第91話

 約束は守ると言うではないか、だが本題はその先だ。身を半分乗り出して再度問う。


「出会ったのが許都で皇帝が玉座に在っても、それでもか」


 敵前の逃亡とみなされて処断されるのは目に見えている。この話を知っていたとしても、皇帝はそれを許すわけには行かないだろうさ。


「某は任に当たるうえで可能と判断出来ることは認めると使わされております。陛下が引き留めようと勅令を出されても言を翻しはしません、何せそのようにせよと陛下の仰せですので」


 死を覚悟してのことだと言い放つ。なるほどこいつは俺向きな外交官といえるな、鐙将軍もきっとこんな感じか、ようやく理解したよ。


「済まなかった。俺が間違っていた、満将軍の言を信じる。速やかに討伐軍を編制しことにあたると約束しよう」


 後方の憂いを除く、これはやっておくべきことでもあるからな。視界の端の映る呂軍師の満足そうな顔もおまけか。


「感謝いたします」


「成立を祝って酒宴をする。その位の自由はあるだろう?」


 その後知ったよ、こいつがタル一つあけてもへっちゃらなザルだったてことを。ま、やることが出来たし魏の投降兵の使い道も出来たと思っておこう。


 漢中周辺で集めた残党、これを対魏ですぐに使うわけにも行かないので思案しているところだった。この功績は石苞ってことだが、残党を預けて倍プッシュと行こうか。


 鐙将軍が帰還して、呉で快い返答を得たと報告をあげて来る。成都へ伝令を走らせると共に、鐙将軍を主将にして対異民族の軍を興すことにした。太守の間で呂軍師を前にして言葉をかわす。長安はまた軍事司令部としての役目を負うわけだからな。


「呉のことからだが、実際のところあちらは軍を出すと思うか?」


 破ったからと何が起こるわけでもない約束だ、今は国際関係や経済制裁も全くの無力で拘束力はないからな。これが二十一世紀ならば話は別だ、割に合わなければ遵守する向きが多いだろうさ。


「私が考えますに、出しても数万、七万か八万といったところでしょう」


 ふむ、出兵はするという見立てか。一応やるべきことをすっぽかす可能性は低いって感じなんだな。


「何故そう思う」


 自由に使える兵力を全て動かすことも無いが、半分では予定外の交戦結果を補うには少ない。退くにしても総予備はいるだろうに。戦争だ、相手を出し抜こうと考えを巡らせるし、生きようと必死に戦いもする。


「それが限界だからです。江南の地は広く人口密度が薄い地域、南部では未だに異民族が従わず、賊徒が治安を乱しておりますので」


 二十三万も居てそれは少ない。治安維持にならば十万も居れば十分と思うがね。


「少し警備に割きすぎではないか?」


「広大な領土でありますれば、十万は配備しなければ統治に支障をきたしてしまいましょう」


 呂凱も南部で広大な郡を統治するのに苦労していたからな、その感覚は概ね正しいんだろう。だからこそ計算が合わんのだが。怪訝な顔をしていると、こちらの心中を察して言葉を繋げる。


「江南の軍のうち五万は水兵で御座います。長大な長江を守備し。曹軍を防ぐためにはこれを陸戦で失うわけには参りませんので」


「なるほどな」


 特殊能力を持っている戦技兵を無くせば国が潰えてしまう、これは見逃せん。陸兵の稼働可能な全てを出しての限界なら仕方あるまい。逆に水兵が少ない蜀では精々二万未満で、万年劣勢なわけだ。上流な上に河は一本だけだったのが幸いして勝負になっていたんだな。


「合肥が曹軍の最重要拠点か」


 盧江と歴陽という呉軍の最重要拠点と等距離にある、長江北岸の城だ。この合肥ってのがくせもので、東西に山地を持っているから狭隘地の関所のような感じになっているわけだ。蜀で言うところの漢中だな。


「御意。主将は張遼将軍で、護軍は薛弟。他にも将軍級が三名常時駐屯しており、兵力は二万はおりましょう」


 二万が一カ所に集まるのは並大抵のことではない。永安方面でも一万しか常備はしていない上に、駐屯地は二カ所三か所にわけているからな。合肥は一カ所で二万となれば正面から押しても抜き切れまい。


「薛弟とは何者だ?」


 張遼は知っているぞ、あの名将だ。先だっては長躯してほんとうまいことやって行った、見事というしかないような動きでな。護軍ってのはこっちでいう中領軍のことだって聞いたことがあるが、どうにも配置がおかしくないか?


