第32話 使持節仮鉞右軍師右将軍右都督領雍州牧守京兆尹護羌南蛮校尉附馬特進中侯

「軍船が!」


「なに!」


 親衛兵が声を上げて指さす先を見る、櫂を動かして水上を滑るように軍船が動いている。次いで南蛮兵が一杯になり撤退していくのが見え、河沿で『曹』旗を振っているのが目に入る。ついに歩兵が目の前にまでやって来ると、河に沿って横に広がり布陣した。


「魏が討逆将軍文聘ここに見参! 俺が相手だ!」


「取り逃がしたか!」


 何をしているんだ俺は! ……ここで泥沼の戦いを強いる必要は無い。速やかに撤退だ。


「軍鼓手、撤退合図だ。全軍、南牟城にまで退くぞ。王将軍にも伝令を出しておけ」


 これは俺の失策だ。これだけの差ならば指揮次第で勝てたはずだ、くそ! だが一つ節目を乗り越えた、不満はあるが何もかも上手く行くと考えるほうが問題ありか。


 丸々一日休息して、二日後に長安へと戻る。戦場掃除をしている友軍を脇に見て、東門から入城する時に董丞と長安の民に出迎えられるのだった。



 蜀が長安一帯を制圧し、函谷関に防衛隊を置いた。守将に据えられたのは終始安定して功績を上げた仮節寇軍将軍督函谷関鐙芝。元の中監軍揚武将軍で、孔明先生の覚えが良い武将だ。


 蜀へ大軍を送る最短の道を封鎖する関所、重要地点だけに判断力が高い人物が選ばれている。副将は同じく丞相側近から躍進した二人。


 伏破将軍張嶷と破虜将軍馬忠、まだ二十代の若い張将軍はすでに武勇が轟いている。馬将軍は手練の政務官でもあるそうだ。いずれ大官になるのは間違いないだろう面々だよ。


「力押しで函谷関を抜くのは十万の兵で一年かけても無理だろうな」


 目先を南に移す、巴東の主将は建威将軍冷宇。最早定位置とすら言えるが、出身は長安周辺らしい。永安の治府にも駐屯軍が居て、長江から軍船で遡上しない限りはやはり力で押すのは難しいはずだ。


 蜀の東南部、巴東を含めての遊軍を設立した。その司令官は呉鎮軍将軍で、永昌郡に司令部を置き襲撃に備えている。息子以下の部将らも全てそのままで、権限だけを強くしていた。


「あいつならどうとでもするだろう。俺の補佐が減ったが、同時にやるべきことも減ったなら問題ない」


 南蛮州を寥紹に譲ってしまい、今は長安に居る。仮節平南将軍南蛮州刺史寥紹、つつがなく南蛮を維持した功績を認めての昇進と言えるな。何せ南蛮の民と軋轢を起こさないで治められたらそれで充分って話だ。


 孟獲にも蜀から正式な官爵が宛がわれている、欲しいと思っているかは別だが受け取ってはくれたな。中南大将軍南蛮大王孟獲。兄弟専用の将軍号で一万石の大官、つまりは司徒やら司空、太尉とかの三公って上級大臣と同格らしい。


「別にどうってことはないとかって言って酒を煽ってる兄弟の顔が浮かぶよ」


 どれだけ控えめに言っても、南蛮の勢力が協力してくれてなければ蜀は、勝ちどころか引き分けもなかっただろう。その意味では三国志の第四勢力とすらみなせるぞ。二番戦功としては破格なんだろうな。


 魏延の奴は我が世の春を謳歌中か。持節左軍師左将軍左都督領涼州刺史南鄭侯魏延。大雑把に言って、中国を九つに仕切って左上の総責任者で、蜀全軍の司令官でもあり、丞相の高級幕僚でもある。


 西部戦線での活躍と函谷関奪取からの堅守が評価された三番戦功、涼州を宣撫して国力を高めろってところか。


「で、何でお前が傍に居るんだ」


「自分はご領主様の親衛隊長ですので」


 護忠将軍李項が部屋の隅に侍っている。そのようなことをすべき身分では無くたったと言うのにだ。長安の内城にある執務室、左手側には呂凱が控えていた。前軍師平難将軍雍州別駕従事呂凱。誰の軍師かと言えば俺ということになっている。


