第69話
轡を並べて長安に入ると、城門の下で十数の官吏が出迎える。
「島京兆尹のご帰還、ありがたく」
董丞が全員を代表して挨拶をする。行京兆尹は城壁から足を滑らせて転落した、事故死だそうだ。まあとやかくは言わんよ。
「長らく留守にした、苦労を掛けたな」
「お気になさらずに。どうぞ城へお上がりくださいませ」
軍兵を収容し、温かい食事が振る舞われ、傷の手当てを行う。その際は徐軍の捕虜にも分け隔てなく全てが与えられる。
長安内城、太守の椅子へ腰を下ろす。随分と久しぶりに思えるが、帰って来たんだな……そうか、帰って来たと言う感覚があったか。席の左に呂凱が侍る。眼前の広間に懐かしの顔が並んでいた。
「董先生、不在の間苦労を掛けさせてしまい申し訳ない」
董遇後軍師は畏まると一礼して声を発する。
「今このようにしてご帰還なされましたことをこそ、喜ばれますよう」
戦乱の世だ、明日になにが起こるかは誰にもわからん。元通りになれたことを喜ぶ、確かにそうなのかもしれん。
「石苞、抱えたばかりなのに悪かった」
「これはこれで貴重な経験を積めたし、まあ悪いばかりでもないさ」
にやっと笑って終わりにする。得るモノがあったならそれもよしだ。こいつらを連れて隠れていてくれた、呂凱の機転に感謝だな。
「馬謖、孔明先生は自由を失っている。だが健在だ、今は向歩兵校尉と寥平南将軍が身辺を警護している」
「万が一の際は山中の庵にお隠れになられるはずです」
ふむ、避難所を知っているわけだ、側仕えは伊達じゃないわけか。暴発しないように注意しておこう。こいつらの他にも袁、関、向ら零陵の士も後ろに並んでいる。ようやくまともに軍を動かせるぞ。
「董丞、早速だが俺は漢中へ取って返し、曹真を撃破して、成都に行き国賊を排除せねばならん。中県の解放に永安の防衛、やることが山になっていて留守にする」
見えているだけでこれだ、これらは増えることはあっても勝手に解決はせんだろうよ。
「負傷者の療養は長安がお引き受け致します。寥将軍が武器庫を開き、倉は空になっております」
あいつ、後方に装備を引き上げてどうするつもりだ! 軍に余剰は無い、何とか自力で守り切ってもらうしかないぞ。
「島将軍、函谷関の備えを融通させてはいかがでしょうか」
呂軍師が提案をして来る。確かにこれだけの数が雍州を通過しているんだ、今更函谷関を力攻めする意味はない、ならばあそこにある備蓄を生かすのが良策。俺に従うのかって部分は不明だがな。寄越せと言うから角が立つ、それに鐙将軍は清廉だ変な真似はせん。
「結果的にはそうなるようにする。長安を守る為にも、近隣の拠点は連携をする必要があるからな」
居並ぶ皆に等しく視線をやって少しだけ待つ。声があったのは左隣、やはり呂軍師だ。
「鐙将軍に一帯の指揮権を与えるわけですか。それならば引き受けることでしょう」
「今はあいつの純軍事能力に頼る。董丞、異論はあるか」
蜀では片手で数えられる程の人数しか与えられていない仮節を預かる者、皇帝の信頼を得ている証。董丞も畏まり受け入れた。
「うむ。函谷関へ使者を送れ。鐙将軍に督長安を加え、函谷関まで一帯の軍権を与えるとな」
涼州長安と糾合し騎馬は増えた、四千の集団になったからな。だが歩兵の装備は困窮するぞ。数を連れて行くか、選り分けるかは重要だ。少なくとも漢中兵は連れて行かねばな、南蛮兵と警備軍をどうするか。季節的にはまだ問題ない、ならば前者だ。
「徐軍を捕虜に得たと聞きました。それらはいかようにされるおつもりで?」
それな。連れまわすと補給が圧迫されるし、残して行って良いかどうかは判断に苦しむ。徐晃が望もうと望むまいと、供回りが動けば反乱は起こる。だからと徐晃だけを連れて行くのも塩梅が悪い。いっそのこと解放するか?