「宿将というやつでしょう。軍事司令官は張将軍に権限が一本化されていますが、護軍は宮廷からの目付け役といった役どころ」


 派遣参謀のようなものか。強力な権限をもった将軍が何をしているのかは気になるものな。指揮権はないが、上意を下して来る同僚、仲が良い奴が任命されるはずがない。


 だからって仲たがいさせたところで何の利点も無い、となるとそれなりに上手い事で来た制度ってわけだ。


「呉軍は攻めきれると思うか?」


 現地を見た上に閲兵しないことには一切読めん。それを尋ねるんだから俺も困ったやつだな。


「いくつか条件が重なれば支配者が変わる可能性もあるでしょう」


 含みがある言葉、無理だとは決めつけない。四倍の兵力がある、これを活用できれば勝てない方がおかしいが、平面の戦いしか出来ない時代だけに地形は極めて重要。


 条件ねぇ、さてなんだろうか。山を越えるってのはそもそも無理だからあそこに城があるわけだ、少数なら越えることはできるだろうが。少数は偵察で後方を調査する、それくらいだけしか出来ないな。上流、或いは下流から攻めて抜けるってのもいま一つ。


「一つは解る、援軍を入れさせないことだ」


 多数が戦に勝つのは当たり前だ、その当たり前を納得いく形で遂行するためには数の優位を確保し続けるのが必須。つまりは増援を遮断させなければならない。


「仰る通り、外圧に対応するために兵力を他の地域へ引かせる必要が御座います」


 その為に対異民族ってわけか、無関係じゃ無かったんだな。魏軍の向く先が蜀だろうとどこだろうと変わらないなら、わざわざ俺達が戦う必要はない。


 正面から戦うことが出来たとしよう、城を相手にどうする? 兵器が必要だ、切り合いでは城壁の上を占めるに不都合すぎる。


「攻城兵器が要るな。河を渡らせてからの野戦陣、こいつが強力じゃないと一点突破で攻め筋を失うだろう」


 兵器だけ焼き払うなりして破壊してしまえば城は落ちない。そして張遼なら上手い事やるだろう。かといって兵器を後方に置きすぎると活用が出来ない。


「左様でございます。あともう一つの条件を満たせば合肥は陥落するでしょう」


 ことは単純で難しい、答えが解ったらそんなものか。


「張遼を合肥から遠ざけろということだな」


「ご明察です」


 そいつはあまりにも難しいぞ。方面司令官を不在にさせるってのはな!


 とはいえ無理ではない、過去にも未来にもそういった事例はいくらでもある。ドイツの英雄グーデリアンやロンメルは不在時に自身の軍を何度も敗北させられた、それらは全て味方からの謀略だったのが特徴的だ。



「張遼と仲が悪い奴はどいつだ」


 こういう時はそりが合わないのを焚きつけるのが常道だからな。謀略の基本てっやつらしい、俺は苦手だが。


「それですが、張遼将軍は人格優れた人物でそういった者は非常に少ないと伝え聞いております。かつて楽将軍や李将軍と仲が良くないとの時も、国家の一大事に一致協力して敵を退けたほどで」


 人格まで良しときたか、お手上げじゃないか。だが二人居るならそれを使えば何とかなるだろう。


「その二将軍を煽ることは出来るか?」


「無理で御座います」


 あまりにもはっきりと即答する呂軍師に疑問の目を向ける。


「何故だ」


「楽進将軍、李通将軍、共に世を去りましたので」


「うむ!」

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