第147話

「ここはお退り下さい!」


 眉を寄せて手綱を引く、馬首を変えたところで城から喚声が上がった。何かが城壁から落下して来るのが目の端に映る。


「県令趙興は己を恥じて自害した! 小黄門鄒循もだ!」


 城壁の上で競り合いが続くと城門が開かれ中から部将が現れた。兵らも冷静さを取り戻し、城壁での争いも収まる。李項と目を合わせて二騎でゆっくりと近づく、その間に陸司馬と参軍らが騎兵百を率いて合流した。畏まり片膝をついている部将の前にやって来ると「お前は」短く問いかける。


「漢の郎中楊修が一子、楊喜、字を徳先と申します」


 はて、そう言われてもな。チラッと参軍らに視線を送った。


「漢の太尉楊彪の孫、弘農の名士であります」


 郤正が地元の河南のお隣で有名な血筋の人だと言葉を添えた。そういえば董軍師も同じ地域出身だったな、流石にあの息子にはまだ発言権がないか。


「そうか。県令が墜死したが」


 こいつらに背を押されたわけだ、曹植のやつもそれなりに人望があった証拠だな。


「陳王を悪し様に罵る者が足を滑らせた様子。長平の者は陳王を戴き、陳王の志に賛同するものでございます」


 じっと瞳を覗き込む、こいつは何かを知っている可能性がある。馬謖が馬を隣に寄せて耳打ちしてきた。


「曹植が皇位争いをした際に、九名の最側近が御座いました。その全てが曹丕に誅殺されましたが、楊修もその一人。恐らくは国に残した工作員の類でありましょう」


 なるほどな、父を皇帝に殺され、主人を迫害され、そして今その主人が立ったと知った。機が熟したと見たわけだな。


「俺は陳王曹植と会談し、その志を見た。陳国に主が戻るまでの間、暫し居場所を得たい。陳の民はそれを認めてくれるだろうか?」


「陳王を認め、陳王が認めた方を、陳の民は喜んで迎え入れるでしょう」


 楊喜が立ち上がり腰を折って片手を城へ向け誘う。兵らが整列して中央を開けた。


「蜀の大将軍島介が軍令を下す。全軍略奪暴行を禁じる、これに背いた者は厳罰に処す! 中領将軍、入城だ」


「御意! 総員姿勢を正し整然と行軍しろ!」


 幸先よしだ、戦わずに城に入ることが出来たのは僥倖だぞ。間違いがあってはいかん、軍律は厳しめで執行せねばならんぞ。これだけの数が居れば絶対に違反者が出る、一個小隊ほどの首は飛ぶだろうな。こういう真面目一徹な仕事はどいつが適任だ? まあ決まっているか。


「孟兆」


「はっ、ここに!」


 やや離れた場所に居たが呼ばれて駆け付ける。


「軍営都督に厳に命じる、違反者は容赦なく拘束しろ。俺は命令を破る者を許しはしない」


「お言葉通りに!」


 懐から割り符を取り出し腰に提げている印を使い片方を渡す。印は命令者の権限を明らかにし、割り符は執行者の権限を示している。


「蜀の全軍、三軍であろうと禁軍であろうと所属は問わん、その全てを取り締まることを命じる。異民族であっても蜀に連なる者の兵全てだ。異論あらば島介に言えと突っぱねて構わん」


「御意!」


 目を見開いて命令を胸に刻み込む、間違いなく今まで最大の役目だ。とても軍営都督あたりの権限ではない。


「楊喜殿、城内の案内を頼みたいが良いかな?」


 陳王の部下であるならば他人だ、敬称はつけるべきと俺は思う。本来は地位の差を鑑みて呼び棄てるんだろうが、どうにもな。


「喜んでご案内させて頂きます」


 指先を重ね合わせて一礼する、このあたりの気品はやはり生まれ育ちだ。


 長平の城壁は長安や漢中の半分しか高さが無い。一方で攻め寄せることができる箇所も半分なので、守備兵自体は半数で済む。そして呂軍師が言っていたように、城壁に上がって来る敵に対抗できるだけの防衛能力を持った兵が居ると有利に戦える。


