第84話

 謂水の北側わずか十キロ、『張』『左』の軍旗を中心にして『韓』『程』などの諸軍が連なっている。その北側山沿いには蜀の騎兵団が距離を隔てて待機しており、いつでも突撃可能な態勢を維持していた。


 西側からは魏延の率いる涼州軍、それに加えて趙雲が関西軍をまとめ、陳倉の兵もこれに従っている。河の南には馬金大王の南蛮軍が、いつ声が掛かるのかと様子を窺っていた。


「大包囲網だな呂軍師」


 囲んでいる側が少数なんだが、勢いは間違いなくこちらにある。総大将が逃げ去って、主将は負傷中、補給も途絶えていて身動きが出来ない状態だ。追い詰めすぎると良くないが、ここで全滅させておかねば差が詰まらん。


「糧食がなくなるまで包囲していたいところですが、荊州からの魏軍の侵入を警戒する必要があります。それに漢中で敗残兵をまとめてもう一戦との雰囲気も」


 誰が呼びかけているのかまでは不明だが、散った兵士を集めている将がいるらしい。もし数万が集えば漢中がまた危険に晒される。荊州からの軍を止める為にも要塞を置きたい、やはり時間が欲しい。ここは短期決戦をすべきだ。


「窮鼠猫を噛むという、完全包囲をせずに北東への道をあけてガス抜きをすべきだろうな」


 そうすることで徹底抗戦するよりも撤退すると心が傾く。敢えて歩兵を置かずに山へ逃げ込めるように配置を偏らせる命令を出した。函谷関を通すのは夏侯楙らだけ。こいつらは一人も通してやるつもりは無い。


 徐晃の顔を思い出すよ。郭淮将軍を連れた夏侯楙を見詰めるあの瞳、言いたいことが爆発しそうだった。だが自身も捕虜、そのうえ兵士の帰郷を約束されては全てを飲み込むしかない。


 函谷関を出る際には握り飯の一つしか持たせずに全員を追い出すように送り出した。いずれ警備の魏兵と接触するだろうし、一日食べずとも死にはせん。


 幕の中、左手には呂軍師が居るが、右手には姜軍師が侍っている。ようやく多くが参集した。


「漢中に中県軍が到着したと報告が。補給を入れるとともに、各地の余剰兵を集めての入城です。軍司令官は李覇中県尉」


 次男坊だな。中県の防衛は坦々王に任せてか、あいつにも世話になっているものだ。地元に貼り付けておくのもいよいよお終いということか。


「民兵と中軍、それに銚華の羌族軍がいる、漢中は簡単に落ちることは無くなったわけだ」


 張太守の寿命が近い、混乱を起こしたときに対応出来るようにと残してきているのが安定感を増している。憂いは無い、この包囲戦は容赦なく締める必要があるぞ!


 この上で張合将軍を討ち取ることが出来れば壊走するのは間違いない。そう易々と捻じ込めるとも思えんが、ここでやらずにいつやるって話だ。


「謂水を右袖に趙鎮東殿、その北側から魏左将軍殿、北西より陳宣威殿の歩兵で押し出します。東からは李護忠と私が。魏軍が反応をして後に、馬金大王と姜奉義の騎馬隊を差し込み張合将軍を討ち取る手筈を」


 うむ、呂軍師の線で概ね俺の考えと同じだ。騎兵から突っ込ませても良いと思っていたが、負担を減らす意味で様子見させておくか。


 姜維に視線を送ると頷いた。正攻法とでもいうべきだろうか、失策を減らして挑めば順当に勝てる。もしもの敵兵が現れた時の為に鐙将軍には長安で待機させ、俺は全体の把握に努める。


「よし、呂軍師の言を採る。各軍に通達、本日これより決戦を行うぞ!」


 赤旗の伝令騎兵が一斉に散っていく。当然魏軍からも見られている、何か重要な連絡があったと見張りが報告をするだろう。


 隠しても仕方ない、張将軍に休息をさせないためにも示威行動ともとれる動きはし続けるべきだ。局地戦だとしてもこれだけの数が前後するのは大事だぞ。一時間はたっただろうか、各軍が戦闘態勢を整えて俺の牙門旗を見詰める。


「よし、始めるぞ。石苞、軍旗を掲げろ」


「おっしゃ! 軍旗隊、赤を振れ!」


 寝かせてあった無地の赤旗が振られる。戦闘開始の合図だ、軍鼓が打ち鳴らされて戦場に喚き声が響く。歩兵が前進した。ここから先はもう止まらんぞ! 魏軍でも防御態勢を整えて迫る蜀軍を跳ねのける構え。待っていれば友軍が増援に駆け付けてくれるかも知れない、それだけの兵力はある。


 真っ先に衝突したのは戦場南西、河沿いだった。趙雲と韓徳の軍勢がぶつかり合い、一歩も引かずに死闘を繰り広げている。あの趙雲が勝ちを確信出来ない位の勢いで、韓徳将軍の気合いの程がこちらにまで伝わるようだった。


 息子四人の敵討ち、恐らく最後まで戦場に取り残されるようなことがあっても戦い続けるだろうな。趙雲にとってもここは退けない、どちらかが倒れるまで続くぞ。


 久しぶりだな、あそこに居るのは馬岱と王平か。程武軍を押し込んでいる、隣のは宋軍だな。数でも勝り指揮の腕前でもこちらが優勢だ。年季が違う、更に後ろに魏延が居るんだ安定感が抜群だな!


