第78話

「ここではないどこかで攻勢に出ているんだろう。ならば残りかすのような兵士を撃滅させるとしよう。伝令を出せ、姜維と呂凱に攻勢を強めるように命じろ。漢中の本営も出撃準備だ」


「畏まりました」


 何かの罠だとしても警戒だけして足を止めているような真似は出来ん。時間稼ぎが目的で、罠があるように見せかけているだけだとしたら目も当てらんぞ。漢中兵だけを残して、各門に兵力を集中配備。号令があればすぐに出られるように待機させておく。


 武装の質も量も充分、あと一万は増えても余る程だ。恐らくだが中県軍を待っていては遅い、俺の勘がそう告げている。


 数時間で姜維、呂凱の軍勢が北の山に向かい押し寄せて行く。代わりに周辺の偵察を深く行うようにして、背後からの急襲に備えた。だが不審な集団はついぞ見当たらない。


「夜間は篝火をいつもの数倍立てて夜襲に警戒しろと命じろ。今晩何も起きなければ明日決めに行くぞ」


 心づもりを伝えて判断の一助にさせる。陽が暮れるまで城壁の上から戦況を睨んでいたが、手出しをするような場面は訪れなかった。しっかりと飯を摂るようにさせ、握り飯など携帯可能なものを余計に作らせる。細かいことに口出しする大将だと思われているだろうが知ったことか。


 落ち付かない一日を過ごす、夜中になっても寝付けない。何だ、何かを見落としている? 寝所で横になったまま今一度考えを繰り返した。兵が弱いのは異常だ、ここは最前線で大都督の兵だぞ。最初の異変は総大将のすり替わりだ、あれはいつだったんだ?


 俺がここに着く前、それでいてその前に報告があった後。二日以内の話だ、不可能ではない。大将が変われば兵も動揺するだろうが、曹真から司馬懿になったなら心強くは思っても、逆は無いだろう。それなのにこうも兵が弱い。周りに兵を伏せている風でもなくだ。


 ……司馬懿はもう陣を離れている? 交代でやって来て、直ぐに自身も最前線を捨てて首都に戻っていたとしたらどうだ。兵の士気は下がり、まともに動きもしない。


 皇帝が病だとしたらってのが当たっているなら、兵を捨てても勇戦するだろう。そしてここの軍が可能な限り戦いを引き延ばす、時間稼ぎってのにも合致するぞ。


 情報が足りない、核となる部分が伝わらん。全部俺の妄想と憶測でしかない、だが何なんだこの違和感は! 戦士の直感が動けと騒いでいる。俺は一人の兵士ではなく、全軍を率いる総大将だ、思い付きで軽々と全てを傾けることなど出来ん。だが。


「ご領主様、奥方が参っております」


 部屋の片隅で陸司馬が取り次ぐ。こいつ、一日中側に居るが、ちゃんと休んでいるのかね。


「中へ」


 銚華が寝所用の着物を纏いやって来る。顔を見る限り夜伽のつもりではなさそうだ。こんな深夜に何かあったか?


