第19話

 

 朝もやの中、準備を整えて軍勢の一部がこっそりと城を抜け出す。その表現が正しいかはともかくとして、数千の兵が漢中東の細い山道を抜けて漢水の南岸ギリギリまで進んだ。もっと東の山を抜けた南蛮の軍勢も早めに米を炊き出し、戦闘に備えている。


「そろそろ夜が明けるな」


 孟獲大王が豪奢な椅子を望楼に設置させ、そこから城外を見ていた。といっても真っ暗でぽつりぽつりあるかがり火位しか判別できない。


「ああ、俺達の反撃の始まりだ」


 戦機は訪れる、その時は城を出て俺も戦うぞ! 親衛隊はいつでも出撃可能な武装待機をしている。各軍勢も陽が登れば順次起床して装備を整える手筈になっていた。


 夜目が効く奴らが数人で水中を渡り、太い縄を引いて目印を取り付ける。戦いに没頭すると居所が俄かに解らなくなるもので、そういった目印が近くにあると助かる。城を見て位置を把握するのは上級指揮者だけ、殆どは目の端で手近な何かを確認するものなのだ。


 東の端から橙色の光が見えて来た。夜明けだ。言葉も無く始まる。水中を自由に動き回れる水角洞の一族が素肌に布一枚で、手槍を持って次々と漢水に身を投じる。河といっても日本のそれと幅が違う。狭いところでも五百メートル以上、一番幅が広い城の東側は一キロもあった。草むらの奥から小舟が持ち出され、次々と河に浮かべられる。それに乗るのは鎮南軍の歩兵だ。


「ん、なんだアレは。鎧を着たまま河に入っているぞ」


 何故水没しないんだ? 南蛮の軍勢に入水自殺志願者が居るのかとすら思った。ところが千程の歩兵は、装備そのままに次々河に踏み入れている。そいつらが何故か沈まずに立ったまま肩まで水に浸かって、そのまま浮いているのだ。


「あれは南蛮の諸部族で、藤兵だ」


「藤兵、確かそんな名を言っていたな」


 昨日、亜麺暴王につけた兵の名がそうだったのを覚えていた。しかしどうにも答えに直結しない。


「あの鎧は水に浮く植物で出来ている、河を渡る位文字通り朝飯前よ!」


 ガハハハハと気持ちよく笑う。水に浮く鎧か。防御力に難ありってところか。だが渡河出来る歩兵が千増えるのは大きいな!


「敵だ! 蜀軍が攻めて来たぞ!」


 河を渡って来る小舟を見つけた魏の兵が大声で叫ぶと、あちこちで銅鑼が鳴り響いた。奇襲とはいかないが、半ば近くまで河を渡れたのは闇夜のせいだろうか。空が明るい、地上もそれなりに見通せるようになると、魏軍は驚く。まさか一番幅がある個所を渡ってこようとするとは思うまいよ。


「軍略の第一歩は相手が思いつかないようなことをして攻める、だな」


「先頭が岸にたどり着いた。亜麺暴王の直卒部隊だ」


 きっと全滅する寸前まで打ち減らされるだろう決死隊、しかと見届ける義務が二人にはある。手槍を振り回して岸に並べられている木柵を縛っている縄を切って回る。連結が解けた柵は引っ張っていき河に流してしまう。


「槍兵集合! 蜀軍を河に叩き落せ!」


 敵の部将が声を上げて指揮する。まだ小さい集団が個別に動いているにすぎないが、徐々に規則正しくなっていく。


「弓兵、河の上の蜀軍を射殺せ!」


 空へ向けて一斉に矢が放たれる。狙っているわけでは無い、同時に大体の範囲に撃つことが重要なのだ。小舟に乗っている歩兵に次々と被害が出る。ところが河に浮いている藤兵は、陣笠を斜めにして盾の様に身を庇って難を逃れた。命中した矢は乾いた音をたてて次々と弾かれているではないか。


「笠が矢を防いでいる?」


 帽子程度と思っていたので腰を浮かせて様子をじっと見てしまう。孟獲大王が面白そうに説明を加えた。


「藤甲は矢も槍も通さんほど固い。あの程度では傷もつかんよ。ガハハハハ!」


 言うように藤兵は誰一人脱落することなく、少しずつ向こう岸に近づいていく。軽い上に硬度もあるってのか? そいつは凄いぞ! それなのに全員に装備させない、理由はどこかしらあるのだろう。今はそんなことは後回しにして全体の状況を読む。


 第二陣の小舟が岸を離れたところだ。今度は数が少ないが騎馬も続く。岸のギリギリまで弓兵が出ているが、向こう岸には全く届かないので待機しているだけ。


 後続が移動している間も亜麺暴王は小さいながらも陸地を占めて奮戦中だ。何とか防備を切り崩してはみたものの、次々と一族が死んでいく。それでも最前線で己の命を懸けて指揮を執り続ける。済まん、他国の侵略戦争の為に!


 椅子のひじ掛けに置かれている手に力が入った。目の端でそれを見た孟獲大王は何も言わずにどっしりと構えたまま。藤兵の先頭が岸に上陸する。槍を構えて土壁を乗り越えた。五人集まると水角洞の兵の脇を抜けて最前線に躍り出る。


「新手だ、追い返せ!」


 魏軍指揮官が手にした剣を前に向けて大声で命令した。穂先を並べて魏兵が藤兵に襲い掛かる。鋭い槍の先が藤兵の腹に複数突き立てられた。くそ、多勢に無勢か!


