第18話

「伝令! 伝令!」


 腰に差しているのは同じく巴東の所属である識別、何があったのかを促す。


「長江に浮かぶ呉の軍船が大破炎上しております!」


「どういうことだ」


 船が燃えることはあるが、そのような精強な軍船を配備したことはない。精々小舟が取り付いて乗り込む程度のもの。蜀の水軍など子供だましもよいところなのだ。


「上流より丸太を多数流し軍船を破壊し、油を浮かべ火を放った模様!」


 誰の仕業か最早疑いようも無い、目を閉じてその混乱ぶりを想像する。


「退路を断たれた呉軍に対し、永安軍、南蛮歩兵が同時に襲い掛かり、長江は死体が多数浮かぶ死の河になっております!」


「あい解った、そなたらは休むが好い」

 ――これで東の不安は無くなった、我が同盟者よ感謝する。あなたはどこまでも実直な人だ。


 それだけの軍勢を自由に使えるならば、成都を急襲して簒奪をすることすら容易だっただろう。その後に魏に降れば巨大な見返りが期待できる。しなかったのは島の意思が別の方向に向いているからだ。そこからまた時間が過ぎて、関内からの急報が駆け込んできた。


「魏軍による包囲を受けていた巴西城が、呉平南軍に解放されました!」


「魏軍はどうした」


 孤軍奮闘していた城が助かった、これだけでも充分過ぎたが敵を逃しては別の場所で圧迫を受ける。


「別の城へ向かったところ、南蛮歩兵の守備隊と交戦中、呉将軍の本隊と衝突し全滅しました!」


「全滅か!」

 ――内水の外側はこれで安心だ。残る危険は西部山脈を越える間道、先だってもこれを迂回され成都を危険に晒してしまった。


 大山脈を横断することは出来ない。西涼地方の北西を大きく迂回することで、異民族が支配する地域から成都への道が開ける。行くが最後、戻るのは関内を抜けるしかない。威風堂々とした軍勢には手を出さずとも、敗残兵を見逃すような異民族ではないからだ。


「首都方面の報は何か知らぬか」


「梓潼、剣閣にも呉平南軍の別働隊が駐屯し、敵を防いでいる模様です」


「そうか」

 ――介にはどこまで見えておるのだ。しかし大軍勢、こうも動員出来るとは信じられぬ!


 蜀の本軍より数が多いのではないかとすら思えてしまった。次の日の朝、孔明はこれまでで一番驚くことになる。


「報告します! 漢中東の山道を越えて、『島』『鎮南』『南蛮』『孟獲大王』などの軍旗を掲げた軍勢が現れました。その数、十万以上!」


 ガタ!


「な、なんだと! あれだけの軍勢を発しておきながら、本隊が別に十万だと!」


 椅子を蹴りつい立ち上がってしまう。撤退を考えていた孔明だが、それが全くの見当違いな状況になってきているのを即座に認めることにした。



 軍勢を東の山道から迂回させておき、本営は漢中城に真っすぐ入城した。驚きの軍旗を翻し、馬ではなく象の背に乗りやって来たのに兵らが目を丸くして凝視する。


「やはり馬より見晴らしが良いな!」


 機敏な動きは出来ないが、司令官はそれを求められん。象の背に篭を固定して、象使い一人と護衛兼の秘書官でもある李家の三男坊を傍に置いていた。腕前の程は未知数ではあったが、一族の忠誠心は誰よりも強く捧げられているからだ。


 たとえ身代わりで死ぬことになろうとも、彼ならば何の躊躇いもなく挺身すると信じている。だからこそ俺も厚く優遇した。中県にも守備隊を置き、後方司令部を設置、李長老に現地での交通整理の権限を与え俸禄を認めていた。きっと一族の隆盛、先祖をどこまで遡っても今より上はないだろうな。


「南蛮には象だけでなく、虎に乗る部族も居るぞ。熊を使役する奴らもな!」


 同じく象に乗ってご機嫌な孟獲大王だ。『島』と『孟獲大王』の軍旗は横並びで上下の別が付けられていない。それが南蛮の軍勢の士気を上げている。城内から漢中太守が出て皆を迎えた。