「なあ呂凱、もう一度俺の官爵を言ってみてくれ」


「はっ、使持節仮鉞右軍師右将軍右都督領雍州牧守京兆尹護羌南蛮校尉附馬特進中侯でございます」


 南蛮州を譲って長安を含む雍州を宛がわれたわけだ。孔明先生の軍師で、魏延の奴とセットだな、将軍職も都督も。董丞の極めて強い要請で京兆尹の兼務までしている始末だ。まあ実務は全て投げてしまっているので名目だけだが。


 で、特進ってのが新たに追加されてる。これは完全に名誉的なもので、朝廷への参加権限であるとか、領地に縛られなくてよいとかの官職だって聞いた。ところがそれだけじゃない、南蛮に置いてきた劉氏をこちらに引き寄せたわけだ。


 この劉氏、まだ十代半ばで劉備の血を引いていないのに皇族の一人ってことになっている。どういうことかというと、劉備の養子の劉封ってやつの娘を、劉禅が引き取って義妹にしてから俺に引き渡したってことだ。手を出すのは流石に躊躇われるから屋敷を与えて見守っている。


「一体俺に何を求めているのやら」


 馬氏が卒去してから約束の後妻を迎えることになった。それは良い。一人は馬氏、馬一族の総領だった馬超の娘が送られてきた。聞いて驚け、まだ十代前半だ。深窓の令嬢とは彼女のことだろう、鎮北将軍都亭侯に昇進した馬岱が犯人だ。


 あいつが一族の総代として未来を占って、最高級の姫を嫁がせるべきだと、馬超の息子で現在の総領馬承に進言したそうだ。馬超は何度か妻子を捨てた過去があり、この馬承もまだ十代前半で言われるがままというのが大きい。


「島将軍、羌氏がお出でです」


「おう、こっちへ通せ」


 大身に化けた俺に羌族が送って来た妻が最近で一番の驚きだったわけだ。装飾が素晴らしい、女性用の軽甲冑を身に着けたまま、浅黒い肌の若い女がやって来る。蜀の宮廷を探し回っても一人としていないし、馬一族を探してもここまでの濃い色をした肌の女性は見つからないだろう。


「旦那様、領内は本日も問題ございませんでした」


 自主的に見回りをしてくれている、それも馬車ではなく騎馬して、侍女ではなく兵士を連れてだ。


「そうか、ご苦労だ。呂軍師、俺は上がる。後は頼むぞ」


「御意」


 腰を上げると羌氏の隣へと行き、腰に腕を回して執務室を出る。最初羌氏のことが嫌ではないかと周りに言われたが、一体何のことだと思ったよ。どうにも肌の色ことだったと説明されて初めて気づいた。


 明らかに異民族の者だからってことだったそうだ。俺にとってそんなことは今さらなんだがね。女とは思えない立ち振る舞いに姿、武装して輿入れする奴がいるかってことだな。そいつについては笑うしかなかった。何せ生き別れ状態の妻は、異民族で蛮族の首長、それでいて肌の色も褐色だったからだ。


 見ず知らずの人物、それも遠い国の異民族に嫁げと言われて羌氏だって不安だったろうに。強気を装い自身を守ろうと心構えをして乗り込んできたのを、あまりにも自然に受け入れられて逆に困惑していた。この時代では奇跡を重ねたような状況だったに違いない。


「銚華、今夜もまた羌の言葉を教えてくれ」


「はい。旦那様は筋が良く、もうかなり言葉を理解しております」


「そうか、実は言葉を覚えるのは得意なんだ。でも可能なら男言葉を教えてくれよ、じゃないとしまりが悪くなる、はっはっは」


 戦争していて大声で「行きますわよ!」なんて叫んでいたって知ったら絶望するよ。というのも、羌族が西羌兵を送って来たからだ。遊牧民の羌兵は騎射が得意で、西羌族は堅固な防御戦闘が大の得意だって話だ。


