第20話
慌ただしく漢中城の北門が開かれ、軍勢が飛び出す。対岸からもそれは目に入る、何せ河を挟んでお互い丸裸なのだ。橋を守る魏の守備隊は攻撃して良いか迷う、あべこべに破れては任務を果たせないからだ。
「浮き橋手前に陣を移動させるぞ!」
『島』『孟獲大王』の軍旗が高らかに掲げられる。漢水沿いを万の軍勢が動く。大将がすぐ傍で見ている、蜀軍も南蛮軍も士気が上がった。多くの者達はここで終わりだろう、だが俺は違う!
「本陣も渡河するぞ! 騎馬も随伴しろ!」
全軍の本営を最前線に投入すると宣言した。まさかと象を振り返る者が多数居た。
「はっはっは、いいぞさすが島だ! 俺も行くぞ、南蛮大王孟獲も渡河する!」
言うが早いか象使いにも命令する。泳げない動物は人間だけだ、直ぐに水に入ると象が水に浮いてすいすいと泳ぐ。敵が準備を整えて反撃して来る前に無理矢理押し切るぞ!
渡河戦中盤は魏軍優勢で推移していたが、考えられない一手を打つ。行動が吉と出るか凶と出るか、予断を許さなかった。本陣に先立ち鎮南軍の騎馬兵が二十騎のみだが河に身を投じる。指揮官は陛鎮南将軍司馬だ。
「先に上陸している歩兵共を押し出し、少しでも敵を遠ざけるぞ!」
初期に徴兵に応じた農民だったが、あれよあれよという間に昇進を重ね、今では本陣付きの部将にまで出世した。これも全て色眼鏡なしで、功績を挙げた者を分け隔てなく引き揚げた島のおかげだ、と信じているらしい。
他軍ではどれだけ功績をあげても、上官への付け届けが無ければ昇進から漏れるだけなのだ。これはおかしなことではあっても、不思議なことではない。漢ではよくあることなのだ。かの劉備なる大人もそんな経験を有していたほどである。
「鎮南軍の歩兵よ聞け! 我に続け敵が拠る場を粉砕するぞ!」
『鎮南』『陸』の軍旗を高らかに掲げて、二百の歩兵を率いて防備が整っている魏軍へ突入していく。浮き橋の先からは南蛮州従事の洪が同じように、先遣隊が踏ん張っている防衛線を抜けて突撃していった。
「もう一本浮き橋を架けるぞ!」
工兵隊長が行けるとみて傍に二本目を架設する動きを始めた。どれもこれも独断で行動し、事後承諾で認められている。軍隊が活きている、常備軍を育てるには自身で判断させて行動させるに尽きる。
ゆっくりと河の半ばを過ぎたあたりで一度後ろを振り返る、対岸に残されている者達が多い。木柵を多重に作られ堀を作られては進撃が困難になる。これを抜くには衝撃力しかない。アレを繰り出すか! 橋の上は渋滞している、これが解消されるのを待つか、命令で通させるかだ。
「李別部司馬、あの大隊をすぐに渡らせろ、これは最優先命令だ」
「御意!」
騎馬で共に河を渡っている李鎮南将軍別部司馬が、自身の側近を派遣した。二騎が後方へ命令を携えて離れていく。腰に真っ赤な三角旗を差していて、それを見ると皆が道を開ける。伝令兵の旗であり、赤は本陣の命令を携えている優先通行権を有している証だ。
「なあ兄弟、こんな戦が出来るのはこれが最初で最後だろうか」
魏の皇帝と戦争することはあるんだろうか?
「俺とお前がやる気ならいつでも出来る。俺は世界を敵に回してもお前の味方だ」
「世界か……そうだな、二人でならそういうのもいいかも知れん!」
今までもそうやって世界を相手に戦ってきた、俺はもう迷いはしない! それまで頭まで水没して、鼻だけ水上に突出していた象がついに岸に足を付いて鳴く。シュノーケルとはこれのことだ。本気で走れば人間が全力で走るのより遥かに足が速い。
けたたましく銅鑼や太鼓が打ち鳴らされる、本陣が場所を占めたと報せるために。巨大な『帥』旗が打ち立てられ、魏軍の度肝を抜いた。総大将が目の前にやって来たと。
「良いか、死んでも軍旗を守り切るのだ!」
牙門将が軍旗中隊を指揮して円陣を組むと軍旗死守を命じる。これが倒れるようなことがあれば、兵が戦線を勝手に離脱しても命令違反を問われないという、非常に大切なものなのだ。
「島将軍が見ておられるぞ、者ども気勢を上げよ!」
腹の底から声を張り上げて多数の魏軍を圧倒する。戦線を構築する兵がじりじりと縄張りを拡げ始める。気合で保てる時間はそう長くはないぞ!
