第153話

 住民がざわつく、あまりにも奇怪な状況についていけている者は一握りと居ない。疑問と不安ばかりが渦巻いている。長老が進み出て膝をついて礼をした。


「山陽公、この地は代々劉氏の貴人が封じられる地。国相のかような仕打ちに我等は憤りを得ておりました。事後はお任せ下さいませ、どうぞご自愛くださいますよう」


「長老、朕は受けた恩を決して忘れぬ。屋敷の財はそなたらで分け合うと良い、いずれ戻るゆえそれまで達者でな」


 すっきりとした劉協の顔に長老が涙を流してひれ伏す。なるほど、ここはそう言う地域だったのか。知っていればもっとやりようがあったな、不勉強に喝だ。


「魏兵に告げる、三日目の朝に郡の責任者が駆けつけるはずだ。国相が人質になっているから手出しできなかったと言い訳すれば罰は受けまい。だが住民と争いになる様ならば、お前らが裏切って国相を差し出したと吹聴するから覚えておけ」


 何ともしまらない脅迫だな、ここさえ離れられればどうでもいいんだがね。荷物をまとめて城を出るところで長老がやって来て「少ないですが道中の足しにして下さい」雑穀の握り飯を作れただけ差し出して来る。


「陸司馬、軍資金から支払いを」


「御意。長老殿、我等蜀軍は決して民から略奪も搾取もしない、正当な代金を渡す故、握り飯を買い取らせてもらう」


 荷馬から銀銭を持って来ると袋ごと渡してしまう。オーバーだが残りは迷惑料だよ。


「こ、このような大金――」


「いまの我等にとってはそれだけの価値がある、これが等価交換というもの。過剰だと思うならば、山陽公の施しだと近隣の貧民に分け与えるんだ」


「お、おお……感謝いたします。我等のご主君を何卒よろしくお願いいたします」


 ご主君との言葉に劉協の表情が変化する、そうやって少しずつ己を知っていくと良い。耐え忍ぶ時期が長ければ長い程に、人は微に入り際に渡る感覚を得る。こいつは化けるぞ! 常氏へ向けて行軍が開始されると、馬車の中から劉協が話しかけて来る。


「龍よ、朕は今の今まで世には味方など居ないと思っていた。董卓から始まり、李と郭には自由を奪われ、曹操には丁寧に無視され、曹丕には蔑まれ全てを奪われたと。だが違ったのだな」


「哀れみであったり、打算であったり、恐怖であったり、それは様々だがそう思えることもあるだろうことは解る。だが一つだけ解せない物言いだと言えるな」


 わざと渋い顔になり目を細めて劉協を見る。心当たりがあるのかないのか「どういうことだろうか」じっとこっちを見つめ返して来る。


「なに、常に味方は協の隣にいただろ」


 言ってから同時に笑った、曹節も視線を伏せて口元をほころばせる。


「うむ! 朕の誤りであった。そうよな、ずっとずっと隣に大切な者がいたのに気づけなかったほど追い詰められておった。済まぬ妃よ」


「妾はお傍に居られるだけ幸せで御座います。陛下が良き友に巡り合えたのが嬉しゅうございますわ」


 全くこいつは良妻という奴だな。曹操の娘ってことだから、薫陶を受けているってことなのか。いずれ本人の才覚だってあるだろうさ。二人ともこれだけ苦難を知っているんだ、上に立てば良い君主になるはずだ。赤い旗を指した騎兵が駆けつけて来る。


「申し上げます! 常氏は警戒が緩く、城門も開け放たれている状態であります!」


 楊喜が近づいてきて「恐らく城兵は二千程かと」情報を差し込んできた。二千人か、前後してもさほどではないな。では増援の武将が軍と共に詰めてきている可能性はどうだ?