 ここには諸葛亮の丞相府が臨時で移設されているが、張裔が留守を預かる長吏として諸事を司っている。射声校尉も履いていて、軍政両方の責任者を務めることが出来た有能な士だ。そんな彼を太守に補任して、正式に権限を持たせたのは道理というものではないだろう。


「島将軍、ようこそおいで下さいました」


 この時代ではすでに老年期に数えられる、五十代後半の武将だ。凛とした人柄が好感を持てる、会ったのはこれが初めてだが人となりを表しているかのような顔に微笑を漏らす。


「張太守、少し厄介になる。呼ばれもしていないのに大勢で押しかけて済まん。友人の一大事に間に合ってよかったよ」


 あと五日、いや三日遅ければすべては終わってた。補給でもたついていても、徴兵でしくじっていても、道路事情が悪くても、何か一つの不具合で俺は失敗していたはずだ。


 言葉は優しくてもその裏に秘められた気持ちを張太守も感じた。諸葛亮以外にも蜀にこのような人材が居たとはと、己の無知に喝を入れて招き入れる。


「すぐに歓待の宴を用意致します」


 なにはともあれ疲れを癒してからと気を遣う。孟獲は象を降りてから目を合わせる、下駄を預けられ応じた。


「張太守の誘いを蔑ろにするわけではないが、まずは目の前の敵を押し戻してから酒に在りつきたいと思う。悪いが望楼に案内して貰えるだろうか」


 胸を張って己のわがままを通す。張太守は腹の底から「御意!」気持ちの良い返事をして、太守自ら案内役を買って出た。城壁を登るとそこに木製の楼が築かれていた。兵士が拳と手のひらを合わせて礼をする。


 それらを横目に楼の二階部分にまで足を運ぶ。ついに最前線にやってきたぞ! 北の地に延々と続く『曹』の軍旗。人の波がうごめいている。左手の側、西の山地遠くに微かに『高』の軍旗が見えた。先行させていた高将軍の部隊だ。右手にも山脈があり、そちらは南蛮の軍勢が山越えの最中で、あと数時間といったところ。


「さあ兄弟、これから面白くなるぞ」


 真剣に戦場を見回し未来を夢想する。軍勢指揮の間違いは許されない、一言で何千の死傷者が余計に生まれてしまう。


「右手の河、あれが邪魔だな」


 長江の支流である漢水が東西に走っている。城の少し北を通っているので、対岸に魏軍が多数陣取っていた。橋が架かっている場所はすでに魏軍の関所が設置されていて、前後は厚い防御がめぐらされている。


 渡河するのは至難の業だな。浮き橋を設置することが出来るとしても、橋頭保を確保するのにどれだけ犠牲が出るか……か。


 重装備ではそもそも渡河出来ない、軽装備では突破しても確保が出来ない。馬があれば河を渡って歩兵を蹴散らすことが出来たが、多くを別に割いてしまっているので数を揃えることが出来ない。無傷で済ませるつもりは無いが、十倍する血を流すつもりも無い。


「河向こうの一角だけでも確保出来れば、一時的で良い」


 二時間あれば浮き橋をを設置して対岸に兵を送れる。重装兵を押し込めば橋は守り切れるはずだ。一点を見詰めて唸る、どうしても歩兵では上手く行かないのだ。


 隣で見ている張太守はどうすることもできない、城を守ることで精一杯だったから。だがここにはもう一人居た。目を細めて何を考えているかを読み呼びかける。


「日の出から、南中するまでの間で足りるか」


 腕組をしたまま身動きせずに編成を脳内で組み上げる。お互いにだ。


「充分だ、それで出来ないようならここまで来た意味が無い」


 望楼に緊張した空気が張り詰める、そして孟獲大王が指名して部下を呼び寄せた。


「水角洞・亜麺暴王! お前の一族に藤兵をつける、明日の日の出から真昼まで河向こうの一カ所を支配しろ!」


「解りました大王、お任せください!」


 力強い返答を受けて孟獲大王が頷く。願っても得られない支援を受けられる、俺も出来ませんでしたでは済まされないぞ!


「助かる兄弟、これで渡河は約束されたも同然だ」


「俺とお前で倒せん奴など無い。さっさと終わらせて酒を飲み明かすぞ」

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