「北東の山岳に偵察を出せ」


 傍で陸司馬が戦場とは反対側を向いて警戒網を拡げていた。魏軍をそちら方面に追い出すのとは別口で、新手が出てきても不意打ちを受けないように。こいつはしっかりと仕事をこなしている。


 眼前の李項と呂凱は『雷』『劉』『梁』の三軍団とぶつかった。押すよりもせき止めるのが目的で、腰を据えた防戦を繰り広げている。攻めは魏延、守りは呂凱だ。二時間は戦いが続けられ、いよいよ混乱が広がって来たところで命じる。


「石苞、黄色を」


「黄旗を振れ!」


 寝かせてあった無地黄色の旗が掲げられ、左右に大きく振られた。じっと合図を待っていた姜維と馬金大王が同時に進軍を命じる。南蛮軍が謂河を渡り武功の領域をかすめて韓徳と雷軍団の間を抜けて、魏軍の本陣へと一気に駆け込む。


 五営北軍の騎兵団も指揮下に置いている姜維も、三つの騎兵団を『于』の守る北側に突入させる。三か所の内で一つだけが比較的早めに戦線を乱してしまうと、そこへ向けて残りの騎兵を集中投入してしまう。


 予備兵が穴の開いた場所に突っ込むと、本陣へ向けての道がこじ開けられた。喰らい付いた! 張軍が交戦を始めると慌ただしく防御兵が動き出す。河に飛び込むわけには行かず、蜀の奥地へ行くことも出来ない。北側が空いていればそちらに逃げ出していくのは道理だ。


 バラバラと北の山地へ向けて行くが、そこへ側面から攻撃を加えるのは陳式将軍だ。面で押して魏軍を東へと追い立てる、左翼を前にだして右翼を引き下げた斜線陣で圧迫していく。


 良いぞ、このまま北東へ誘導するんだ。全体が思うように推移している、ここで気を抜いてはいけない。目の前の戦場ではないどこかに脅威が無いかを再確認する。


「偵察班より魏軍の姿はないと報告が上がっています」


 陸司馬が状況を見て報告をする。放っておいても魏軍を駆逐できるだろう、同等に戦えているのは韓徳軍だけだ。全体が撤退しようとしているのに、あいつらだけは西へと歩みを進めている。


 総大将は待つのが仕事だ。複雑に組み合わさる戦場、太陽が落ちるとまたやり直しになる。夜襲への警戒も必要になる、本陣は手近な城に入るとするか。


 今は人が住んでいない城跡があちこちに点在していた。何せ中華は戦争がそのまま歴史といえるほどに争いが続いている。どこの誰が作ったのか解らない石造りの囲いが簡単に見つかった。茶色の旗をなびかせた騎兵が本陣に駆けて来る。あいつはうちの兵じゃないな。


「伝令! 鐙将軍の手の者です。長安南東より魏軍の一団が侵入、その数五万!」


 やれやれ、あれだけ追い返したのにまた五万。こちらへ到着するころには駆逐出来ているだろうが、頑張られたら盛り返される恐れがあるな。


「主将はどいつだ」


 一軍を送って足止めをしておく必要があるだろうな。北部山地は匈奴が進出してきているんだったか、無傷で抜けることは出来まい。


「軍旗は『張』『前』です!」


 張で前将軍というと、張遼だな! こいつはまた随分と厄介なのが出張って来たぞ、どいつを差し向けたら釣り合うのか俄かにわからん。


 鐙将軍に向かわせるか? ここで長安の防備を薄くするのはどうだろう、張合が意を決して攻めなければ危険は少ないだろうな。


「呂軍師に戦線を離脱し――」


「南方に急接近する軍があります!」


 命令を下そうとしたその瞬間、伝令が駆け込んできた。早い! こいつは悠長に構えてられんぞ。聞きしに勝る神速の軍兵だ。


「陸司馬、本営に戦闘準備だ」


「御意!」


 呂凱には警戒を行うように命じて幕の外に出る。遠くに凄まじい土煙が上がっている、歩兵なら五万だがこれは騎兵のそれだ。ということは五千の騎馬兵団だな、一つ間違えるとこちらが窮地に陥るぞ。


「馬金大王と姜維に引き上げるように伝えろ、騎兵団には騎兵団だ。今までで一番厳しい争いになるぞ」


 張遼が向かう先はどこだといえば迷わずここだろうな。俺を倒せば全て綺麗に収まる、否定は出来ん。


「大将、随分と気合が入ったやつが来るぜ。張前将軍ったら魏の武将でも最高峰の将軍だからな」


 遠目にもわかる揃いの鎧、騎馬も立派で乗馬歩兵ではない。一人一人が武兵で戦闘力は今までで一番だろう。相手にとって不足はない。

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