帥旗に引き寄せられるように、魏軍の精鋭騎兵が攻撃を仕掛けて来た。苛烈な波状攻撃で、上陸している少数の味方がバタバタと倒れていく。象の上から手を伸ばせば届くのではないかと思えるほど近くに敵がひしめく。兵の顔がはっきりと見えて、自身を睨んでいるのが解る位に近い。
「あれが蜀の総大将だ、首をとれば恩賞は望むがままだ!」
物凄い殺意がたった一人に向けられる。常人なら大量の汗をかいてその場に卒倒してしまいそうなほどの圧力が感じられた。そうだ、俺を狙ってこい! ここが踏ん張り処だ! 怖気づいて本陣を下げようものなら戦は負けたも同然。もし勝利したとしても名声は地に落ちるだろう。
「親衛隊聞けぇ! ご領主様が生きて居られたら、この先もずっと郷は飢えに苦しむことも、賊に襲われることも、役人を怖れることもなく暮らしていける! 我らが全滅しようとも絶対に害されてはならんぞ!」
李別部司馬が槍を突き上げて馬上から檄を飛ばす。護衛部隊のうち、河を渡れたのは親衛隊のみ。残りは浮き橋を駆けている最中だ。
「騎馬兵なにするものぞ!」
「死ぬときは前を向いて死ね!」
「刺し違えてでも敵を食い止めろ!」
「双肩に負っているのは家族の命でもあるぞ!」
「今こそ恩を返す好機だ!」
中県から抽出した親衛隊は士気絶頂で、某ゲームで表すなら150は数字がありそうな勢いだ。最後の一人になっても戦い続けるだろう。血走った眼で、突撃して来る騎馬に真正面槍を構えて腰を据える。衝突と同時に槍が馬に刺さって折れると、馬体に跳ねられ人間が吹き飛ばされる。
派手に転がっていき、右腕が折れて変な方向に曲がってしまっていても、腰に履いた剣を左手に持って歯を食いしばり前線に戻ろうとした。
「首を跳ねるまで勝ったと思うなよ!」
脳震盪を起こしてか途中で膝をつくが、剣を杖代わりにして立ち上がると再度歩み始めた。済まん。だが必ず報いる!
鬼気迫る親衛隊に畏怖を抱くが、魏の騎兵も遊びで来ているわけでは無い。意を決して次々と突撃を繰り返す。親衛隊が必死に時間を稼いでいる間に橋を渡って待望の大隊が到着した。
「全ての弓兵隊を右手の位置に集めろ。あの大隊はその前に、長槍兵をさらに右手に八個中隊、南蛮軽歩兵を後ろにだ。他の者は戦力が抜ける戦線の穴を埋めろ」
やれると信じて俺はやる! もう後戻りは出来ん! 大混戦の渡河戦はいよいよ勝敗を分ける大一番が始まるのであった。魏軍の防御態勢が整ってきた。蜀軍は密集しすぎてこれ以上拠点に兵を送り込めずにひしめき合う。矢が飛んできても、石が投げられても死傷者が出る程の混乱だ。
「前が見えんぞ!」
兵らが味方同士で居場所を取り合うような状態、ここで押し込まれたら圧死するものすら出そうな具合になる。
ドーン、ドーン、ドーン。
一定のリズムを保った太鼓の音が兵の耳に届く、何が始まるのかと興味を持つ。 すると川べりに居た象が二頭移動しているのが遠目にも見えた。
「これより俺が直接指揮を執る! 一点を突破し、魏軍が拠る平原に打って出るぞ!」
ここが最大の分岐だ、いざ勝負! 戦場の注目を一身に集める、敵も味方も全てが見ている。
「弓兵、百歩先へ向け曲射だ!」
弓兵隊長が命令を繰り返し、指定の範囲へ次々と矢を撃ち込んだ。高価なものではあるが、ここぞとばかりに連射する。
「鉄甲兵、構え! 第一陣二十歩進め!」
二百人が二列横隊になり身長程の鉄槍を構えて前進を始めた。全身鉄鎧に鉄槍、銀色の装備が眩しい。超重量と汗が籠る装備に体力が根こそぎ奪われていく。
