第50話

 異論は一切挟まない、忠誠対象は国家でも皇帝でも無く、郷に繁栄と安定をもたらしてくれる人物。申し訳なくて溜息しか出ない。しっかりと休んで体力を温存しておく。朝もやが出て急激に気温が下がった。昼間になれば逆に暑くなる、季節の変わり目は体調を崩しやすいものだ。ゆっくりと西へ向けて移動を続けること数日、少し先に郷が見えてきた。少数の兵が偵察に出る。


「ここはどのあたりなんだ」


「益州郡北東部の同瀬県と思われます」


 地図は無い、土地勘がある者も極めて少数。住民に尋ねてようやくどこかが判明した。山中をあと十日も行けば永昌郡の東端に出られるか? 偵察が戻るまで大休止にして昼食を摂らせる。手持ちの食糧もそろそろ補充しないと残りが怪しくなってきたな。


 無補給なわけではない、野生の動物を狩れば充分腹は満たせるからだ。そこは移動しているのが有利で、取りつくすことが無いので見つけられるかどうかだけが問題だった。


 兵が戻って来て詳細が告げられた。どうやら同瀬より大分南の同労県に来てしまっていたようだ。脳内にあるおぼろげな地図を思い出す。益州郡の南東部、永昌郡は益州郡の西、それもどちらかと言えば北よりにある。


「郡のど真ん中を通過するか、道を戻るわけか」


 参ったな、やはり地理不案内ではな。選択肢があるだけマシとも言えるが、決めるのは俺の責任だ。


「ここから北西へ進路をとる。道は必ず繋がっている、一歩一歩進むとしよう」


 行軍を命じるとまた太陽が沈むまで進み続けた。同労の郷から少し離れた場所、いつもの山中で野営。いい加減設営も慣れてきたもので、随分と素早く寝床を用意出来るようになっていた。幕の外から声が掛けられると李封が応じた。少し言葉を交わし振り返る。


「ご領主様、このあたりの住民が是非話がしたいとやってきているようですが、いかがなさいましょう?」


「住民が俺を指名か。連れてこい」


 ご指名のわけはあとまわしだ。これが情報戦であっても何でも、まずは聞かんと始まらん。直ぐに幕舎に中年男性が連れて来られる。二人連れ、うちひとりは旅装と言えるような身なりだった。


「お前の名は」


 自身では名乗らずに問う。名前などどうでも良いが、喋らすことが目的で表情を読み取ろうとの魂胆だ。


「私は益州郡同労の住民で沢と申します。お目通りかないありがたく」


「ふむ。その沢とやらが私に何用だ」


 姓を持たずとは、貧民の類か。戸籍が無い者などいくらでもいる、どうやら話があるのは後ろのやつらしい。


「それはこの者が」


 視線が旅装の中年に集まる。覇気があるわけでも、これと言った何かが感じられるわけでも無い。


「お前は」


「私は雲南からの行商人で蘇陽と申します。島の旗が見えたのでこれは耳に入れておかねばと、無理を承知で拝謁を願いました」


「行商人だって?」


 俺の軍勢は居場所が解っている、それは一種の駆け引きってことだろうな。商人はただでは動かない、利益があってこそだ。


「益州郡都には関監軍将軍が治安維持の名目で駐屯してございます」


 李信をチラッと見る。すると視線の意味を理解したようで説明を加えた。


「関興将軍は、関羽将軍の嫡子で、先年までは病で暫く療養しておりました」


 関羽の息子か、すると張飛の息子と当然の様に同じ方向を向いているぞ。治安維持ってことで俺への対策軍を派遣してきたわけだな。この情報は間違いなく俺への贈り物だ。


「そうか。蘇陽、その情報千金に値する。いずれ必ず報いるので証書を発行しよう」


 そんなものを持って居たら摘発の対象になるかも知れないというのに、蘇陽は恭しく書状を受け取った。


「時に蘇陽、周辺の地理には詳しい?」


「幾度となく行き来しておりますので、土地の者同様に動けると自負しております」


 この地方だけでなく他もってことだよな。売り込みにきたのは自身ってわけか。いずれ案内人は必要だ、ならばこいつを雇うのも手だ。


 もしこれが誰かの謀略だとしたらどうだ、俺を罠へ誘い込むための序章ってところだな。蘇陽は軍陣の外へは出られない、連絡を付けるのは困難になる。予め罠の場所が決められているとの前提だ。


