第106話

「実は軻比能は既に蜀への協力を承知しております」


「なんだって!」


「諸葛丞相の調略に乗り、北方より魏へ攻め込む手筈。恐らく魏ではそれに感付いて、西部へ鮮卑を進ませ戦を起こさせたのでしょう」


 うーむ、それは司馬懿の策略ってことだよな。全く軍師ってのは手が長すぎる。それにしても孔明先生、どれだけの働きをしてくれているやら。


「鐙将軍らが戦ってはいるが、それはそれできっちり交戦というのは?」


「状態としては同士討ちになりますが、これくらいせねば魏を騙すことも出来ません。どうするかの態度を示していない内は、司馬懿も選択肢を絞れないはずです」


 まあそれはそうだな。俺だって裏切りが確定している奴と、いつ裏切るか分からないやつなら、後者がより扱いづらい。敵とはっきりしていれば、案外対抗策はあるものだ。


「そうか。ところで軻比能とやらは本当に協調するのか」


「丞相のお言葉では間違いないとのことですが」


「孔明先生を疑うわけではないが、約束などどれほどのものかは呉の過去をみれば明らかと俺は思うがね」


 そうはいってもその言を信じずに先へは進めない。だが一抹の不安があるんだよ、こうも物事がすんなりいくのはおかしいというか、二つや三つの不都合があってこそ安心する。難儀なものだ。


 目を細めて存外真剣に言葉の意味を吟味している、呂軍師にしても慮外の反応だったか? 最悪を想定するのは常だ、味方にならないと言われて敵対した時のことを考えれば、ここで黙っているのは得策ではない。


「我が主、軻比能と会って話をするおつもりは御座いますか」


「面と向かって言葉を交わせば嘘か真か位は感じられるだろうな」


「それが一騎打ちであっても?」


「むしろより真実を得られるだろうさ」


 すっきりとした笑顔で全てを飲み込む。異民族だからってわけじゃないぞ、大抵は命を懸けたやり取りをすれば底が読める。時代が下ってもそれは変わりない真理だと俺は思っている。


「鐙将軍らが居る野戦陣の東部へ進出し、軻比能と素利の間に割って出て勝負を挑みます」


「おう、そいつで構わん。口約束よりも拳で言うことを聞かせる方がお互い素直になれるだろう」


「軻比能の腕前は漢にも轟いております、万が一の際はお退きを」


「総大将がのこのこ出て行って戦い、敵わないと知れば逃げろだと。呂凱、お前は俺を笑いものにしたいのか?」

 

 まゆを寄せて険しい表情を作る。怒っているわけではない、だが笑って頷いてよいことではない。


「決してそのようなことは御座いません」


「ならば寝言を吐くな! 約束通りならば俺が死んでも軻比能を責めることは許さん。勝てば全て丸く収まる、軻比能も卑怯者のそしりを受けることもあるまい」


 調略に乗って蜀に味方をする、それだけで鮮卑の中で悪く思う奴が沢山出るだろう。だが、命がけの戦いをして降るならば文句など言わせん。強いからこそ大人として部族を率いているんだ、そこを無視して軻比能を卑下するやつを誰も支持せんだろう。


「そこまでお考えを……私の浅慮で御座いました。いかなる罰も甘受致します」


「罰することなど何一つない。それに、仮に呂軍師が罪だと感じれば、自ら罰するだろうから俺は何も言わん。何度もいうように全ての責任は俺にある、皆は前だけを見て進め。それだけだ」


 呂凱は両膝をついて島に向かい拝礼する。恐れ入って縮こまったわけでなく、儀礼を踏襲したわけでもなく、ただただ敬いたくなり頭を垂れた。望んでも得られない奇跡が生きて傍に在る事実に大いに感謝して。


 長城を越え、河を越え、山を越えてやってきたのは未開の蛮地だ。遊牧民が住んでいるのは当然平地のあるところであって、茂みが深い山間ではない。雨が降れば道にまよってしまうような場所でも、高所に分隊を置いていることで何とか歩みを進めることが出来ていた。


 手旗信号は中距離までだな、こうも広いと旗の色で組み合わせるのが精一杯だ。形と色の並び、上下で十数の命令を出すことができる。本数を増やせば理論上不自由ない程度にまで指示可能だが、一方通行の情報なのがネックではある。


