第122話

「ま、入ってみるか」


 柱に手を当てて、薄暗い建物に足を踏み入れる。酒臭い。ろくな奴が居るわけがないが、これといった敵意も感じられなかった。昨日の今日で、ここで働いているのは当然魏の役人なわけだ。主が代わって何をどうしたらいいかもわからんだろうさ。


「おい、ここは何をするところだ」


「あ? さあな、元は魏の領土を管理する場所だったらしいがね」


 どうしよもないから昼から飲んだくれている、解らなくもない流れだ。実際俺が地方の役所に勤めていて、突然国が陥落したら似たようなものだろう。


「そうか。で、ここの責任者はどいつだ、お前か?」


 他に年かさの奴もいないので当てずっぽうに言ってみたが、親指を後ろの方に向けて天井を仰ぐ。竹簡を閲覧している若者が一人机に向かっていた。まだ十代後半じゃないか?


 つかつかと歩み寄ると「お前が責任者か?」不躾に問いかける。するとこちらに視線を向けて「そうだと言われて連れてこられたよ」半ばあきらめたような感じで認めた。こういう仕事だ、丸投げするのもわかるし、どうでも良いのも解る。どこから連れて来たやら。


「名前は」


「孫礫だ。ちなみに自分の名前が書けたから、それでここの責任者に据えられたらしい」


 ふむ。文字の読み書きが出来たら役所の文官になれたらしいからな、自分の名前だけでもかけるならとこういう役目を充てられたか。


「どんな仕事をしているんだ?」


「どこから何人が流れてきて、どこに住み着いたかを調べる仕事だよ。それで何かをどうするわけでもないけどな」


 どこかで聞いたような役目だよ。そもそもだ、読み書きを教えると言うことは頭にない時代なんだろうか? 学校らしきものは個人塾と、専門分野を論議するような太学しかない。民が知恵を持たれたら統治が面倒になるからというものかもしれんな。


「そうか。そこにお前の意志はどのくらいある?」


「このご時世、食べて行けるだけの何かがあればそれだけで幸せだと思っているけど、意志があるかといえばこれっぽっちもない」


 分別はつくが志の部分で疲労が見られる。一般的な民は戦乱が続きすぎて、こういった感じになっているんだろ。


「生まれは」


「河内郡の懐、ここから十日も歩けば辿り着くところだ」


 近所と言えば近所なんだろうか。細かいことは良いか、取り敢えずは目とつけておくってことで。


「資料の読み込みと助言が役目なわけだ。その範囲を拡げて働かんか」


「私に拒否する権利などあろうはずもありません。どうぞお好きに」


「後で使いをやる、そいつについていけ。ここの仕事はもうやらんで構わんが、内容だけは覚えて置け」


 一方的に言いつけるとさっさと出ていく、得るモノは何もない。そう簡単にお宝など落ちてはいないか。そうだ、魏軍が残して行ったものを検分でもしに行ってみるか。


 武器庫があるのは軍舎の隣、当然と言えば当然あるべき場所に設置されていた。鐙将軍の指揮下にある軍侯が警備に立っている、人数は十人前後だな。陸司馬に目配せをして前を行かせる。


「ご苦労だ、視察を行うそこを通せ」


「どちら様でしょうか。現在ここは立ち入り禁止です」


 正体不明でも威圧的な対応をせずに、堂々としているな。まあ不審者ではあっても、二人で賊がやってくるわけもないのでそうなんだろうが。


「宿衛将軍の陸盛だ、魏軍が置き去りにした武具の検分をする」


「申し訳ございませんがお通しできません。鐙右将軍に保全命令を受けております。御大将に許可を頂かないことには」


 眉を寄せて困惑しながらもストップを貫くか、職務熱心で感心だ。階級が上なら何でもスルーではこちらが困る。


「鐙将軍には後程事情を伝えて置くゆえ通せ」


「それは出来ません、軍令ですので」


「良い陸司馬、下がれ」


 にこやかに前に出ると「そこな軍侯、軍令に従い職務に奨励する姿を見せて貰った。蜀の軍人はこうであれと思う立派なものであった」今しがたあったことを褒める。


「軍に在っては軍令に従い、宮中に在っては慣例にも従えとありますので。ですが某は、明記された令を蔑ろにするのを好きませんので」


「名を」


「姓を孟、名を兆、字を伯祐と申します。洛陽県出身で、蜀の符節令孟光の孫に御座います」


 孟光など聞かんな。符節令ということは、もしかしたら任官の際に顔を合わせている可能性はある。というか専門分野が節の交付なんだから、二度三度授受に際して接近はしているわけだ。


「俺の幕では軍営都督の席次が欠けている、声が掛かるのを待っているんだな。行くぞ陸司馬、用事は済んだ」


「はい、ご領主様」


 その一言で誰かが解る仕組みだ。しかし、俺がちょっと歩くだけでこうなんだから、実は結構人材はいるのか? 相反する考えが頭をぐるぐるとめぐる。そういえば、国内を巡回して人材を推挙するだけの官職もあったが、何と無く理由がしっくりときたよ。うろうろするのは辞めにしよう、もっと俺にはやらねばならんことがある。先々の軍略を確認するぞ。


