第140話

 どれだけ勝っている戦でも捕虜は必ず出る、何せこれだけの大人数が入り乱れているから。そしてその捕虜こそが最大の情報源であった。部下から耳打ちされた陸司馬が頷いて目の前に歩み寄る。


「ご領主様、捕らえた魏兵によれば、張遼将軍率いる南軍がもうすぐ増援に来るとのことです」


「だろうな、五万で済めばよいが、あの名将のことだそうはいかんな」


 最低限の守備兵だけを残して速攻で終わらせに来るならば、それこそ十万をかき集めて来るぞ。この遠征軍さえ叩き潰せば数年は安全が保てるからな!


「……もし脱出なさるならば、我等中県の兵、どれだけ汚名を着ようとご領主様に従い必ずや蜀へお連れ致します」


 真剣にこちらを見詰める。生きてさえいれば好転が望めるかも知れない、魏が割れて万が一が訪れるかも知れない。死んでしまえば全てお終い、生き残った者こそが勝者、敗戦の屈辱は悪ではない。だが。


「ここで逃げるようならば最初から出てなどこんよ。俺は決めているんだ、前進か死かと」


「ははっ! 何なりとご命令下さい!」


 こいつらには生き残ってもらいたい、単純に幸せに暮らして欲しいと感じている。そんなことを望んでいるかはわからないが、たったそれだけがこうも遠い世界ばかりだ、古今東西未だに理想郷は存在しないな。


 急に外が騒がしくなる、元からうるさいのは間違いないが、どこかで戦況が動いたのだろう。程なくして伝令が駆け込んできた。


「申し上げます、河の南より魏軍が大挙して押し寄せてきました!」


「架橋は妨げているが」


「暗くなってから上流で河をかなりせき止めて、胸程まで水につかり歩いてです!」


「陸司馬、総予備で増援だ、押し返せ!」


 直ぐに兵を引き連れて陸司馬自らが出撃して行った、こういうときは統括できる地位の人物が現場にいるのが極めて効果的。しかし河をせき止めるだと、開いた口が塞がらん類の話だ。そうはいっても幅が五十メートルくらいならば一日で出来るか、すぐに溢れるだろうがそれまでに橋頭保を確保出来ていたらいいんだからな!


 急に空が揺らめき出す、北東で大量の火矢が使われたようで互いの顔が暗闇で解る位の光量が発生する。なぜそんなことをするかは簡単な話だ。今度は東側から強烈な攻撃圧力を受けた、寝ていた兵が驚いて飛び起きる。


 暗夜の乱戦模様、飛び道具は使えない、味方に当たると大被害になるから。本部でじっと待つしか出来ない、それぞれが最善を尽くすと信じて。後退や敵発見の報告ばかりが続く、籠城してからずっと体力を減らし続けていたせいで動きが鈍い。


 こいつはいかんぞ、朝まで持つかが微妙だ! 渋い表情のまま拳を握りしめて報告を聞き続ける。東側からの戦闘が徐々に近づいてきているのが感じられる。司令部が戦闘を始めたらもう敗北とみて間違いない。夜が明けようとしている、うっすらと互いの表情が見えて来た。


「どうした!」


 戦いの喧騒とは別、何か悲鳴のような声が混じっているのが聞こえた。側近に調べさせる、走って見に行かせたうちの一人が息を切らせて戻って来た。


「河が増水して、魏兵が流されています!」


 せき止めた場所が崩れた? 勝手にそうなるようなことはない、誰かが堰を切ったんだ。溺れ死んだやつ、数千人にはなるだろう、人は自然に逆らえん。悲鳴の正体が判明すると侵入していた魏兵を追い落とす。大まかな目星がついたところで陸司馬から、本部に戻らずにそのまま東に増援に出る、そう報告だけが届けられた。


 何とか本部は交戦せずにすんだが、今度は北側が火矢で明るくなる。同時に攻めてこなかったのはなんでだろうな、例によって功績をあげるあげないで派閥の何かだろうか。どうでもいいが助かった、同時ならかなり危なかったぞ。


