第64話

 なるほど、これを合図として利用するつもりか。山火事が起きただけなら動かないだろうが、火が起きて戦闘の喧騒があれば百の内九十九は、魏と蜀の戦闘だ。


「対抗してくるだろう、直ぐには退かん」


 意気地がないと兵に見限られてはたまらん。それに陽動に引っ掛かるとも思えんからな。


「島将軍の軍には他にはない特異事情があります」


 特異なことだと? ふーむ、色々と心当たりがありすぎて逆に解らんぞ。じっと見つめて口を開かずに先を促す。


「それは軍旗の種類の豊富さです。これらを多数掲げて大軍を装い示威行動をとることで、敵を山から追い出すことができると考えます」


 なるほど、確かに軍旗は多目に抱えている。俺の趣味でもあるが、『蜀』『南蛮』『雲南』『右』『島』『中』だけでなく『雍州』『長安』も抱えているからな。


「一人で十本立てる竿師の仕事でもさせるか」


 微笑して案を承認してやる。南から長安では不審がられるが、雍州ならば不思議はないな。少なくとも一万や二万の兵力とは思うまい。


 一個大隊に専属で軍旗を任せ、残りで攻めることにする。森を焼くのも一個大隊、前線で実際に切り結ぶのが五個、交代でもう五個。残りは本営を囲むように配置して、騎兵隊を直下に置いた。


 準備だけさせるとあまり近寄らずに兵を休ませる。深夜に動く為に今のうちに早めの睡眠をとらせてだ。


 どんな状況でも寝ることが出来るのが良い兵の条件と、俺の師匠が言ってたな。まあその条件ってのが後でいくつも出て来るものだから、兵も楽じゃないってわけだがね。


 何も起こらないうちに俺も寝ておくとするか。三時間交代で全員に睡眠時間をとらせ、火を使わずに飯も食わせる。保存食というのは塩辛くてうまいものではないが、腹は膨れる。何よりこれから汗をかくわけだから、塩分の補給は大切なことだ。


 さてそろそろ始めるとするか。月明かりがありそれなりに足元が見える、吉と出るか凶と出るかわからんがな。


「羅憲、伝令を出せ、追い込みをするぞ」


「ははっ!」


 側近騎兵を呼び寄せたところで視界の左端で異変が起こる。森が燃えていた、それもあちこち一斉にだ。あの位置はこちらの仕込みじゃないぞ、ということは魏軍の夜襲だな。


「徐晃軍の様子はどうだ」


 命令を保留にして、夜目が利く兵に状況を確認させた。しばし時間が空いて慌てて戻って来た兵が「山に敵軍の姿がありません!」衝撃の事実を口にする。


 すれ違いか! とすると趙雲の陣地へ攻撃に出たわけだな、これを追撃するとしようか。目を細めて悔しそうな表情を浮かべる羅憲に「これは絶好の機会だ」前向きな姿勢を押し出す。こんなものは言ったもの勝ちだ。


「どういうことでしょうか?」


 想定外の事態に何を言っているのか、怪訝な顔をするのはよく理解出来る。


「徐晃軍には役割があり動いた。ただ夜襲から守るだけと違い、負担が倍増する。千在一隅の機会が目の前にあることに小躍りしそうなくらいだ」


 余裕の笑みを浮かべて幕僚にチャンスだとの空気が漂うようにする。実際は手探りだが、そんなことは関係ない。


「李封に伝令を出せ、徐晃軍の真後ろから襲撃させるんだ」


「御意!」


 暗闇の中背中を切られたら誰だって驚くさ。その時なにを思うかだ。側に引いてきている馬に乗る、親衛隊も全員が騎乗した。必要だからと農民だった奴らが武装し、幾度も戦争を体験し、ついには騎兵にと文字通り鞍替えした。


 専門の訓練を受けて、精鋭足らんとしたわけではない。これこそ戦闘の末に生き残った歴戦の軍兵。


「本陣はこのまま北進するぞ」


 多くを語らずに軍勢を予定通りの道で進める。無論そこには誰も居ないし、陣地も引き払われていた。


 中腹から北西へ折れる、その頃には趙雲が陣取っている丘が燃えていた。夜襲を受けているが簡単に陥落はせんだろさ。


 そもそもが三万の趙雲に徐晃二万だけで対陣しているはずがない。いるならば北側にもう一個軍が存在しているはずだ。二万か三万か知らんが、一万以下なわけが無い。音をたてずに戦場を反時計回りに進み、燃える陣地の北側に回り込む。


