第149話

 視線を交えて三脚の器に注がれている白く淀んだ酒をぐいっと飲み干す。きついな、だがこれは旨い。古今東西酒を呑めればそれで良い奴が多い理由はこういう当たりを口にしたことがあるかないかだと俺は思うね。


「美酒だな」


「はは、お褒めいただきありがとう御座います。今や魏にも轟く武官の大家、島大将軍のお口にあったようでなにより」


 会って間もない、よそよそしいのは良いとして、やはり何かを言い出す機会を探っているように見える。しばし談笑した後にも切り出さないので、言えない理由を考えてみた。


「陸司馬、もうすぐ帰宅するゆえ馬車で待って居ろ」


 三脚の盃を置くのに合わせて敢えて低めの声色で命じる。訳アリだと通じたのだろう、小言も無く「準備して参ります」あっさりと出て行ってしまう。手酌をしてもう一杯口にすると、楊喜が立ち上がると座の目の前に来て膝を折り畏まる。


「無礼を承知でお尋ね致します。島大将軍は、世がどちらへ向かうのをお望みでありましょうか」


 両指を胸の前で合わせたまま床を向いて硬直している。なるほどな、それは緊張もすれば崖から飛び降りるような覚悟もいる。よくぞ発したものだ。


「うむ――」


 こいつの主人は曹植だ、魏を継承し損ねて封地に在って政治を変えようと求め続けていたと言っていたな。実際行動を起こし、洛陽で活動をしている。


「それは、誰が誰に向かって尋ねている」


 大切な確認を挟む、ことは公なのかそれとも私なのか。重なっている部分は大きい、分離できないほどに肥大化している。だがその色分けは極めて重要だ。


「臣、楊喜が陳王曹植に成り代わりまして、島伯龍殿へお尋ねしております」


 代行者か、ならばこいつは曹植と同格と知るべきだ。曹植が俺に、世をどうしたいか聞いているわけだ。蜀の大将軍へではなく、俺個人にだぞ。出会って直ぐに接触してきた理由は分かった、楊喜としての行動ではないからだ。では俺自身はどうしたい? まあ答えは決まっているんだ。


「そうか。では応じよう。俺は世がどこへ向かおうとさほど気にはしていない、言葉が悪かろうが求めているのはそういうことではないのだ」


「な、なんと?」


 そりゃ驚くだろうさ、実は何と無くでここまで大事を仕切っていると知ったらな。たばかたっと怒る奴だっているだろう、だが嘘ではないぞ。


「俺が軍人として立っているのは唯一、友の孔明先生の望みを叶えてやりたいからだ。それと、一握りの者達の幸せを願って」


 暫く声が出ずにじっと固まったまま、それでも促しもせずに黙って返事を待った。やがてそのままの姿勢で床を見たまま続けた。


「それでは諸葛丞相のお望みとはなんでありましょうか」


「それは蜀の丞相諸葛亮のことか、それとも諸葛孔明という人物だろうか」


「丞相のことに御座います」


 公な話しなど俺に聞かんでも解っているだろうが、それを聞かずに前には進めないわけか。


「うむ。蜀により中原を平定し、万難を排して天下を安んじることだ」


 あってるよな? という妙な疑問をもった自分を戒める必要があるな。丞相は国家を維持するためにも、積極的に外へ攻めている、何故なら守るだけでは大義がなせないから。


「お言葉有り難く。では諸葛孔明殿なる私人はどのように考えておいででしょうか」


「それは知らん、本人に聞くんだな」


 別に怒りはないぞ、そういうのは他人がどうこういうべきではないし、違っていると当人に迷惑を掛ける。だがこいつもここで諦めるようなら最初から場を設けんだろうさ。


「されば、島伯龍殿が知る諸葛孔明殿は何を目指しているかご教示くださいますよう、伏してお願いいたします」


 床に額を打ち付けて言葉の通りにひれ伏して訊ねた。こいつも本気だ、一世一代の舞台に上がっているんだろう。その気持ちを踏みにじるような真似はせん、本気には本気で応じる。


「真に想うべきは先の帝との約束だろう。孔明先生は誓った、漢室の復興と民の安寧を。その誓いはほど早く、蜀に至る前の宣誓であり、丞相となる以前のもの。いずれもかなわず、さりとて嘆くわけでも無く、日々努力している。俺はそれを助けたい、それだけだ」