「今夜私邸の方に、呂軍師、馬謖、それと姜維を呼んで置け」


「御意」


 ここに李兄弟が入らなかったことをどう受け止めるか、俺には解らん。許都の軍など、今一度聞いておかねば行かんこと、運用などを煮詰めておこう。


 俺の私邸は内城の中にある。自由な出入りは一切禁じられていて、賊の侵入も極めて難しい。それでいて職場のすぐ傍なので便利だ、良い環境かどうかは別だぞ。


 私邸の詰め所、要は親衛隊の宿舎の一部もここにあったりする。通常のは外城にあるのだが、護衛用に寝泊まりする交代兵の事務所のようなのがすぐ隣にある。俺との距離が極めて近いのは、例によって中県の出身者で固められているからだ。


 親衛隊に一切の文句はないが、一般兵との扱いの差があるのは事実だ。不満を持たれないように注意をするのは考え過ぎなんだろうか?


 誰かが来る前にじっと壁に掛けてある近隣地図を見詰める。洛陽の外に行くには北東の隘路を進むしかない、そこそこ広い盆地で東西の山を抜ける為の要衝でもある。気候の他に黄河が流れているというのがポイントだな。


 河を渡っての戦略も練っておく必要があるぞ。それもやはり洛陽北部を東西になので、重要なのは北部、それも東側なのに変わりはない。


 この際気を付けるべきは南方の山岳を越えられる敵が居たら、という部分だろう。戦とは敵の意表を突くことが出来れば、好結果がついてまわるものだ。南部を抜けられても本営が洛陽にあるうちは一切関係ないが、俺が前進した時に不意打ちで陥落されないような備えをしておくべきか。


 まずは発見、そして通報が手早く可能なシステム造りだ。こちらに侵入されてからではなく、山岳に踏み入るような段階で一報を出せたら最高だな。山の先にある郷に連絡員を潜り込ませて、狼煙を繋ぐようなのが理想か。これだけに百人も割いておけば適度に機能するだろう。


 ことは重要だ、軍侯程度ではなく、部曲将あたりをしっかりと充てたい。そのうえで、直接戦闘に耐えられないような年齢が上がった者を投入する。警戒心や注意力というのが若者に比べて育っている、いつ起こるとも知れない待機任務だから適切だ。


「我が主、お呼びとのことで」


 呂軍師が二人の若者を連れて屋敷にやってきた。三人をみると物凄い心強さがある、嬉しい限りだ。


「おう、まあ座れ。これ、茶を」


 家人に言いつけると傍に座らせる。四角い机を中央に、四人が対面になるようにだ。何と無く気分で呼びつけることがないと解っているので、それぞれが目を合わせてからこちらに視線を向けた。


「まずは一歩二歩先ではなく、更にその先にあるべきことから話をしたいと思う」


「魏のその後、ということで宜しいでしょうか」


 呂軍師があんな前置きでもしっかりと俺の意図を見抜いてくる、幕僚と感覚が近しいのは非常にありがたいこと。ここ一番で以心伝心の行動をとることができるか、信頼度の最大値を期待させるものでもある。


「魏国のその後と言いますと、皇帝の扱いについてでしょうか?」


 馬謖が一つ具体的な部分をあげてきた。確かに皇帝の存在は無視できない、これをどうするかは最終的には孔明先生の判断ということになるが、判断をそこまでもっていかせないで処理する、そういう選択肢もあるはずだからな。


「魏帝には王に遷っていただき、余生を全うされるのを願いたく思います。西涼方面の宣撫に尽くしていただければ」


 姜維が伝手も実権もない状態で僻地に送るようにと提案してきた。殺すのは得策ではないと皆が考えているようだ、ならばそうなんだろう。生きているうちは残党も無茶をして迷惑を掛けることも出来ない、そう捉えるやつもいるだろうしな。


「適所を孔明先生に考えて貰おう。我等としては魏帝を害することが無いように、軍に厳しく命令を下すぞ。自害するようならばどうしようもないがな」


 軍事方針として、頂点の命の保証をすると決めた。どこかのタイミングでこれをリークして、ようやく効果が望める。そういうことにはならないだろうが、どこかで降伏派の意見が、自身の保身だと退けられることがある。だが今回は皇帝の命の保証がされていると反論出来るぞ。


 一度下ってしまえば生殺与奪はこちらにあるわけだから、極論無意味と言えるんだがね。建前上は役に立つわけだ。


「かつて献帝はその身を山陽公に遷されました、世にある三公家の一つに。魏の皇帝もその後は公に封じて祭祀を繋がせるのがよろしいかと」


 公爵家なのか? まあいい、そういう特別なのがあるってことだな。他の二人にも異存はなさそうだ。


「それが適切ならばそうなるだろう。後宮や朝廷に侵入する際には、必ず命令に従う統制力の高い部隊のみを使え。勢いに乗じて一般兵を進ませることはするなよ」


「御意」

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