 馬氏と羌氏を妻にした俺に力を貸して、一族の安全を求めてきている。蜀もそういう意味で俺が離反しないように姫を送ってきた、いつか魏や呉も誘いをかけて来るんだろうな。



 中県に中央から相が送り込まれている。これは県令と同義で、政務を司る実質的なトップだ。姜維って若い奴らしい、どこかで聞いたことがあるような無いような響きだ。李長老は正式に中県の三席に就任させたわけだが、長吏って呼称で良かったんだろうか?


 駐屯軍司令官には引き続き担々王が就いている、こいつも複数の部族を与えられて南蛮の王位を進めたそうだ。俺からも偏将軍の位を贈ってる。李家の次男坊が県の軍をまとめる中尉とやらになった。中県の尉であって、階級の中尉じゃないぞ。


「俺は何をしたものかな」


 傍らの軍師に聞こえるように独り言ちる。わけも解らず外交を引っ掻き回すわけにはいかないし、関所を越えて侵略をするのも良くない、かといって西部後方は魏延の治める領土だ。


 兵を訓練して、農耕を行い、学問を推奨し、治世を体現させる。果たしてそれが正解なのかが解らない。何せすぐ傍には魏という大国がありこちらを窺っている。


「領内を巡り、賢人、猛将を見出されてはいかがでしょうか。魏の支配を快く思わず、さりとて出仕せずといった人材が必ずいるでしょう」


「ふむ、発掘か」


 それは道理だ。来いと呼びつけるより、あちこちを探し回って一本釣りする方が俺の性分に合っても居るしな! とはいえこんな時世だ、一人でうろうろするのもいただけない。逆に大仰にするのも。精々十人未満だな。


「李封従事、五人選んで供をするんだ」


「御意」


 右将軍従事中郎、南蛮州従事からスライドさせて傍に置いている。階級自体に差異はないが、権限の及ぶ範囲が狭くなりより鋭くなっていた。知らない土地を無暗に動くでは先が見えない、これといった行き先を絞っておくとするか。


 書佐に書類を持ってこさせて人物に関する報告書を読み漁る。董遇だって? 書物は百度読めってのは聞いたことがあるがこいつの言葉だったのか! 武功の太守だったが夏侯都督が逃げたせいで陥落、官職を捨てて咸陽で暮らしている。質素で堅実、乱世ではあまり好まれない気質なのかも知れんな。


「呂軍師、董遇を知っているか?」


「はい。音に聞こえた逸話が一つ御座います。当時の曹丞相が西征するにあたり従軍した董遇参軍は、数多いる参事官が答えられない下問に明瞭に返答し容れられたことが御座います」


 没した先帝に参拝するか否かの質問だったらしいな。普通ならしろってことになるんだろうが、明確な根拠を示して否定したか。こいつは使えるぞ。


「性格的な部分はどうだろう?」


「孝廉でありますれば、徳に篤く実直かと。ですが少々学問に厳しいようで、子弟がついて行かぬ話も」


「具体的には」


「生活苦の弟子がいて相談を受けた際に、働くことで学ぶ時間が取れないなら、休みでも寝る前でも働けぬ日でも使い学べと突き放したとのこと」


 なるほど。自己の努力で帰結させろってことか。学者としては正しいが、時代が優しくはない。こいつには職権だけを与えて、その他の雑務を排してやれば良い話だな。


「わかった。ちょっと出て来る」


 執務室を出る。使いをやって銚華を呼び寄せた。


「旦那様、お呼びと」


「ああ、少し一緒に出掛けようじゃないか。といっても咸陽にだがね」


「喜んでお供致しますわ」


 俺が緩い服で正体不明を装っていることに気づいたのか、甲冑を外して着物だけになる。結構賢い娘だよ。


「ご領主様、いつでも出立可能です」


「李従事、お前らも役人の風体を捨てて置けよ。気難しい人に会いに行くことになるはずだ」

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