 一人の男が生涯を費やして一つの約束を守り通そうとしている。無理だと言われようと、宿将らに疎まれようと、無謀だとの誹りを受けようとだ。


「主君である陳王も『私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ』と申しております。主君は魏の統治、魏帝の簒奪にあらず!」


 世の為、人の為と言いたいつもりか。少なくとも封地ではそのようにしてきたのだろうな、他所とは違って結束が感じられる。だが魏の統治ではないとはどういう意味だ。旗が何であれ民を慈しむのが目的、それで蜀へ身を投じているのだから筋は通る。


 ただそれだけならここまでして言ってきてるのが不明だ、違う角度から解釈をすべきだな。蜀でも魏でもない旗で民を安んじるってやつか、俺はそれでも構わんし、孔明先生もそれで構わんわけだ、それが劉氏なら。蜀ではない劉氏は漢室ってやつで本家のことだよな、今更もとに戻すなんてナンセンスだ。


 だが……どこか一つの旗を戴けば軋轢が産まれる、新しい時代は新しい名で歩むのは悪いことじゃない。元は一つだった国が分裂し争い、内戦の末に統一され国家を打ち立てる、これこそ当たり前の境地。そうなると蜀皇帝も魏皇帝も好いはずがない、負けた側は発言権が無いが、勝った側は主張するはずだ。


 劉禅が素直に退くかといえば、多分強く言ったり説得したりしたら頷きそうな性格だぞ。それを許さない筆頭が孔明先生であり、蜀の臣下一同だ。丞相である諸葛亮は決して同意せず、だが私人である諸葛亮ならば漢室が興るならばかつての約束を果たせる。


 これらの全てを満たせる案件、蜀が全てを制圧し、劉氏の漢室を興す。それは劉禅ではなく、魏の民も納得する筋でなければならない、無論蜀の民もだ。これこそ孔明先生と呂軍師の案件だぞ!


「全ては戦に勝ってからと思えるが」


「道理では御座いますが、なすべき要件の核が失われてしまえば世は治まりません」


「というと」


 身を前のめりにして意識をも傾ける。こいつがここまで言うからには曹植も以前からそうやって考えて生きてきてることになる、魏の旧領地を宣撫出来る手段に繋がるならば知っておく必要がある。


「ここより北、苑州は山陽にかのお方がおられます」


 じっと見つめて目を細める。山陽とやらに誰が居るってんだ。未だに伏せったまま喋る楊喜に返事をせずに待った。


「漢帝国最後の帝、献帝劉協様が。いまは山陽公となられ、慎ましやかに暮らしておられます」


「うむ!」


 先の帝が無理矢理禅譲させられているのは知っているが、生きていたのか。俺が二度目に目覚めた時には劉備が皇帝だったが、確か献帝が殺されたからとか言っている奴が居たはずだ。情報が行き違うのは常、劉備の忠誠対象が生存しているならこれは或いは。


 復位……とあればどうだろうか、劉禅は筋が通る皇位の返上を受け入れる気がする。蜀の群臣らも反発はあれど、よそ者の劉備の息子より戴きやすいんじゃ? 孔明先生は……恐らく劉禅の意志を尊重するだろう、そして丞相を退いて書生暮らしでもしそうだな。


 もしかしたらこれなら呉とも争わずに済む。問題が山積しているのは間違いないが、こいつは一つの結末として検討する余地がある。だが時間も余力もない、身柄の保護を優先すべきなのは解った、失われるともう元には戻れない。


「連絡を取ることは出来るか」


「陳王ならば。劉協様の妻は陳王の妹君ですので」


 ということは曹叡の叔母に当たるわけか、親戚だらけなんだからどこかで誰かが繋がっちゃいるんだろうがね。俺だって劉禅の親戚で、馬岱ら馬氏とも、羌族とも親戚だ。俺がすべきことを考えるんだ!


 呉が旗色を変えるまでここで耐える、その間に呂軍師が全体の指揮を執り決戦を行う場を整える。呉がどうしてこちらになびくか俺は知らんが、馬謖らは知っているようだ。成都の反乱を跳ねつけ、内憂を除けば攻勢に出られる。それまでに劉協を保護したい、長平を防衛しながらどうやってする?

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