藤乃さんの気持ち

 藤乃さんに促されて、僕たちは横に並んで歩き始める。特に話はしなかったけど、足が向かう先は映画館の方角だ。隣の広い車道を、スピードを出した車たちがときどき追い越していく。そのたびに、少し早めのヘッドライトが視界の端でチカチカと光った。

 しばらくの間、お互いに無言のままで歩いて、やがてマンションの前の通りをそれた頃、藤乃さんはぽつぽつと語り出した。


「お母さん、最近私が出かけてばかりいることを気にしてるの。怪しいことをしてるんじゃないかとか、家に居たくないからなんじゃないかとか、そういうのを心配してるみたい」

「映画館のことは、やっぱり話してないんですね」


 映画館のこと――つまり、そこで葵と会っていること。もし、葵が今も映画館に残っていることを両親が知ってしまったら、いったいどんな反応をするのだろう。なんとなく、想像はできるつもりだった。


「葵が、お父さんとお母さんには知られたくないって」


 もし僕が葵の立場だったら、やっぱり家族には知られたくないと思うのかな。余計な心配をかけたくない気もするし、寂しさに負けてしまうような気もする。

 それでも、もう三年も経っているんだ。悲しみを掘り返させたくない気持ちはあるのかもしれない。


「藤乃さんも辛いですね。本当のことを話せないのは……」


 頭によみがえるのは、エントランスで聞いた母親の悲痛な声。


『分からないの、ちゃんと言ってくれないと。あなたがなにを考えているのか』


 実の母親からそんな言葉を浴びせられて、いったいどれほど傷ついただろう。母親にだけは無条件での理解を求めたくなる気持ちが、誰にだってあるはずだ。

 ふと隣を見た時、藤乃さんはわずかに――だけど彼女にとってはとてもはっきりと――驚きで目を丸くしていた。まるで、目から鱗がこぼれたみたいに。


「そっか。私、辛かったんだ」

「自覚、なかったんですか?」


 今度は僕が目を丸くする番だった。藤乃さんの不器用は分かっていたつもりだったけど、まさかこれほどだったとは。自分が抱いた痛みにさえ気づけないことがどれほどの苦しみなのか、僕には想像もできなかった。


「考えたこともなかった。……そっか、だからずっと胸になにかつっかえてたんだ」

「す、すいません。もしかしたら、余計なことを言ってしまったかも……」


 気づかない方が良かったのか、判断がつかなくて反射的に謝った。

 藤乃さんは、今までに見たことがないくらいに、大きく首を横に振った。


「ううん、分からないけど、気づかなきゃダメだったんだ、と思う。……気づかなきゃダメだった」


 いつも自分のことには曖昧な口ぶりだった藤乃さんが口にした、はっきりとした言葉だった。それだけで、この気づきに間違いはなかったのだと思えた。


「良かったです。藤乃さんがそう思えたなら」


 そんな言葉が素直に口を出ていた。ちょっと偉そうに聞こえるかもしれないな、と言った後で気づいたけど、本心だから言い直すことはしなかった。

 藤乃さんは、無表情という名のいつも通りの顔に戻ると、会話を切り上げるように、再びせかせかと歩き出す。

 置いていかれないように慌てて追いかけて、そこでふと気づく。


「そういえば、どこかに出かけるところだったんですか?」


 藤乃さんがちょうど家を出るところだったことを思い出す。もしその用事を自分が邪魔してしまっていたらいけないと思って尋ねていた。

 藤乃さんは、その質問自体が分からないというように小首を傾げた。


「映画館、行くんじゃないの?」

「え、それはまあ行くつもりでしたけど、でも藤乃さんの用事は……」

「私も、行くつもりだったから。鳴瀬くんに会おうと思って、家を出たらお母さんに追いかけられたの」


 しばらく言葉が出なかった。

 なんでだろう、自分でも分からないくらい嬉しく思っていた。

 とりあえずマンションから距離を取るという目的で動かしていた足にも、明確な目的地が生まれて、一気に足取りが軽くなるみたいだった。

 しばらく進むと、「Cinema Bell」へとつながる大通りへと出た。その看板が向こうに見える。


「鳴瀬くん」


 不意に、改まった声で名前を呼ばれた。


「私、口が下手だし、人とズレているんだっていう自覚くらいあるし、いつも人の話を聞いてるばっかりだから、上手く言える自信ないんだけど……。でも、やっぱり言っておきたいから。ちゃんと言葉にしておきたいから」


 藤乃さんは一つひとつ言葉を確かめるように紡ぎ出す。少し空回ってしまっているけど、それが逆に藤乃さんの必死な気持ちを表している。僕は、「はい」とゆっくりと相槌を打って、ちゃんと聞いていることを伝えようとした。

 やがて映画館の入り口の前まで着くと、僕たちは自然と足を止めていた。

 藤乃さんは、入り口のドアの方を見つめたまま続ける。


「ずっと息が詰まるみたいだった。ずっとっていうのは、ここで幽霊の葵と再会してからもそうだし、葵が死んで一人きりになってからもそう。胸が押し潰されるみたいな感覚があるのに、その理由も、対処の仕方も分からなくて……。いつからか、その息苦しさが私の日常になってたの」


 僕はまた大きくうなずく。

 藤乃さんの感情が、言葉に乗って僕の胸まで届く。苦しい気持ちが自分のことのように胸を支配するけど、それと同時に、藤乃さんが感情を吐き出してくれたことが嬉しかった。


「……でも、今日、やっと分かった。鳴瀬くんが話を聞いてくれる、それだけで私は救われるんだって」


 僕はこの喜びを伝えたくて、心からの笑みを浮かべてみた。藤乃さんから笑みが返ってくることはなかったけど、それは分かっていた反応だ。


「葵に感謝しないとですね。こうして、僕たち二人を引き合わせてくれたんだから」

「全部、葵の思惑通りだったのかもね。らしいといえばらしいけど。いつも、誰かのことばかり考えていたから」


 いつも誰かのことばかり――その言葉で、僕の予測は確信へと変わっていた。

 幽霊の少女の願いとは何なのか、その答え合わせの時が近づいている。


「そういえば、今日葵と会ったんです。やっと、ちゃんと話ができました」

「……そっか」

「少し話したらいなくなっちゃったんですけど、その直前に言われたんです。あとで、藤乃さんと二人でここに来て欲しいって」


 藤乃さんはしばらくなにか考えるようなそぶりを見せた後、


「それじゃあ、七不思議は解けたの?」


 と訊いた。

 僕は思わず苦笑した。なんだかやけに懐かしいやり取りに思えたから。

 藤乃さんと出会ってから、僕はずっとその七つの謎を追いかけてきた。まさかそれが葵につながっているなんて、想像さえもしないままで。

 七不思議の正体が分かるたびに報告していたことを思い出して、少し恥ずかしくなった。


「はい。今度こそ、きっと」


 確信を込めて、深くうなずいてみせる。

 顔を上げると目が合って、それが合図になった。お互いに覚悟は固まったのだと分かって、僕たちは同時に映画館の入り口へ向かって歩き出した。

 自動ドアが開く。葵が待つその場所――「Cinema Bell」へ。

 三年前、葵に会いたくてこのドアをくぐった時の感覚がよみがえって、胸が締め付けられるみたいに苦しくなった。

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