「徐将軍をここに」
呂軍師の問いかけを無視して目を閉じる。邸宅に軟禁されていたのを呼び出すと、一時間とせずに城へ上がって来た。
「徐晃が参りました」
呂凱以外は存在感に少し緊張している、彼我の力量を知ることが出来るのは大切だ。そういう意味では呂凱は最初から徐晃の力を充分に知っていたわけだ。
「我等は長安を離れ行くべき場所がある。貴官の行く末を選んでもらう。長安で兵を監視し大人しくしているか、蜀の南方地域へ動くか、さもなくば」
じっと瞳を覗き込んで徐晃の心を読み取ろうとするが、動揺せずに見つめ返される。
「徐軍の兵を解放し、徐将軍が蜀へ降るかを」
これは一つの踏み絵のようなものだ、一つしか選ぶことが出来まい、どう返答する。緊張の時が数瞬流れ息を飲む。
「兵を解放して貰えるならば死を賜ろうと構いはしないが、蜀に降ることはかなわん。さりとて道を示してくれた島将軍の負担になる南方への移動を選ぶことも同じくかなわん。なれば長安にて我が兵が騒乱を起こさぬよう、責任を持ち監視をさせて頂く」
望む返答をしてくれたことに感謝だ。俺はこれに応える必要があるぞ。
「何者であろうと捕虜への手出し無用。禁を破る者は俺の敵とみなす。董丞、衣食住の手配を任せる」
「畏まりまして」
目の端で董丞を確認すると「労役は行って貰う。徐将軍の指揮下で長安周辺の戦場掃除をな」死体を放置していては疫病の蔓延を招きかねない。それと死体から武装を剥ぐのは野盗対策にもなるのでやらねばならない仕事でもある。
「承知」
働かずもの食うべからずではないが、兵も民も疲弊している、休ませるためにもここは負担してもらわねばならん。
◇
翌日、椅子が温まることも無くすぐに城を出た。子午道を南下して、西に折れる経路。漢中から長安へ奇襲を仕掛けた時の道を逆に行っている。
本来ならば騎馬だけでも急がせたいが、歩兵と分離させるには危険が大きすぎる。途中で敵と遭遇する可能性が極めて高いからな。
「長距離斥候を出せ、特に渓谷前後を重点的に探らせよ」
本営で呂軍師が命令を下す。戦略行動は全てこいつが肩代わりしてくれるし、軍は李封を始めとして校尉らが実務をまとめてくれていた。ふと楽だと思っちまったな。余裕が出来たんだ、ここでようやく司令官の職務について考えを深めるぞ。
漢中の敵を退けたとしてだ、魏軍全体の行動はどうなる? 永安方面は道が細長い、これを強行して全てを抜くことはまず出来ないだろう。なにせ河を使えないような魏では無理がある、あちらは兵力を分散させるための陽動だ。
涼州には趙雲の増援二万が更に向かった、それまでだって防いでいたんだからこれも押し切れるとは思えん。となると漢中に集中して来るな。
これを退ければ全ての戦線で無理が出てきて継続戦闘が不可能になる。全体の動きはこうだろう。少し甘い見立てではあるが、漢中で俺が勝てたらという条件付きだ。これで終れば難題とは言わないんだがな、ここに特殊事項がひっついてくる。
漢中で全て退けると成都で寥化が息を吹き返して、またよからぬことをする。漢中が落ちない程度にし、魏軍が益州へ抜けて成都が警戒する。その間に孔明先生を助け出し、中県の包囲をとかせるような動きをしたい。一つ間違えば色々と危ない綱渡りな計画だ。全くどうしたものだか。
「なあ呂軍師、こっそりと孔明先生を助け出して寥化が納得すると思うか?」
そうすれば今後どうとでもなるんだろうが、どこかで仲裁でも入れば禍根を残すことになる。さじ加減がえらく難しいぞこれは。
「あの手合いは厳しく突き放さねば目が覚めないでしょう」
だろうな。殺してしまうのが一つの手段ではあるが、心を挫くことが出来れば頭数として計算できる駒だ。蜀では人材が不足しているんだ、並み以上の奴を使わんのは国家の損失だぞ。
どうやったら挫けてくれるか、それがわかれば苦労はないんだよな。にしてもどうしてこんな無茶をしていいるんだ?
「寥化が行動に出ることに気づけなかった、呂軍師ですらだ。あいつはいったい?」
だってそうだろ、俺の補佐をするためにあらゆる警戒を代わりに買って出てくれているんだ、素振りがあればいち早く察知しているはずだ。この世界の常識が欠落している俺とは違い、呂凱は大きな落ち度がないからな。
「見逃してしまい言葉もありません。寥将軍は先帝の寵愛を受け、蜀に忠誠を誓っておりました」
それがわからん、だったらどうしてって話だ。視線を向けて先を促す。
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