「周辺に伏兵が居る可能性はどうだ」


「あたりは平地ゆえ兵を伏せる場所は御座いません!」


 そういえば河に挟まれているような地形のはず、あっても丘位なものか。城にこっそり詰めているならば、こちらが夜間に通過してしまえば気づけない可能性すらあるな、つまり考えすぎなんだろう。ここが後方地であることも考慮すべきだ。


「陸司馬」


「はっ!」


「騎兵二千で急襲するんだ、任せる」


「ご領主様のご命令通りに!」


 親衛隊の殆どを引き連れて、陸司馬は馬を走らせて行ってしまった。残された本隊は数も少なく見劣りする、だからと野盗が狙うにはあまりにもまとまり過ぎているが。石苞が次席として残りの兵を指揮する場所に上がった。


「のう龍よ、皆で行く方が有利なのではないか?」


 ちょっとした疑問を抱いたようで、小首を傾げながら尋ねて来る。まあそれはそういう時もあるんだが、今回は事情が違う。


「兵力的には有利になるだろうが、俺まで行ったらあいつが自由に采配出来なくなるから、邪魔な上司は離れている方が働きやすいと思ってね」


 そう言うと劉協は数瞬の間を置いて後に笑った。


「ははははは、そうか! ふむ、そうかそうか。ほんに龍は良き将よのう」


「わがまま放題で、部下を困らせる未熟者でしかないよ。危なっかしくて見てられんそうだからな」


 いままでどれだけ苦労をかけさせたものか。死に目にあったことなど数知れず、これからだって辞めたといって安全圏に逃げたって誰も文句は言わんだろうに。


「なあ大将、本隊はどこかで休める場所を確保しとくか?」


「ん? そうだな、あいつらが戻ったら野営出来るようにしておくか。石苞が準備しろ」


「あいよ」


 副官級の年上部将と相談をして、偵察情報を吟味する。万単位の軍じゃない、三千の居場所なんて学校一つくらいの範囲でしかない、任せておけばどうとでもする。劉協の視線に気づいて顔を向けるが、どうにも驚いている。


「どうかしたか?」


「む、いや、そうだな驚いた。部下が率先して動き、互いの距離がとても近い。あれらは龍の親戚なのか?」


 ああ、なるほど。それは間違いなく劉協の感覚が正しいし、一般的な関係ではない。似たような間柄のやつらが居ないことは無いだろうが、それにしたって大っぴらにはしない。


「親衛隊の奴らは中県の民だから、同郷ってやつだな。石苞は元々魏の人間で、長安近くでうろうろしてるのを殴って拾ってきたってのが一番近い説明だ」


 劉協と曹節が顔を見合わせてしまう。呆れてるんだろうけども、事実を言ったまで。


「血縁でもなければ親類でもないのか! 大将軍中侯といえば、位人臣を極めているというのに、かような態度になんとも思わぬと?」


「しっかりと仕事さえしてくれれば別に何とも思わんよ。話かけやすい職場の雰囲気を作るのは上司の務めですらあると考えてるものでね。それに、協だって俺にこんな口を利かれて怒ってないだろ。それとも内心お怒りだったか」


 返しに腹を立てた様子は一切無い、目が大きく開かれて衝撃を受けているのが感じられた。


「いままでそなたのような大将軍を見たことがなかった。蜀は非常にひらけた政を行っていると見える、正直羨ましい。朕の不明で漢ではついぞなかった光景でな、人は恐怖と権威に抑圧されて従わされていたのだ」


 俯き加減で辛い過去を振り返る。どれだけ偉大な人物でも、一人で何でもできるわけじゃない。


「……良かったじゃないか」


「朕には理解しがたい一言だが、不遇を笑うか?」


 むっとした劉協が眉を寄せる、感情が高ぶっている証拠だ。不感症になり押しても引いても平坦になると手の施しようがなくなる、一種の病だからなそれは。


「他人の辛さや喜びが見えていて、己ならばどうか置き換えて考えられる、その経験こそ宝だと信じている。だから良かったと言ったんだ。協ならば良い皇帝として君臨出来るはずだ」


「はぁ……なんと情けない。短慮とはこれのこと、朕はどれだけ小人なのだ。のう龍よ、もし本当に復位出来ようものならば、そなたが傍で支えてはくれぬだろうか」


 その瞳は真剣そのもので一種の懇願のようにすら見えた。どこを探してもいまはそんな存在がないんだ、心細くて押しつぶされそうにすらなる。何より俺が担ぎ出したんだ、知らんというのも酷だな。


「実務は若い奴らに丸投げして、俺はただの話し相手ってことなら構わんよ」


「おお! 感謝する、是非ともそうして欲しい!」

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