 通信分隊ではなく、高所に要塞を置いてきっちりとやり取りをすることを目指すなら、もう少し別の形も作れるだろう。今のところはこれで良い。


「斥候を怠るな、不意打ちを受けないよう細心の注意を払え」


 羅憲が声を出して普段の三倍の偵察を走らせるように命じている。正面切って戦えば数の多少はどうとでもなるが、心に衝撃を受けるとどうにもな。いると解っている敵と顔を合わせるのと、突然はちあわせるとでは全く結果が違ってくる。


 ちらりと隣をみると呂軍師が穏やかな表情で羅憲を見詰めている、その気持ち良くわかるよ。


「遠征軍の野戦陣があるのがこのあたりから西か」


 山を幾つか挟んでいるだろうけど、大体このあたりまで侵入しているはずと目見当で喋る。あまり奥に行っても仕方ないのと、退路を確保する意味で限界があるせいだ。


「あの山が北限の目印です。このあたりで一番の高地で、名を垣山と言い神仙が住まう場所と言われています」


 神仙ねぇ、まあ良い。最大の高地を確保したいのは山々だが、包囲されると守り切れないんだろうな。それはお互い様ってことでフリーになっているわけか。


「少し騒がしくなるが勘弁してもらうとしよう。さて、異民族の軍はどこにいる」


「軻比能が北西に、素利が北東に、歩度根がその少し北に居るようです」


 軻比能の南西に鐙将軍、南東に泄帰泥という形だったわけか。


「数は」


「素利、歩度根が各一万、軻比能が五万の見込みです。伏兵の有無は確認中」


 居ても多数では無かろう、それでもこの山地だから本陣を攻撃されれば充分脅威になる。見通しの悪さを武器と思うかどうかで随分と違って来るぞ。派手にやってやるとするか、面白がって戦争をするわけではないが、こそこそするのは性に合わん。


「呂軍師、垣山に蜀軍旗を立てるぞ。一軍を派遣するんだ」


「御意。劉司馬でいかがでしょうか」


「構わん」


 親衛隊の劉大司馬司馬を指名し牙門旗を持たせて、歩兵千と共に送り出す。数時間で頂上に辿り着くだろう、そこに陣取れば守るだけなら要塞のようなもの。ただし三日で干上がる、短期戦ゆえの優位ときっちりと留意すべきだ。


「重装歩兵を用意して中央に配備するんだ。弩弓兵をその後方に、四方の槍兵の予備には投石兵を控えさせろ。それとアレの準備もしておけ」


「開封して特務隊に配布しておきます」


 空模様を眺める、雲は薄く陽はまだ高い、夕方には開戦出来るだろうか。翌朝を待つと状況が一変する可能性がある、出来るうちに戦いをすべきだ。部将らの命令で投石用の石が多数集められる、普段は重いので一つしか持ち歩かないようにさせているが、一度戦いが始まれば十や二十は直ぐになくなるからな!


「警備だけ残して大休止させるぞ、夜半にかけて戦闘になるかも知れん、寝られる奴は寝せておくんだ」


 睡眠不足でふらふらになってから戦うようでは話にならん。駆ければすぐだろう場所で寝ろと言うのも大概だが、直ぐに寝られる兵程良い兵だと師匠も言っていたからな。


「我が主もお休みを」


「二時間で交代だ、お前も休めよ」


 そう言い残して簡易寝台へ向かう。靄が掛かったような状態で挑むのは切羽詰まった時だけで充分、今はあちらから仕掛けてはこんだろう。横になるとあっという間に意識が無くなる、そりとて無防備ではない。無意識で気配を探るような感覚だけが残り、近づく者がいれば目が覚める。二時間はあっという間で、陸司馬が「ご領主様、そろそろお時間です」声をかける前に目を開く。


「茶を」


「承知致しました」


 少し熱めの茶と、点心のようなものが一皿だけ付け合わされて出てくる。肉まんの類だな、中身は山菜を生姜などで味付けしたものか、これはこれでピリッとしていて丁度いい。


「さて、情報の更新があれば報告を」


「泄帰泥の隊が歩度根のところに向けて移動中です。それと劉司馬の隊がもう少しで山頂付近へ到達します」


「ほう、早いな。もう二、三時間はかかると思っていたが」

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