不思議なふたり
夕方と夜の間に位置するこの時間、薄暗いロビーは閑散としていた。
退屈そうに入場開始を待っている男女や、上映スケジュールを眺めながら何か悩んでいる様子の男の人。今日もこの「Cinema Bell」のロビーは、静かで穏やかな時間が流れている。それでもきっと、入場口の向こうの各シアターでは、今も多くの人たちが様々に感情を動かしているんだろう。
ロビーの奥へと進んでチケットカウンターの方を確認すると、そこに立っていたのは一岡さんだった。並んでいるお客さんは誰もいない。一岡さんは僕たちに気づくと、驚いたように目を丸くしたあと、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべ始めた。
よりにもよって一岡さんだなんて。ため息が出そうになるのを堪えながら、藤乃さんには少しロビーで待ってもらうように伝えて、仕方なく一岡さんの立つカウンターへ向かった。チケットを買わないことには中に入れないのだから仕方ない。
「うちでデートなんて、大胆なことするねぇ。鳴瀬くんもすみに置けないな」
一岡さんは、カウンターに身を乗り出して嬉しそうだ。頼りになる先輩なのは間違いないけど、こういう時に出会いたくない人物ランキングなら、圧倒的にナンバーワンだ。
「そんなんじゃないですよ。ただ、七不思議の確認で来ただけです」
「はいはい、そういうことにしといてあげる。……で、なに観るの?」
「えっと――」
チケットを取る映画はなんだって良かった。チケットを買うだけ買って、入場さえしてしまえば、あとは昼間みたいに上映のないシアターに移るだけだ。逆に返答に困ってしまって、やがて答えたのは今一番人気のある映画の名前だった。下手に人の少ない作品を選んでしまうと、上映中に僕たちがいなくなったことがバレてしまうかもしれないと思った。
だけど、一つ失敗をしたのは、一番人気のそれが恋愛映画だったことだ。恥ずかしくて顔を伏せてはみたけど、チケットを発行する一岡さんがどんな表情をしていたのかは想像に難くない。
「今度たっぷり追求しないとね」
そんな言葉ととも差し出されたチケットを、僕は苦笑いを浮かべながら受け取って、逃げるように藤乃さんの元へ戻った。
「すみません、お待たせしました」
「もう入れるの?」
「はい。ちょうど始まる作品を選んだので」
入場口へ向かって歩きながら、チケットを片方、藤乃さんに手渡す。
「そういえば、僕たちが最初に会ったのは、ちょうどこの場所ですよね。藤乃さんは、葵と二人で観にきてたんですよね」
「そうだね。映画館なんて嫌だって言ったのに、どうしてもって言って聞かないから」
「葵らしいですね」
嫌がる藤乃さんと、それを気にもしないで強引に手を引っ張る葵、そんな二人の様子が容易に頭に浮かんで、自然と笑みがこぼれた。どこにいても、やっぱり葵は葵だ。
「よく二人で来ていたんですか?」
「ううん、付き添いをしたのはあの一度きり。あの日私が誘われたのは、鳴瀬くんがホラー嫌いだからってだけの理由だし」
「僕……?」
唐突に出てきた自分の名前に驚く。
僕のホラー嫌いがどうして藤乃さんに関係するのか、少し考えてみて、その理由はすぐに分かった。あの日、藤乃さんと葵が観にきていたのは、当時話題のホラー映画だった。その映画の公開直前、僕はホラー映画だけは絶対に無理なんだと話をしたはずだった。
「そっか。僕と観るのが無理だから、代わりに藤乃さんに頼ったんですね」
僕のホラー嫌いが、あの日の偶然を生んだんだ。それに気づいた瞬間、なんだか無性に嬉しかった。
「じゃあ、誰かと映画館に来るのはその時以来ですか?」
「うん。次があるなんて思わなかった」
入場口の前まで来ると、チケットを確認するスタッフと目が合った。あまり話したことはないけど、小さく会釈をした。
「僕も葵と来て以来です。だから、同じですね」
そう言って、僕たちはチケットを見せながら入場口を通り抜ける。チケットに記載されているのは一番大きな6番シアターだったけど、そこへは向かわない。僕は邪魔にならないようにホワイエの脇にそれたところで足を止めると、リュックから一枚の紙を取り出した。
「なに、それ」
「フロアコードっていって、その日の上映スケジュールが全部載ってるんです。スタッフはこれを見ながら仕事するんですけど、……うん、やっぱり1番はもう全部終わってる」
昼に葵と会ったあのシアターに、今日はもう上映がないことを確認する。葵は、今もそこで待っていると確信した。
1番シアターは、入場してすぐ左脇にあった。この先に葵がいるであろうことを視線で伝える。藤乃さんがうなずいて返してくれたのを合図に、僕たちはシアターのドアを抜けて中へと入った。