「そうか。ではどうだ、私の側に在って助言をしてはもらえないだろうか?」


 側近はこれといった反対も賛成もしない。こいつらもそれぞれの意見を持っていても良いんだが、その課題は後にするとしよう。


「お望みとあらば」


 指先を胸のすぐ前で軽く合わせて礼をとる。その仕草が随分と板についている、無骨な武人ではなく論客の類か? 見た目ではこれ以上何とも言えん、まずは様子見だな。


「劉司馬、蘇陽殿の取仕切りを。それと沢にも褒美を取らせろ」


 こちらは口止め料ってところだ。金さえもらえば後は知らんふりが自分の為でもあるからな。幕舎から二人と劉司馬が出て行ったのを確かめて「信、蘇陽が件の関、張らの手の者だと注意して動向を監視しておけ。だが決して害するなよ」さじ加減が難しいところはあるが、こういうことの経験を積ませるのは俺の守備範囲だからな。頷いて一礼すると劉司馬を追って幕舎を出て行った。


「さて、今夜は休むとしよう。封もいい加減様子をみて寝ておけよ」


「承知致しました」


 返事はするが門番宜しく幕舎の出入り口を離れようとしない。まったくこいつらと来たら。パッと目が覚めると外が明るくなっていた。流石にもう封は警備に立っていない、居るのは親衛隊の兵士だ。こちらから出来る調略は何かないものかな。うーん。


「何も思いつかん。呂軍師のありがたさが身に染みるね」


 黙っていても暖かい朝飯が勝手に用意される、そうなって結構長い。妻とは言っても銚華と寝所は別々、これまた違和感なしか。身だしなみを整え外へ出る。皆も食事の最中で、鍋の中身を見るとクズ芋のような根菜が煮込まれていた。


 兵には肉を食わせてやりたいが、いつでも狩猟できるわけでは無いからな。郷から徴発するにしても益州郡では上手くいかんだろう。蘇陽の姿が有ったので早速知識を引き出しに掛かった。


「どこかで物資の補給をしたいのだが、適切な場所はないだろうか」


 諸条件を簡単に説明し、目的地は教えない。近隣のどこへ誘いたいのかをまず知っておくとしよう。


「それでしたら勝休県がここより西へ少し進んだところに御座います」


 郡都の真池城が間近の場所か、誘い込むにしてもあまりにもあからさまな感じだな。かといって山地をうろうろしている暇も余裕もない。


「解った。李将軍、斥候を出すんだ」


「御意」


 詳細を指示せずに行為だけを定める。どこまで職務を理解しているかを確かめておこう、まあ信なら不足はないさ。刻限が来ると野営地を取り払って行軍を再開する。斥候は戻って来るのが一苦労、行き先を報せておくのを忘れると迷子になってしまう。


 予測が正しければ近隣の森にでも伏兵が居る。遭遇したら戦うが、出来れば直接刃を交えるのだけは避けたい。馬上で黙って色々と思案するが情報が足らずに答えが出てこない。


 昼頃まで可能な限り進んだ、それでも曲がりくねった山を集団で進んでいるせいで、一時間に一キロちょっと進んでいるかどうか首をひねる。とても軍隊の移動速度ではないのだ。斥候が帰還するとみてきたことを具に吐き出す。


「勝休郷までここなら僅かです。周辺の地を探って回りましたが、伏兵の様子はありませんでした」


「ご苦労、休め」


 居ないのは何故だ、こちらが油断したところを包囲殲滅するつもりか?


「ご領主様、別途索敵を行わせましたが、郷の周辺に大きな軍集団はありません」


 信がことさらそう報告してきたんだ、それが事実なんだろう。


「そうか。荷駄隊を出して物資の買い出しに向かわせるんだ。軍旗は適当にでっち上げて、銀貨で支払いをさせろ」


 戦場で拾った旗を幾つか掲げさせて購入だけさせる。本隊は山地で伏せていれば、最悪被害は少数で済む。追跡して来るような影があればそれを逆にたどれば色々と判明する。その日の夜、北の空が何故かうっすらと明るく見えた。


