解るようなやつかどうか、試してみるとするか。


 供回りを少数のみ連れて軍勢の前へと出る、石苞が『大将軍』の旗を手にしてついてきた。ちょっと懐かしいな、そんな前の話じゃなかったはずだが。こうやって大将が出てきて無視するのは失礼にあたる、そういう時代なんだ。待っていると五十がらみの少ししなびた男が出て来た。


「俺は蜀の大将軍島介だ、貴殿の名を知りたい!」


 大声で名乗りを上げて問いかけた。すると「我は買達、魏の奮慮将軍を賜っている。ここは魏の領地、何故蜀の軍勢が通行しているか」至極当然の誰何をしてきた。逆の立場なら同じように問いかけるだろうさ。あれから二日か、もう知れ渡るだろうから隠すに値しないな。


「不遇の友人を迎えに来た、これから帰るところだ」


「これは異なことを、かような軍勢が必要とは面妖な」


 確かに普通ならばおかしなことだ、では普通じゃない理由をサクっと教えてやるとしよう。


「悪いが俺の常識は世間の非常識でね。幼いころから常に抑圧され、自由を奪われ続け、ついにはその象徴を失った。せめてこの先位は自由にしてもらいたいと思い、無理を承知でやって来たんだ」


「勝手なことをされては困る、ここは魏帝が治められる国家である」


「そいつのせいだよ」それだけで通じるわけがないと解っていて言葉を省く。少し待ち「俺の友人は劉協だ、皇位を簒奪され軟禁されていたので連れだしてきた。以後は好きにさせてもらう!」


 見るからに兵らがざわついた。退位したとはいっても天子だった人物、恐れ多いとの感覚があってしかるべきだ。直ぐには言葉を返せずに買将軍もじっとこちらを見ている。すると南西の方角から別の軍勢が近づいてきた。


 くそ、新手か! これ以上増えられると不味いな。雨のせいで判然としないが、魏軍でも気づいているようで指さしをしたりしている。次第に近づいてきて目が良い兵が「あれは……大鮮卑の軍勢のようです!」意外な軍だったことを明かす。いや、このあたりまで進出しているのは知っていたが、実際遭遇するとそう感じるものだ。


 万の軍勢を率いているようで厚みが違った。買将軍もどうしようかと決断が出来ずにいるらしい、刺激してはいかん、待つんだ。


 だが自身の目にも見えるようになってくると、安堵感よりも怒りがこみ上げて来た。馬を進めると大鮮卑により近づく、あれは素利族か。騎馬した鮮卑の前には、貧しい衣に矛や鉈だけを持った農民兵が集められている。農奴兵団、あれがそうなんだろう。


「島将軍が近くを動いていると聞きやって来た、俺は大鮮卑の大人、素利だ!」


 得意満面で魏軍を圧倒する、いくら素人の集団でも前に出る以上は兵力だ。しかし、その後ろに見えている数メートルくらいの板を立てた百程の荷馬車を見てこめかみに筋を浮き上がらせてしまう。


「将軍、後方から先ほど抜いた胡将軍が態勢を立て直して追ってきます」


 側近がそう耳打ちした。馬車を前に出してきて劉協も「龍……」どうするつもりなのかと声をかけて来る。


「俺が来たからには心配いらん、魏の弱兵など蹴散らしてくれるわ!」


「素利大人!」


 俺は怒りを抑えて何とか呼びかけた、多くの耳目を集める。


「ははははは、感謝は後程で構わんぞ」


「その荷車はなんだ」


 農奴兵と鮮卑騎兵の間に横一列に並べられているものだというのは誰にでも解った。そして、板にはりつけにされているのが老人や子供たちだというのもだ。


「人質だよ、言うことを聞かなければ家族を殺すってな。魏人同士で殺し合えばいい、そもそも俺達だってそうやって――」


「ふざけるな素利! 漢の民を粗略に扱い、あまつさえ家族を人質にして無理矢理戦わせるなど言語道断! 民を蔑ろにする輩を俺は許しはせんぞ!」


 戦場の空気が変わった、親衛隊は怒りを隠そうともせずに殺気を鮮卑に向ける。買将軍は仲間割れを起こしていることに困惑しているように感じる。


「ここで俺を拒絶する……だと? 解っているのか、少数で押しつぶされそうになっている状況を。一兵でも味方が欲しいこの状況を!」


「お前のような恥知らずの力など借りたくもない! 今すぐ民を解放し、郷へ戻れ! さもなくば、俺がお前を成敗する!」


 まさか否定されるとは微塵も思っていなかったのか素利が言葉を失う。農奴兵がざわついてあちらこちらに目が泳いだ。はりつけにされている老人が言葉を振り絞る。


「ワシらのことはもういい、お前らだけでも生きるんじゃ!」

「もう充分だ、逃げろ!」

「とうちゃん、オイラは大丈夫だから妹だけは助けてやって!」


 人質が自ら命を絶つことを選んで叫んだ。その言葉に魏兵が涙して、鮮卑への怒りを滲ませる。


「龍、そなた……」


 信じられないやり取りを目にして劉協も言葉が出なかった。なぜそう言えるのか、なぜそう出来るのか。理想論だと理解していた、理想を守ることがもし可能ならば世界はどれだけ幸せか。


「くそぉ、やってられっか! もう言いなりにはならんぞ!」


 農奴兵が後ろを向いて鮮卑騎兵に向かって走り出した、一人が向かってゆくと「俺もだ!」と雪崩を打って襲い掛ってゆく。局地的な大混乱が発生する。


「将軍、胡軍が迫ってきます」


 二千弱に数を減らしてはいるが、挟撃の位置についているので侮れない。なにより買軍は正面に陣取って乱れるところがなかった。農奴を気にはしているがそちらへ向かう気配は感じられない。


「いいか、我等にあるのは前進か死かだ。総員前を向いて進め!」


 野戦陣地を組んでいるわけではないが、それでも戦場では防御側が有利になることが多い。防衛側ではない、戦うのに場所を動かずに済む方が有利なのだ。三千が前に進んだ、勢いと精鋭の数で勝利は可能かもしれない、だがやってみなければ何とも言えなかった。


 前衛がぶつかり、雨が降りしきる中白兵戦が展開される。後衛が胡軍からの襲撃に備えて、五百で防備を整える。盾を片手に持って、矛を突き出し牽制のみをしていた。鮮卑は近寄る魏の農奴兵を次々と切り伏せるが、数が多いせいもあって次第にスタミナが切れて来る。それでもこんなところで退けない、面子があるので素利も踏ん張った。


 三倍の厚みがある買軍を親衛隊では押し切れず、足が止まってしまった。練度は高いとは言えないが、それでも整然と行動をして統率を明らかにしている。初期の判断が遅かったのは否めないが、足止めという点では充分な効果を発揮していた。


 陸司馬が前を、石苞が後ろを指揮して戦いが何時間も続いている。農奴兵らも一杯になって来た、空は次第に暗くなってくる。


「島大将軍、流石にこれでは厳しいでしょう。東に細いですが道があります、闇に紛れてそちらへゆかれては?」

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