「楊喜、長平の備蓄はどうだ」


 呼び捨てにして官職を敬うようにと当人に指摘されたので、それ以来こう呼んでいる。地位を認めることは秩序を尊ぶことにもなるので、統治者側としては率先して沿って行きたい内容でもあるらしい。


「五千の兵で二月籠城できるだけの量だけ御座います」


 それでも充分多いと俺は思うぞ、蜀なら後方の城にそこまでの兵糧は割り当てられん。平地が多い中原を永年支配してきた魏という国の底力が感じられる。


「周辺地域から都合をつけて来る、これだけの軍勢でも三か月は籠もれる位にな」


 購入する兵糧の一部を本営に、残り全てを呂軍師の居る側に積み上げる。こちらにあるよりも安心安全というのが事情の一つだぞ。


「陳国は九つの県で構成されております。そこからも都合を?」


「ああ、魏の野戦軍が駐屯していない地域は全て回るつもりでやらせている」


 やればやる程こちらの勝率が上がるんだ、急ぎで処理する案件として駆けまわっているだろうさ。楊喜の様子に違和感がある。


「どうした」


「……島大将軍は先だって軍令をお出しになられましたが、それは長平に限ってのことでありましょう。必要だとは解っているのですが、なにぶん」


 目を閉じて頭を左右に振る。なるほど、そういうことか。勘違いというやつだな、ここから出て調べるわけにも行かんし仕方ないがな。


「略奪の心配だな」


 自身の口からは言い出しづらいだろうと言葉を出してやると、小さく頷いた。入城させてしまった以上は今さら強く言えるはずもない。


「俺が命じたのは糧食の徴発ではない。郷を廻って全て購入してこいと命じた、手形ではあるがな」


「こ、購入ですか? なぜそのようなことを――」


 敵地でまさかの行動だってのは知ってるよ、そしてお前が驚くのも想定内だ。何故かというと、あの呂軍師が予測の範囲外だったからな。


「全てとは言わんが、関わる多くの民の幸せを願っている。努力が報われる世界がやって来るようにと歩みを進めている。世に出ることすらかなわない者には、始まりまで引き上げられるようにしている。どれだけ困難があろうと、無理だと笑われようと、俺は出来ると信じている」


「ああ……我が君を交えて共に語らいたいもので御座います。この楊徳先、主に成り代わりまして大将軍のお役に立てるよう精進致します」


 潜伏して時機を待っていたんだ、なすべきことは山とあるだろう。こいつに必要な環境を用意してやりたい。


「提案がある」


「何でございましょう」


 城壁の上から城内を見詰める、一般住民も多数居てその雰囲気は決して暗くはない。少なくとも敵軍に占拠されているような空気ではない。


「楊喜、長平は県令が不在だ。これでは執務が滞り民に不便をかける、相応しいものを仮の県令として権限を持たせてはどうだろうか」


「長平は現在、蜀軍が治安を維持しております。大将軍のご指名があればその者をいただきたく」


 側近の武将を県令にするのは当たり前のこと、それは権利の一つとすら言える。群雄割拠していた時代、実効支配している者が県令、太守を推薦して、朝廷はただそれを認めるだけ。却下したところで反乱がおこるだけで決してプラスではないからだ。


「ふむ、では楊喜が県令につくのが良いだろう」


「わ、私がですか!」


「陳王を最もよく理解している人物であり、兵らを統率している実務上の責任者でもある。だが一つだけ俺は迷っている部分もある」


 実際県令で良いのかどうか、手元にあるのが長平だけだから何とも言えんがな。


「どなたか相応しい方が居るようならば、私が身を引きます」


「そうではない。陳国の丞の方が相応しいのではないかと思ってな。いずれ県が合同する時に昇格すればよいだけか」

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