もう何度登ったかも分からない目の前のスロープだけど、闇に包まれて先の見通せないそこは、本能的な恐怖がある。幽霊が出たらどうしようかと不安になって、今からまさにその幽霊に会いに行くんだと思い出す。
「行かないの?」
スロープの奥で藤乃さんが振り返るのを見て、初めて自分が立ち止まっていたことに気づいた。慌てて、藤乃さんのもとへ急ぐ。
「す、すいません……!」
「ううん。私も、鳴瀬くんが緊張してくれるおかげで、安心して進めるから」
追いつくや否や、藤乃さんはすぐに早足で進み始める。スロープを登りきると、何十とある座席が眼前に広がる。
僕は自然と、列の上段の方へと視線を向けた。なんとなく、いるとすればそっちの方だろうと思った。葵と二人で映画を観る時は、いつも後ろの方の席だったから。
そして、僕の読み通り――いた。
昼と同じように、彼女は自然な様子でそこに佇んでいた。座席の列を示すFのライトの隣で、葵はじっと僕たちの方を見つめていた。
「葵……。僕――」
その瞬間、葵は僕たちの方を指さして大声を出した。
「うわーー!!」
「え?」
「すごい、ホントに二人が一緒にいる! うわ、なんかすっごい違和感!」
いきなりテンションが最高潮だった。どうやら、僕と藤乃さんのツーショットを物珍しく思っているみたいだ。僕はそのテンションの上り幅についていけなくて、逆に冷静になってしまう。
「葵が自分で引き合わせようとしたんじゃないの?」
「いやぁ、そうなんだけどさ。実際に二人でいるところを見ると感慨深いっていうかさ。やっぱり、あたしの読みは間違ってなかったんだなって」
「読み?」
葵は、すうっと地面を滑るようにしてゆっくりと階段を下りて近づいて来る。
「うん。二人ならきっと、すごくいい組み合わせになると思ってたんだ」
葵は本当にずるい。自分がいなくなった世界で、どうして他の誰かのことばかり考えられるんだろう。
それはきっと僕たちが、葵にとって心配をかけるばかりの存在だったから。弱い僕が、今はとても恥ずかしい。
「ねえ」
ずっと黙っているだけだった藤乃さんが、やっと口を開いた。
「これが葵の願いなの? 私と鳴瀬くんが二人で会いにくることが。鳴瀬くんに七不思議を解かせるように頼んだのも、この時のためだったんでしょ?」
藤乃さんの問いに、葵は小さく笑った。
「鳴瀬くんはどう思う? 幽霊の少女の願いは、どこにあると思う?」
「それは……」
その問いの答えは用意してあった。
いつだって自分以外の誰かのことを考えてきた葵が、この世界に留まろうとする理由はきっと――。
ひょっとしたら、うぬぼれや思い上がりかもしれない。だけど、幽霊になった葵がこの「Cinema Bell」という場所を選んだことが、その答えだと思った。
「葵は、自分がいなくなった後に残される、僕や藤乃さんのことが気がかりだった。だから、幽霊の少女の願いは――。僕たち二人が、葵に頼らないでも生きていけるくらいに強くなることだ」
確信があった。だから言い切った。
この映画館で働くようになってから、僕は自分でも驚くほどに変われたと思う。その大きな要因となったのは間違いなく、一緒に働くスタッフたちだけど、そもそもみんなと仲良くなれるきっかけを作ってくれたのは、藤乃さんが与えてくれた七不思議だった。
この場所でバイトを始めようと思ったのは、いつか葵と再会をするためで、他のスタッフと親しくなることがあるなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。スタッフはみんな年上の人ばかりだし、クラスでさえ上手く馴染めない僕に、仕事の関係以上に距離を詰めることができるはずもない。
そんな僕を変えてくれたのが、葵が考えて、藤乃さんが渡してくれた、一枚のメモ紙だった。
一岡さんや五反田さん、水上さんや永田さん、他にもたくさんのスタッフや社員さんたち。七不思議について調べながら、仕事でもたくさんの経験を積んで、僕はこの映画館が自分の居場所だと思えるほどになっていった。
それはきっと、葵が願った結果なのだと思った。
「んー」
葵は間延びした声を上げながら、なにか考えるようなそぶりを見せた。ごくり、僕は思わず唾を飲み込み、緊張する胸をなだめながら答えを待つ。やがて葵が見せたのは、想定していたのとは違った反応だった。
「半分は正解ってとこかな」
葵は苦笑混じりで言った。
「半分?」
「もちろん、二人のことが心配だったのは、紛れもない本心だよ。鳴瀬くんもお姉ちゃんも、あたしがいなきゃダメダメなんだもん」
分かっていたけど、一切の遠慮もなく突きつけられると心にグサリと突き刺さる。
「うぬぼれだって思われるかもしれないけどさ、やっぱり、二人にはあたしのせいで苦しんで欲しくなかったから。お姉ちゃんには自分の感情を吐き出せるようになってほしかったし、鳴瀬くんにはもっと自信をつけてほしかったんだ」