「どうした銚華」


 寝台に座って居住まいを正して瞳を見詰める。真剣な表情の銚華は眼前に立つとじっと見返して来る。


「旦那様に申し上げますわ。今も何かを感じられておられるのならば、そのお心に従ってみてはいかがでしょうか」


 おいおいいきなりどうした。こいつは何を知っているんだ。


「どういう意味だ」


 少し目を細めて顎を引く、敵対するわけではないしそんな素振りは微塵もない。そんなことは解っているが、それでも突拍子もない言葉には注意をした。


「今日一日ずっと難しい顔をなされておりました。そして今も寝ておられないとのこと。何か気になることがあるのではなくて?」


 そういうことか、知っているのは俺について。そして俺は俺自身について銚華より知らんというだけか。


「ああ、もしかしてと思うことがある。だが俺は全軍の総大将ゆえ軽々と動けはせんのだ」


「なにゆえでしょうか」


「うん?」


 銚華は背筋を伸ばし、両手を腹の下で合わせて真っすぐにこちらを見たまま声を張る。


「旦那様が動けないと仰るのはなにゆえでしょうか」


 そりゃそうだろ、軍団と連絡も取れなくなるし、ここを放り出すわけにもいかん。それに言ったように総大将ってのはどっしりとしているものだろう。


「十万を超える軍の頂点がうろちょろするのは皆に迷惑が掛か――」


「一人の武将として、感じるところがあるのならば、旦那様は己を信じて進みはしないのでしょうか? 誰憚る必要がありましょうか」


「銚華……」


 そうだった、己を信じて仲間を信じろ、何度言い聞かせてきたことか自身で忘れるとは情けない。気づいたならそれを追い求めて前へ進め!


「俺が間違っていた。陸司馬、全軍起こせ、直ぐに目の前の魏軍に総攻撃を仕掛けるぞ!」


「はっ、ご領主様!」


 速足で寝所を出て行くと、兵溜まりに居た者達に命令を伝える。赤の旗指物を括りつけると各所に走って行った。


「出過ぎたことを申し上げました、お叱りは何なりと」


 立ち上がると銚華のとなりに行き、腰に腕を回して引き寄せる。


「俺にとって最高の言をくれる者に感謝こそして、他に何をいうことがあるだろうか」


 細い身体で抱き着いてくると、銚華は胸に顔を寄せた。そうだ、総大将なんてのはおまけでしかない。俺は島だ、島龍之介。多くの仲間と共に苦楽を分かち合ってきた、それこそが全てだ!


 深夜に緊急呼集が掛けられて何事かと幕僚が集まって来る。主要人物が揃うまで一切口を開かずに待たせ、ようやく一言だけ告げた。


「これより目の前の魏軍に総攻撃を掛ける。異論は一切認めん、直ぐに出撃するぞ!」


 せめて何か説明して欲しい、そんな表情がありありと伝わって来る。例によって向歩兵校尉が代表して進み出る。


「幕下の者を代表して申し上げます。今少し動機の説明を頂きたく思います」


 皆の視線が集まる。


「あそこに司馬懿は居ない、ゆえにこれを強行して押しつぶす」


 妙に強気、それでいて確信めいた口調で応じた。そんな話は今まで聞いていない、幕僚の誰一人としてだ。重要な方針の転換、何があったのかを調べている時間は無い。


「そのような情報は入っておりませぬが、どこの筋よりの報でありましょうか」


 なにせ向歩兵校尉を介して報告が上がってくるんだからな、知らないと言うのは納得いかないだろう。皆を見回して注目を引き寄せて「俺の勘だ」短く告げる。今の今までそんな返答を受け取ったことが無いだろう向歩兵校尉が、目をぱちくりさせて言葉を失う。


「そ、それは……その、なんといいますか。再考の余地をお認め戴きたく」


 だろうよ、お前が正気ならそう言いたくもなるはずだ。だが真面目に戦争をしてられるほど俺は勤勉じゃないんだ。


「これは決定事項だ。この先異論を出すようならば抗命とみなす。もう一度言うぞ、これより魏軍に総攻撃を仕掛ける。全軍出撃だ!」


「か、畏まりました」


 向歩兵校尉が礼をして認めると、この場の全員が言葉を受け入れた。同士討ちを警戒して灯りは多目だな、数時間で夜が明けるそれまでは要注意だぞ。


 北門を出て橋に向かうあたりで戦の喧騒があたりに響き渡って来る。山の裾野では多数の松明が揺らめいている、前線で戦は始まっていた。両軍の背を守る位置取りをするぞ、兵を取り逃がしても構わん、統率を奪うのが目的だ。


「両翼を離れ気味に置いて、姜軍、呂軍の後方を守らせろ」


 馬上から目と耳と、伝わる兵気で状況をつかみ取ろうとする。人が発する熱でも何と無くだがぼやけて大枠が伝わって来るのもだから不思議だ。


 暗いうちは双方何がどうなっているかなど全く解らない、急なのはお互いさまで動きは乱れに乱れ切っている。こうなれば小部隊の指揮官らの腕前と、兵士の戦う意識に全てが左右された。

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