第107話
「蜀の断崖絶壁を当たり前として育ってきました、あのくらいの山など散歩程度のものです」
「うむ!」
スイスのアルペン部隊のようなものか、確かに山岳兵としての適性は高い。魏は平地が多い、特性を生かせる場所は少なそうだ。詳細情報を聞き流すと太陽の位置を確かめる。夕方に開戦と思ったが、三時頃には始められそうってわけか。
大規模戦闘でこの一時間、二時間の違いは大きい。不利な側は仕切り直しが出来るし、有利な側は逆転を許してしまう。では今の俺達はどうかと言えば、明るい時間が長い方が有利になりやすい。二時間して呂軍師が傍に戻って来る、兵の多くも起床して準備運動なり始めている。
「さて、そろそろ始めるとするか」
「ご随意に」
「軽装偵察中隊を前進させろ。本隊も移動を始めるぞ!」
三十の百人中隊を前方六十度くらいに絞って進ませる、どこかしらで接敵するまで歩みを止めさせることは無い。やがて左右の端で異民族と遭遇したと急報があった。
山の上にひときわ大きな『蜀』軍旗が翻った、鮮卑らからも確実に見えているはずだ。本部の親衛隊を引き連れて、左手の端、つまりは軻比能の側に向かう。幾つもの部隊を展開し、その後ろの小高い丘に騎兵の集団が見えた。
「あれが軻比能の本陣だろうな」
「大人の印がありますので間違いないでしょう。こちらの陣形が整いました」
四方のどこから迫れても良いように、いびつな円陣を敷いている。左右の幅はそれほど広いわけではない、密集という程でも無いが、射程が短い武器での大規模戦闘などこんなものだろう。
ナポレオンのワーテルローの戦い、あれだって双方十数万が僅か五キロ四方程度の中で争ったものだ。火砲があってもそれだけの広さなのだ、弓矢を使ってのものなどいかほどのものか。
「よし『帥』旗を掲げろ、目の前に俺がいることを報せてやるんだ」
「御意」
牙門将の指揮で軍旗中隊が大きな司令官旗を立てる。万の軍勢がどこに居ても確認できるような、かなりのサイズだ。
「銅鑼を打ち鳴らせ、太鼓を叩け、戦意が高いことを異民族に見せつけてやれ!」
挑発行為をしてやると、軻比能の陣でも落ち着きが無くなる。気が短いことでは有名な騎馬遊牧民族だ、一戦してやろうとの雰囲気が強かろう。逆茂木に盛り土、出来るところは防御施設の設置に余念がない。
一度腰を据えたらおいそれと動かすことが無いのが本陣だ、生活空間を後回しにまずは防衛態勢を整えようといそいそと準備に余念がなかった。そのあたりの命令は部将らが勝手にする、チラッと見ると石を集めて山になった場所が各所に見られた。
「敵の騎馬隊が接近してきまます!」
警告がもたらされる。戦うつもりでやってきている、お互い望むところだろう。
「さっそくのおもてなしだな」
「こちらの実力も解らない内に全力で来るとも思えませんが、油断しないように致します」
呂軍師が抜けているところがないかの再点検をしつつ、応急処置用の予備隊にある程度の裁量権を与えていた。さて、俺のやるべきことが何かを定めておくとしよう。
正面で前衛同士の競り合いが始まった。短弓で射かけて来るが、それではこちらの装甲は抜けん。運悪く死ぬのだって十人や二十人ではすまないだろうが、軽微な損害でしかない。
「山のほうはどうだ」
傍に立っている連絡将校に劉司馬のところの状況を尋ねる、あちらは放っておいても大丈夫だろうが一応。極端な話をしてしまえば、全滅してもなんら戦況に影響はない。普段ならば士気の低下が著しいだろうが、俺が直卒する親衛隊を中央に置いている、一般の護衛兵らも全軍旗よりも帥旗を見て色々考えるはずだ。
「軻比能の一軍が山へ向かっているようです」
騎兵隊ではなくて歩兵が進んでいると聞かされた。馬を持たない鮮卑の兵士はいないと言われている、そういう意味では乗馬歩兵で正面戦闘に耐えられ無いだろう面々を送り出したわけだ。