落ち着かないのか、葵はF列の座席を行ったり来たり漂っている。その動きは明らかな違和感を覚えるほどに滑らかで、葵と話をしているのだという夢見心地から、意識を現実へと引き上げる。
今ここにいる葵は、僕の知っている彼女とは少しだけ違う。目の前の彼女は、葵が抱える未練そのものなんだ。
「去年の終わり頃、お姉ちゃんと久しぶりにここで会って、それからしばらくして鳴瀬くんもバイトで入ってきて、七不思議のことはそこで思いついたんだ。鳴瀬くんにそれを調べてもらうことも、それを使って二人を引き合わせることも。ずっと、二人が会ったら面白そうだなあって思ってたんだよね」
「……うん。実際に葵の読み通り、僕たちは少しずつでも変わることができた」
もちろん、もう葵がいなくても大丈夫だなんて思えない。きっと、そんな風に思える時がくることは、今後一生ないだろう。それでも後ろばかり向いていられないと気づけたのは、間違いなく葵のおかげだった。
藤乃さんも続く。
「私も、自分に欠けていたものがやっと分かった気がする。それに気づけたのは、違いなく鳴瀬くんのおかげだから」
藤乃さんの顔には、柔らかな笑みが見える。表情が読み取れるようになったのは、僕が細かな変化にも気づけるようになっただけじゃないと思う。
それでも、葵は寂しげな笑みを浮かべながら首を振った。
「それはあたしも嬉しいよ。けど、それじゃあまだ半分なんだよ」
「他にもなにか狙いがあったの?」
僕たちが示した「幽霊の少女の願い」の答えでは、葵はまだ半分だと言う。それなら、残りの半分にはどんな願いが込められていたんだろう。なにか見落としているものがないかと考えてみても、他に思いつくものはない。藤乃さんの方を向いてみても、首を横に振られるだけだった。
「二人に対する想いは、いま鳴瀬くんが言ってくれた通り。でも、あたしはそんな出来た女じゃないから。もっと、ただのわがままな女なんだよ。みんな死人のことはすぐに美化したがるんだから」
「そ、そんなつもりじゃ……」
指摘されて、ハッとする部分もあった。葵はいつも誰かのことを想っていたのと同時に、もっとわがままで奔放な面もあった。むしろ葵を語る上では真っ先に浮かぶ要素だったはずなのに、死んでしまったという事実のせいで、余計な思い込みが発生していたと思い知った。
「じゃあ、残りの半分はなんなの?」
藤乃さんが訊いた。
葵は、いたずらな笑みで答えた。
「あたしはね、ただ映画が見たかっただけだよ」
「あ――」
思わず声が漏れた。
そんな単純なこと、どうして見落としていたんだろう。
葵がこの「Cinema Bell」で幽霊として存在しているのは、死ぬ間際に向かっていた場所だったからだと思っていた。だけど、本当はもっと単純な理由――ただ、あの日観られなかった映画を、幽霊になってでも観たかっただけじゃないのか。
「そっか、葵はあの日の鳴瀬くんとの約束を叶えたかったんだ」
藤乃さんは納得したような声でつぶやいた。
僕が思い出すのは、三年前に葵と交わしたあの約束。
話題になっていることを理由に、一緒に「ほしきみ」を観ようなんて誘って。今まで約束なんて一度も交わしたことのない僕たちだったのに。結局、今日までにそれが果たされることはなかった。
あの時の約束は、ずっと僕の頭から消えることはなかったのに。どうしてすぐに気づくことができなかったんだろう。
思えば、ヒントは他にもあったんだ。たとえば、この1番シアターに落ちていた三年前の「ほしきみ」の半券とチラシ。
「でも、あの映画はもう……」
「ほしきみ」は三年前に大ヒットをした映画で、もうとっくに上映は終了している。自宅でビデオを借りれば観られるけど、このシアターで観ることは叶わない。
それなのに、葵は不敵な笑みを浮かべ始めた。
「観られるよ。あんまりあたしを甘く見ないことだね」
「いや、でも……」
その自信がどこから来るのか分からなくて困惑する。上映が終わってしまった作品をシアターで観るなんて、普通に考えたらありえないはずだ。
そう、”普通”なら。だけど、今の葵なら? 普通じゃなくなってしまった葵なら、そんなことも出来てしまうのかもしれない。
「……本当にできるの?」
「まあね」葵は得意げに笑ってから、ふと目を細めた。「だからさ、あたしのお願い、叶えてくれる?」
残りの半分の葵の願いは、あまりにもささやかなものだった。それを断るだけの理由なんて、どこにもない。僕と藤乃さんは目を合わせてうなずき合う。
「もちろん」
そんな僕たちの反応に、葵は「ありがとう」と満足そうに笑った。
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