第148話

 大きく息を吸い込むと楊喜は指先を重ねて一礼した。驚きの連続が産まれ続けているらしい。


「かようなお言葉を頂き感慨の極み。不肖の身でありますが、県令の責務を負わせていただきます」

 

 こいつとは連絡を取り合えるようにしておくべきだ、話がしやすいやつを派遣しておいてやるとしよう。大県の県令は六百石クラスだな、ということは参軍を指名だな。文人肌だ、礼節を知る人物にしておくとするか。


「黄参軍」


「ここに」


 取り巻きの中から進み出る。他の参軍よりは配下に居る期間が長く、急を要する職務が発生する可能性も低い人物。


「連絡官として以後は楊県令の傍に居るんだ。本営が動く際には、黄参軍の判断で行動しろ」


「畏まりまして」


 決めておくことを取り敢えずは終えた。今度は城壁の外を流し見る、北と東に広がる平地部分に蜀の軍兵が蠢いていた。野戦陣地の構築、直接城を攻められないように、防御を整えている真っ最中。


「縄張りを随分と拡げているな」


 永久陣地を拡げているわけではなく、後退するのを前提とした防御陣地。敵に出血を強いるような造りを多重に設置しているのだ。木柵を置いて堀を巡らせ射手の足場を設置、これだけでも魏の被害者は千人を超えるはず。


「蜀の中領将軍は随分と勤勉なお方の様子。率先して土木工事の指揮を執られている」


 李項の働きを見て素直に称賛していた。魏ではどうかと言えば……どうなんだ?


「そういえば、新安の防衛線にあった野戦陣はかなり練られたものだったな」


 今になり急に思い出して口にする。あんなものが用意出来たら文句など無いわけだが、やはり専門家ではないので荒っぽさが残る陣地にしかならない。


「新安でありますか。すると游楚将軍……ですが、かの人物は工事など専門外でありますれば、恐らくは河南中郎将の手でありましょう」


「ほう、そいつは誰だ」


 雑号の校尉だな、有能なやつがいるなら知っておきたい。


「鐙父河南中郎将、元の典農部民、学士、尚書郎を経て転出した青年です。以前、陳国にも視察に来られたことがあり、田畑の耕作地や城塞の設置場所を示す助言を与えて行ったものです。吃音の為、人付き合いはさほど得意ではないようではありますが」


「あん、士載か?」


 突然後ろから石苞が割り込んで来る、相変わらずの無遠慮っぷりに苦笑した。五千を指揮出来たせいか、このところご機嫌だったりもする。


「知ってるのか石苞」


 そういえば典農……なんだったかいう職務をしていたんだっけな。


「知ってるもなにもタメ歳の同僚だったからな。むすっとした愛想のないやつだよ、まあ頭が良いのは認めるけどな」


 おっと、まさかの有識者現るだな。同年の同僚といえばいわゆる友達ってやつじゃないか、悪友だったりもする。というか石苞とは性格が正反対か、尚書郎ってことは政治関連の文官肌だが、野戦軍の将校になっているとはどういうことだ?


「腕っぷしでは勝てるが、頭では無理か」


 茶化してやろうとしたが石苞が神妙な顔で首を振る。


「あいつは剣を取らせても強いぞ、俺だって三回に一回勝てるかどうかだ」


 おっと、そいつはあまりにも意外な返答だな、こいつが負けを認めるとは結構な腕前だぞ。直接戦ったことがある俺が大体の強さを想像するが、王平や馬岱あたりの将軍並ってところだろうな。


「そうか、でも戦争でなら勝てるんだろ」


 得意分野を振ってやる、ところが顔色は晴れなかった。まさかとはこれだ。


「多分やり合っても互角だよ。俺以上に独断専行することがあるだろうけども、きっとそれは成功する。勝ちに一直線で駆け抜けるようなやつだ、もし大きな権限があれば番狂わせもあるだろうな」


「ほう……」


 俺は石苞の戦争遂行能力は魏延や姜維らと同程度と見ているんだが、そいつが互角というならかなりの見込み有りだ。吃音のせいで昇進が妨げられているならば、それは魏の損失であり蜀の利益でもある。これを迎え入れたいが今は難しいな。


「魏への忠誠や、その向きはどうだ」


「口にはだしゃしないけども、個人的に良くしてくれたやつには恩義を感じてるさ。魏に対して何か恩義があるかと言えば、官職をくれたって程度だろうな。でもきっと部下には傲慢で、同僚には無愛想、ありていに言えば嫌われてると思う」


 性格に難ありか、楊儀みたいな有能者がそりが合わない人物とぶつかる。石田三成みたいに横柄な態度が目につくんだろうな。解って来たぞどういうやつかが。


「鐙父の出身は知っているか?」


「棘陽県の河のほとりだって話だけども、随分と食いつくな?」


「そりゃそうだ、石苞、お前と同格の人材と言われたら無関心でいられるわけがないだろ」


 一瞬どういう意味かを考えて、少しにやけて照れ笑いをして「父親は死んだが、母親が一人で住んでるらしいぜ。貧乏な家で、食うに困ったことも多かった。宛のすぐ近くだな」知っている情報を補足して来る。こういうのは一発勝負だ、人生経験がものをいうだろう。