本陣の攻撃に弱兵を使わずということは、反撃した被害はそのまま戦力減につながるぞ。前衛で投石も始まったか、弓矢の応酬に比べたら歴然とした被害は少ないが、馬体に当たるとそれなりに混乱が起こっているな。
とはいえ、拳ほどの石が飛んできて顔に当たりでもしたら戦闘不能に陥る。小競り合いは一時間以上続いた、一向に崩れない防御陣に鮮卑もいらだちを覚えたようだ。そのうえ守る一方で全然攻めてこないのが更に腹立たしさを増長させた。
「左手、西方より別の騎馬隊が来ます!」
大声をあげて報せて来る、警報を発する連絡騎兵が味方の陣地を騎乗したまま動き回る。喧騒が音を上塗りするので、何度も何度も発して回っている。こちらは指揮官ではなく兵士向けのものだ。
チラッと呂軍師を見るが一切動じずに前を向いたまま。対処の要は無しか、既に手配した後ってな。その後も一時間、また一時間と過ぎて行き、ついには太陽が沈んでいった。鮮卑の騎馬隊が退いて行き、出陣元へと引き上げていった。
「夜では戦えないわけか。呂軍師ならどうする?」
馬が音をたてるので隠密行動は不向きだ、夜目は効くだろうが有効かどうかと問われたら答えもしづらい。微笑を浮かべた呂軍師が「仕掛けます」とだけ発する。
「そうか。では武将を指名しよう、羅憲だ」
「御意に」
こういうことは勢いがある若者にさせるのが一番。あいつは自身の権限範囲で可能な努力を惜しまない、こういうところで功績を積ませてやるのが自信をつける最善の手になる。使いをやって呼び出している間に陸司馬を手招きする。
「なんなりと」
「うむ。羅憲に夜襲をかけさせる、それ自体は成功しようと失敗しようと構わん。だがあいつを失うわけには行かん」
こんなところで有望な手駒を失うのは失策でしかない。払って良い代価とそうではないものの見分けは極めて重要だ。
「親衛隊より屈強の護衛を十名付けます。身代わりになってでも帰着させますのでご安心を」
こちらから指示する前に言いづらいことを先回りで言う。俺の身代わりならばそれなりに言うことも出来るが、恐らくは歳下の小僧とでも見られている羅憲だからな。
「生きて帰れば昇進を、もし戻らねば郷の子弟を取り立ててその位を与え、家族全員の面倒を俺がみる」
してやれるのはそれだけだ、一将功なりて万骨枯る。将になりきれていない者にでも骨は必要だ、これが将来より多くを活かすための糧となると信じている。
「すべてご領主様のお言葉通りに」
特殊な関係。中県、あるいは俺の場合は中邑とでも言い表すんだったか。領地の民の命は全て領主のもの。それは表現であって実際は租税の一部についてだが、官を進めすぎて話が変わった。
少し前から中郷の住民はそれこそ千年に一度の繁栄と希望に満ちている。郷の代表が県の代表になり、それが州の代表を通り越して国家の最高官に登ってしまった。俺が思い通りに功績を重ねる為の素地を作ること、支えることが郷の多くの未来を輝かせることと同義になってしまっている。
個人ではなく同郷の者達全てが一つの意志で動くことが、これまでにない未来を実現させる。その多くの夢の為に命を晒せと言われても臆することは無い、何せ一時の癇癪や権力者の心変わりで無意味に殺されてしまう時代だ。
「任せる、頼んだぞ」
広いとは言えない縄張りなので直ぐに羅憲がやってきた。鎧の端っこに矢じりが刺さって残ったままだ、どこかで防衛指揮を執っていたらしい。
「羅憲参りました!」
拳を胸の前で合わせて一礼する。元気な姿を見て小さく頷いて目を合わせた。
「鮮卑はどうだ」
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