「報告します、ここより南に張合軍が、南西には程武、韓徳が居て趙将軍の軍を攻めております!」


 都合四万前後か、すると倍の敵を相手にしていたわけだ。ここで退いて連絡を断ち切られるわけにいかず踏ん張ってくれていたことに感謝を。


「魏軍は趙将軍を攻めることに夢中で背中ががら空きだ。軍陣が燃える灯りで敵の姿が見える、一気呵成に攻め寄せてこれを援けるぞ。俺に続け!」


 親衛隊を引き連れて山道を行く。道が無いはずなのに進めるのは、既にここを多数の人間が通った後だから。


 燃え盛る蜀の軍陣、そこに群がる魏軍。後方に司令部を置いている部隊の部将が見えた、そこへ迷わずに接近し矛を振るう。


「な、なんだ!」


 左右から歩兵が進み出て面で押す、心に衝撃を受けた魏軍は止めることが出来ずに走って逃げる有様だ。


「俺は蜀の右将軍島介だ、まんまと罠にはまった魏軍の首をもらい受けに来た! 者ども掛かれ!」


 行き当たりばったりだったかは誰にもわからんだろう。暗夜背後から湧いてくる敵兵、前には陣地に籠った蜀軍。挟撃にも似た状況、仲間同士の密度を濃くするか、幅広く構えるかしかない。肩を寄せ合い取り敢えず対抗しようとすると陣容が薄くなってしまう。


「霍翊軍校尉、鳳珠羽空王、敵を分断しろ!」


 横に伸びている歩兵部隊に、三角陣の騎兵団が突撃をかけた。厚みの無い配置を食いちぎられるとそこへ漢中兵が切り込み、局地的な包囲戦が始まった。突っ切った騎兵がぐるりと向きを変えてあちこちで分断を計る。うん、なんだ? 左手の方角から喚声が近づいてくるな。


「報告します、張軍の騎兵が突撃してきます!」


 対応が早いな! さすが名将の誉れ高い張将軍だ、簡単には崩れんか。奴が向かって来るなら受けて立つ、従深陣を抜けるモノなら抜いてみろ。


「第二大隊に命令だ、百人の防壁を十作れ。第三にも同じ命令を。司令部を移動させるぞ」


 壁の後ろにすっと動いて趙雲の軍陣を窺う、暫くするとまた騒がしい声が近づいてきた。まだ進んで来るか! いつまでも勢いは持つまい。


「第四大隊に壁を作らせろ。第二と第三を集合させて予備に回せ。第五大隊にも待機を」


 燃え盛る炎の勢いが強くなってきた、もしかして趙雲は押されている? だとしたらここで構えているのは得策とは言えん。


 李封からの連絡はない、あちらは順調なんだろうきっと。大分兵力を削ぎ落したはずだ、騎兵を戻すか。


「鳳珠羽空王らを引き揚げさせろ」


 また騒ぎが近づいてくる、うーん歩兵ではダメか。暗夜に初見では対応も出来まい。


「陸司馬、短弩の準備をさせろ」


「御意!」


 親衛隊に武装の変更を命じて左を向いて警戒させる。進入路を限定させるために左右の正面に、歩兵隊を塊で備えさせ中央を開けた。徐々に近づいてくる騎兵団、先頭を行くのは煌びやかな軍装の武将だ。老人と言って差し支えない男、魏の左将軍張合とは彼のこと。


「ようやく見つけたぞ、あやつが蜀の島右将軍じゃ!」


 片手で矛を向けてきて、少し枯れた声でご指名か。本来は俺もあんな感じの年齢なんだがな。


「高名は聞き及んでいる、魏の張左将軍と言えば名将の中の名将。こんなところで夜遊びをしてどうした」


 老害で短慮になってくれていたら不意打ちもし易い。他に騎兵は居ない、五百弱だな。負傷者も多い、よくぞここまで来られたものだ。


「貴様を切れば蜀は落ちる。そのそっ首、もらい受ける!」


 騎馬を走らせて一直線やって来る。何かの罠でなければそれは失策でしかないぞ!


「親衛隊、うてぇ!」


 陸司馬の命令で、外套の下に隠していた使い捨ての短弩を張合を先頭にして迫る騎兵に向け撃った。馬が前足から崩れて地面に転がる。


「張将軍! 者ども、主をお守りしろ!」

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