それでも動いていられるのは、蜀と南蛮の大男ばかりを集めた部隊だからだった。千人をようやく集められたがこれがほぼ限界。魏軍の反撃を一切通さず、横隊が戦線を押し上げた。
「槍兵側面を確保! 第二陣さらに二十歩進め!」
鉄甲兵の二陣が、先頭の一陣の脇をすり抜けて更に進む。肩で息をしていた一陣を休憩させ、後続が先へと進んだ。この頃になると味方の矢がカンカンと鎧に当たるようになる。それでも射撃の範囲を変えることなく射続ける。
取り残した敵兵を、南蛮軽歩兵が止めを刺して回る。負傷した鉄甲兵を数人がかりで引きずって後送するのも軽歩兵の役目だ。梯団方式の戦闘、蜀だけでなく魏でも呉でも未だに見かけない戦法。武将らが困惑しながらも対応する。
「第三陣、更に二十歩進め! 弓兵も二十歩前進だ!」
象も前へと進める、常に最前線に身を置く総大将に蜀兵は気持ちが高ぶり続けた。
「魏軍を本陣に近づけるな! 密集円陣を保て!」
李別部司馬が防衛に専念する。親衛隊の外郭に護衛部隊がつき、更にその外側に次々とやって来る味方が防壁を作り続ける。押している、いけるぞ! 鉄甲兵が四陣と交代したところで、魏の騎兵団が姿を現す。
「蜀の弱兵を蹴散らす、突撃!」
騎馬を唸らせて短い距離を全力で駆けさせる。
「鉄槍を地面に! 半直構え!」
鉄甲兵が石突を大地に突き刺して腰を落とす。向かってくる騎馬を鉄槍で受け止めた。槍は折れることなく耐えきり、騎馬がもんどりうつと騎兵が投げ出されて四陣の頭上を越えて転がっていく。
転倒しているところを南蛮軽歩兵の短刀に掻っ切られて殆どの者が命を落とした。 ここが戦機だ! 呆然とする魏の歩兵の様子を見て取り勝負所を感じた。
「鉄甲兵、扇状に前進しろ! 拡げた場所に本陣を置くぞ!」
無理矢理に鉄甲兵を食い込ませ、押し戻される前に空白地帯に本陣を置いてしまう。すると不思議と下がるに下がれない兵が前に活路を見出しグイグイと押し続けた。
「兄弟!」
「応! 亜麺暴王、藤兵と諸部族の兵を率いて橋の裏手を目指せ! 母于夫羅王、軽甲兵と水兵を率い河沿いを東へと進め!」
中央を蜀軍、左右を南蛮軍が穴を開けるように進む。後続が開けた穴を拡げに掛かった。
「二本目の橋が完成した!」
一気に軽歩兵が橋を駆けだす。増援が二倍速になり、もはや押しとどめることが困難になる。ギギギギ。きしむ音と共に漢中城の北門が開かれた。
「今こそ反撃の時ぞ、我らも進め!」
『張』『漢中』の軍旗が城から打って出て来た。いいぞ最高のタイミングだ!
橋を守っている魏の守備隊は籠るか退くかの選択を迫られた。後方にも南蛮軍がやって来た以上は、橋の戦略的価値はないに等しい。破壊して撤退したいのはやまやまだが、そんな時間すら残されていない。
「一気に勝ちに行くぞ、鎮南軍は北西へ、州軍は北東へ突き進め!」
あとは数で押せ! 渡河した兵が千人、二千人でまとまり戦闘を始めた。こうなればもう疲労が少ない新鮮な戦力である味方の軍勢に分がある。本陣の周囲に魏兵が居なくなると輪を広げて護衛部隊が簡単な木柵を置いて縄張りを作り始めた。
『帥』旗は最初に据えた場所で靡いている。旗の下をみると味方の死体が山のように積まれていた。親衛隊も重傷者が結構居る。
「李別部司馬、負傷者を城へ後送しろ。初戦は勝利だ、死者を減らすことに傾注させろ」
「御意!」
「それともう一つ、李項、良くやってくれた。ありがとう」
何一つ不満はない、本当に感謝している。瞳を見詰めて短く、それでいて感情を込めて言った。
「も、勿体なきお言葉!」
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