「あれは何だ?」


 街の灯りにしては妙だな、この時代こうも明るくは出来ん。


「真池城がある方向です」


 蘇陽が劉司馬と共に現れて空を見詰めている。そうなってくると考えられることは少ない。


「街が燃えているわけか。ここまで呉や魏が攻めて来るとは思えん、反乱でも起きているのか、それともまた賊徒か」


 いずれ放置は出来ん。流浪の身であっても俺が島であることに変わりはない。


「偵察を出します……いえ、自分がこの目で確かめて参ります。暫しお時間いただきます」


「うむ。気を付けろ、何が出るか解らんぞ」


 李信が数十の供回りと共に暗い道を北へと向かう。李封が武装待機を命じる許可を求めてきた。はっきりと頷くとどうすべきかを想定する。山火事でもなければ街が燃えているわけだ。ただの火事なら出る幕はない、だが戦争をしているなら見て見ぬ振りはせん。


 床几に座り腕を組んで目を閉じる。地理不案内、暗夜でどこまで動ける? いや、見えないことを味方に付けるんだ。城外に軍勢が居るならば遠くの我等は闇の中、奇襲が可能になる。ましてや居るはずがない存在、攻撃を受けた方は疑心暗鬼に陥るだろう。


 では攻撃側が何者か。これについては郡都を攻めるだけの兵力を指揮している誰かとしかわからん。黙って待つこと二時間あまり、李信が帰還する。


「申し上げます。真池城を攻めているのは雑多な民兵、守るは蜀の旗を掲げる国軍です」


「賊徒ではない?」


 民兵と表現したのはどういう意味だろう。


「周辺の県郷からの民でしょう。過酷な税を課した太守に反旗を翻した様子。城内でも蜂起して街に火の手が」


 統治に失敗したわけか。張飛の嫡子との話だが、政務官としては高い能力では無いのかもしれんな。だが武力はきっと高そうだ。


「蘇陽、益州郡の租税の程を知っているか?」


「聞くところによりますと、八割を納めるよう厳しく言いつけられているとか」


「八割だと?」


 それでは暴動が起きても何の不思議もない。食うに困れば人は理性を失うものだ。中県は租税三割と決めてあるが、どこかで勝手な真似をするやつがいるとも限らん。今更だが監察だけ行う官吏が居る理由がわかったよ。


「ご領主様、いかがなさいましょう」


 判断を誤ってはいけない、たとえその地の住民だとしても治安を乱すのを許しはしない。


「ふむ。いかに圧政が行われていようとも、反乱を見逃すことは出来ん。これを鎮圧し秩序を取り戻す。李信、城まで先導しろ」


「御意!」


 即座に軍事行動を起こす。松明が多数用意され、暗闇を北進する。歩き続けると次第に松明が要らない程に明るさが増していく。


 あれが真池城だな、盛大に燃えている。これでも陥落していないのは、関索将軍の遊軍が駐屯しているからか。ボロを身にまとい肩を怒らせた民衆が怒声を上げて蜀軍と交戦中、圧倒的多数、数万の民は勢いがあった。


「この手合いは一気に頭を冷やさせるのが効果的だ。正気に戻ればあとは顔を蒼くして逃げ惑う」


 衝撃力が全てだ。戦いを長引かせるのが一番悪い、どうであれ速やかに戦闘を終結させるのが最善。


「羌族兵にも命令を出せ、横隊を編成し同時に接敵、一気呵成に攻め入り心を衝く。展開せよ!」


 暗闇を蠢く姿、木々の間に差し込む炎の揺らめきで兵士のシルエットが見え隠れする。だがそれに気づく民衆は驚くほど少ない、視野が狭まっているのだ。本陣に次々と位置についたと伝令がやって来る。両端まで全てが準備完了すると、李信が「配置完了しました」報告を上げて来る。


「歩速百二十で進軍!」


「太鼓を打ち鳴らせ! 百二十!」


 ドンドンドンと軍鼓が鳴らされる。喧騒の中でも届く音が次第に民衆の耳にも入る。だがその時には既に矛を構えた軍勢がすぐ後ろにまで迫って来ていた。


「白兵戦開始!」


 各前線指揮官が声を枯らして交戦命令を下す。横並びで広い面に攻撃した、おびただしい数の民衆が背を切り付けられて転げまわる。


「待機」


 人の壁にぶつかり足が止まった、バラバラに前に出るのを止めさせて横陣を保たせる。数分で「十歩前進だ」命令を下した。

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