「申し上げます、陸将軍よりの言伝です。暫く現地で指揮を執るので戻るのが遅くなるとのこと」


「そうか」


 大分まずい状況のようだな、夜までは持たんぞこれは。だからとこれ以上防衛線を狭くすると、火計で全滅が早まるだけだ。辛くても苦しくてもじっと待つしかない。


「本部の参軍ら以外の兵は防衛に参加させろ」


 ここで本部護衛も何もない、陣を防衛するのが最優先だと命令する。


「島大将軍、本営には威厳や体裁というものが御座います。危急に在ろうともその――」


「面子など黄河に流してしまえ! 前線の兵が一番欲しがっているのは隣を占める仲間だ!」


 馬謖が全てを言い切る前に被せ気味に一喝する。恥をかかされたせいで顔が赤くなり視線が泳いだ。こうも面と向かって否定されたことがないのだろうことが伺える。


「将軍、お気持ちを落ち着かせて下さいますよう。馬軍師も将軍を想っての言で御座いましょう、ここは一つ穏便に」


「……董軍師。そうだな、馬謖の言うことにも理はある。武兵を二人門衛に残し、他を派遣だ」


「御意に。馬軍師もよろしいですかな」


 年の功を発揮して調整役を買って出た董軍師に感謝だ。確かに言い方はあったな、俺も焦っているんだろう。


「某も現場をこの目で確かめもせずに発言を致しました。以後は慎みます」


 肩をすぼませて小さく礼をする。こいつは有能だ、指示を軽く見るところはあるが、文官としての能力は極めて高い、ここで距離を置いてしまうのは今後良いとは言えん。


「馬軍師、本来ならばお前は壮大な軍略の助言を得意とするはずだ。このような不甲斐ない戦況にしてしまった俺にも非がある、短慮を許して貰えるだろうか」


 目を閉じて小さく息を吐いて己の不明を詫びた。立場が上の者がそのように謝罪をすることなど極めて珍しい文化だ、参謀らが少しばかり驚いている。


「国家の大黒柱足る島大将軍が軽々しくそのようなことを申されなきよう。この馬幼常、わっぱでは御座いませぬ。言葉にせずともわだかまりなどなく」


 顔色が戻り自尊心が満たされたのが解る。どうやら不満を少しは解消できたようだ、兵力不足にさせたのは紛れも無い、俺だからな。


 ギリギリの防戦を数時間続ける、昼飯の時間も少ししか割けずに命を削る。最終防衛線と定めていた場所が徐々に競合地域になり、ついには魏の占拠するところとなってきた。引っ切り無しに各所から増援を求める伝令が来るが、どこにも兵は無い。強い風が吹いた、『帥』旗がギシギシと揺れる。


「北地区の部隊を後退させよ、東との連携を怠るな!」


 下がっては抗戦し、また下がる。防衛の永続性を諦めての撤退戦を繰り広げる、陥落は時間の問題になってしまった。だからと生きるのを諦めることは無い、無心で敵と戦うのみ。


「西部に浮き橋を許した! 水際で防戦しろ!」


「南部対岸より一斉射撃来ます! 水兵が泳いで渡るのを阻止できません!」


 唯一陸司馬が守る東だけが押されていないが、北部との連携の為に後退を余儀なくされてしまう。最早戦う兵士らの背中が見えてくるほどに戦場が近い。


 ここまでか、だが包囲されている兵らを逃がすことすら出来ん。落ち着き払って座ったまま目を閉じて胸を張る、慌てふためこうとどうしようと結果は変わらない。外の騒がしさにどよめきが混ざるのに気づく。待っていると伝令がやって来る。


「西より援軍です『李』『夏』の軍旗で兵力一万!」


 見ていられずに城を棄てて駆けつけて来たようで、ほぼ全軍を率いている。魏軍の後備が対抗するために向きを変えて布陣していると、木製の櫓に登っている兵から伝え聞く。問題がある、李軍の後ろにも魏軍が続いているということだ。


 城の警戒に配されたどこかの軍だろう。恐らくは同数が監視に当たっていた、ありていに言えば挟み撃ちに合いに進んでいるわけだ。


「東部より『馬金大王』『南蛮』の軍が来ます!」


 ふふ、馬金大王か、随分と待たせてくれる。それにしても鳳珠羽空王らはどうしたんだ? 心なしか要塞を攻める魏軍の圧力が弱まった気がした。


「どれ、櫓に登ってみるとするか」


 視力の都合であまり遠くは見えないが、それでも近隣を見ておくのはプラスになるはずだ。梯子に足をかけてグイグイと登っていく。手すりにつかまり周囲を流し見た。

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