 だが結果は予想を裏切ることになる。穂先が折れると、何事も無かったかのように藤兵が反撃し、魏兵の喉元を貫く。上半身だけでなく、手甲も、脚も全て覆っているので隙が無い。


「あの装甲はそこまでか!」

 

 凄い防御力だぞ! 上陸した藤兵が次々と戦線に参加していく。自らも負傷した亜麺暴王だったが、その場に留まり指揮を執り続ける。手前岸で浮き橋の準備をする合図が送られてきた。


「亜麺暴王は為すべきことをなした、それだけだ」


 渡河戦の前半戦は蜀軍の優勢に傾いた。戦はそのまま後半戦へと移り変わる。


「浮き橋が動き出したな」


 連結が上手く行くかはやってみなきゃわからん! 小舟で蜀の歩兵を送り続けるが、弓矢による被害が馬鹿にならない。だからと止めるわけにもいかずに根気強く渡河を続ける。対岸は藤兵を最前線に置き、水角洞の水兵が必死に橋頭保を死守している最中だ。


「母于夫羅王を出すように命じろ!」


 亜麺暴王と同じく水角洞の一つを束ねる南蛮王を指名する。手前岸で待機している不思議な紋様の軍旗を翻している集団が忙しそうに準備を始めた。太陽はまだ低い、朝食と昼食の間位だろうか。例の水に浮く鎧、藤甲を身にまとった兵が五百程集まり河を渡り始める。


「先に渡ったのとは別物?」


「隣の部族、軽甲兵だ。身軽さが売りだな」


 それだけでないというのは集団を見るとはっきりする。人間以外にも何か獣が固まって泳いでいる。あれは虎か! 猛獣使いを含んでいるようで、オレンジの縞模様がすいすいと泳いでいく。


 二十頭は居る。あんなのがやってきたら落ち着いて戦いなどしていられないだろう。太い縄に沿って浮き橋が引かれる、火矢が飛んでこようと魏兵が小舟でやってこようと一心不乱に架橋作業に従事している。手前から中央まではがっちりと浮き橋が繋がった。


「向こう岸は邪魔が多いからな!」


「なに、直ぐに橋はかかる」


 余裕の一言。孟獲大王はずっしりと腰を据えたまま遠くを見ている。浮き橋の上に軽甲兵がよじ登り、火矢を叩き折る。盾を使って作業している兵を守るのも忘れない。


 小舟で襲い掛かって来る魏兵には、虎を差し向けた。水中を泳いでいき、小舟のすぐ隣で浮上して吠えると驚いて転覆するのが多数出て来る。あんなのに突然吠えられたら俺でもひっくり返るぞ! 対岸まであと少し、橋が架かるのは時間の問題だ。残りの三百程を率いて母于夫羅王が上陸する。


「者ども掛かれ!」


 戦線を構築している藤兵の脇をすり抜け、魏兵の集団にバラバラに突入していく。二十人前後が弓兵の居るところへたどり着くと、腰の後ろに括り付けていた袋を手にして口を開けてあちこちに放る。


「ど、毒蛇だ!」


 にょろにょろと足元を茶色の蛇がうねりまわる。集中して遠射している場合ではない、大混乱して逃げ回った。少しの間、空から矢が降らなくなり連結作業が成功する。


「完成したぞ!」


 よし、これで対岸に兵を送れる! 待っていましたと、蜀の軽装歩兵が胸甲と兜のみ装備して木製の橋の上を駆けた。


 一列縦隊、途中で矢に当たったものは自発的に河に落ちると、水角洞の兵に助けられ小舟へと乗せられる。続々と対岸へ渡ると、藤兵と肩を並べて防御を厚くしていく。


「騎馬兵だ、場所をあけろ!」


 魏の部将が声を張って前線の部隊を引き下げる。すると三百程の騎兵大隊が姿を現し、武将を先頭に突撃をかけて来た。歩兵と騎兵では衝撃力に多大な差が生じる。戦列に大穴が空き、半円陣を形成している兵らの背中を騎兵が切って回る。


「くそ、蹂躙される!」


 だからと輪を狭めるわけにはいかんぞ。歯噛みして戦況を見詰める、暴れて何とか出来るならあの場に混ざって戦いたいとすら思った。複数の小舟に引かれた筏が対岸に辿り着く。山と積んであるのは長刀のような形の武器だ。


 軽装歩兵が武器を手にして騎馬の足を狙い薙ぎ払う。馬を狙うのが卑怯だと言われようとそんなのは戦争の景色の一つでしかないと聞き流す。


「いくらでも補充は居る、時間は俺達に有利に働くぞ」


 浮き橋がある限り、無制限に兵を送り続けられるのは事実だ。そうだな少し落ち着こう。何が起きたら橋頭保を失うか、それを阻止せねば。様々な状況を想定し、これだというのが浮かぶ。防ぐ手立ては恐らくない。ではどうするか、そうされても問題ないように戦場を移動させることだ。


「俺は本営を前に出す。兄弟はどうする」


 陣を焼かれて、ここで渡河に手間取っているようでは先が思いやられる。俺が出て一気に勝ちを引き寄せるんだ。半ば答えは解りきっている、にやりとして孟獲大王は立ち上がり言った。


「もっと近くで観戦するとしよう。俺も出る」


「李別部司馬、出撃準備だ」


 傍に侍っている護衛部隊長に命令を下す。すると彼は拳と手のひらを打ち鳴らし「すでに準備は整って御座います!」即答した。

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