「夏参軍」


「これに」


「鐙将軍の陣営に伝令を出せ。鐙父中郎将の母親に贈り物をして念入りに保護を与えるんだ、同姓の誼でもあるだろう」


 ああいう奴は母親から攻めるのが好い。どれだけ昇進しようと、どれだけ善悪に染まろうと、母親の存在感は唯一で別格だからな。かくいう俺だって母親に泣いて頼まれたら黙って言うことを聞くだろうよ。


「承知致しました」


 うわべではなく、夏予が何を意図しているかを受け止めて行く末に想いを馳せている。人材マニアなんだよ俺は。蜀に仕えてくれるとありがたいが、決戦が先だな。


「大将軍の幕が賑やかなのがわかったような気が致します」


 楊喜が少し表情を綻ばせながらそんなことを漏らした。確かに賑やかだ、それも面々はかなり幅広く取り揃えているぞ。


「ここには半分くらいしか居ないが、それでも結構なものだろ?」


 気持ちの良い笑い声を出して土木工事を眺める。そうだよな、随分と賑やかになったものだ。俺の知らない士が世の中には山のように居るんだ、人事程楽しい仕事はないぞ。


「半数で御座いますか、それは実に結構なことです」


 目を細めて視線を下に落とすと何かを思い悩むようなひょうじょうを一瞬だけ見せた。なんだ、やはり何かを抱えていたか。楊喜が足を止めて向き直る。


「甚だぶしつけでは御座いますが、島大将軍がお許しであれば、一献差し上げたく」


「喜んで受けよう」


「それでは今宵お迎えに前りますので、拙宅にて」


 深く腰を折ると楊喜はどこかへと消えて行った、遅れて黄参軍もそれに付いて行く。何かを仕掛けてくるぞ、それが俺に害意を向けることではないのは確かだが、一人で行くと言うのを止められるんだろうな。


「陸司馬、どう思う」


 傍に控えている身辺護衛の頂点に率直な意見を求めた、それを丸呑みするつもりで。甲冑に赤の直垂姿の陸司馬が目の前に来て「のるか反るかの賭けに出ている者の目でした。ご注意を」警戒を呼び掛ける。


 確かに楽しく酒を飲もうと言う申し出ではない、俺に敵対するつもりでもない、ではなんだ? 楊喜は若い、馬謖よりも下だろう。二十代の若者が、己の主を想い何を切り出す。既に政権の保護は受けている、体制の保証などではないぞ。大番狂わせ、魏の崩壊を見据えての何かか?


「供はお前ひとりだ、いいな」


「御意」


 大勢で押しかけては節度を問われる、小心者と見られては以後の戦にかかわるからな。それと俺の口から言えないことをこいつが引き受ける、そんなこともあるだろう。


 馬車がやって来てさして遠くも無い城内の一角にある邸を訪れた。門には篝火が置かれていて、数人が外で立って待っていた。


「島大将軍、ようこそおいで下さいました」


 楊喜がまとっている衣は昼間のものとは違い、妙に整っている。酒の場で飾ったわけではない、刺繍も見事で冠にも威厳が備わっている。あれは……朝服というやつだろうか、残念ながら俺には見分けがつかんが意志の表れだとしよう。


「出迎えに感謝する」


「どうぞこちらへ、どうぞ」


 左手をゆっくりと開いて屋内へと誘う。陸司馬があたりを警戒するが、俺にも兵の気配は感じられない。決して豪勢とは言えない造りに、少ない家人、主賓室には座が設けられていた。


「上座へ」


「屋敷の主人は楊喜殿だ、貴殿が上座へ」


 当たり前の態度を取る。他人の家に上がり込んで主人面するやつに気が知れない、この時代では普通なんだろうか。


「我が家の客人を迎えるにあたり上座をご用意いたしました。どうぞお座りください」


「うむ」


 客か、まあそうか。招いておいて見下すというのもちょっとな、取り敢えずは座るとしよう。まっすぐ進んで背の低い椅子に腰を下ろすと、左後ろに陸司馬が起立して中空を見詰める。


 向かって左手の席に楊喜が座ると、酒と肴を持った家人がやって来て膳に載せて下がって行った。鯛のような見た目の魚だ、それに珍味の類。このご時世、緒辰するのにも苦労しただろう。


「陸将軍もどうぞお座りを」


「某は結構」


 にべもない態度で却下すると一瞥もせずに立ったまま、今はこのままでいい。


「楊喜殿、今宵の招待に改めて感謝を示す」


「はは、おいでいただきこちらこそ感激で御座います。まずは一献、陳国で作られている銘酒、宝山で御座います」


「では」


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