母娘―おやこ―

 一昨日から続いていた雨は、すっかりとその余韻さえ消していた。

 従業員用の出入り口から外へ出て、夕空を見上げると、気が早い星たちの輝きが見つけられた。カラッとして、澄んだ空気が心地いい。

 この前みたいに、扉の前で藤乃さんが待っているんじゃないかという僕の予想は外れていた。結局今日は、お客さんとしても映画館に姿を見せていなかった。

 他に藤乃さんのいそうな場所として思いつくのは一か所だけだ。少し歩いていつもの公園に行ってみても、子供たちが元気な声をあげながら駆け回っているだけだった。ベンチの上には、誰の姿もない。


 何気なく子供たちの姿を眺めながら、ふと思う。

 改めておかしな関係だ。

 葵の時と同じ、約束もしないで、ただこの映画館を通じて会うことを繰り返すだけの関係。それがどれほど脆くあやふやな関係なのかは、三年前に思い知ったはずだった。どうすれば、どこに行けば会えるのか分からなくて、ただ祈るように待ち続けるしかなかったあの日々は、もう二度と繰り返したくない。

 連絡先くらい交換しておけばよかった。あの時と違って、今はスマートフォンという便利な道具を持っているのに。

 だけど、あの時とは違うことが、今はもう一つある。


「行ってみるしかないかなぁ」


 遠くに見える高層マンションを眺めてつぶやいた。いきなり訪ねることには抵抗があったけど、来るかも分からない公園で待ちぼうけをするわけにもいかない。気合を入れ直すように大きく息を吐いてから、藤乃さんのマンションを目指して歩き出した。

 家に行ってみて、もし藤乃さんがいなかったらどうしよう。それか、ご両親しかいなかったら? そもそも、インターホンを鳴らして藤乃さん以外が出たら、どんな風に名乗ればいいんだろう。

 歩いていると、次々に不安要素が浮かんでくる。マンションのエントランスに着く頃、それは解決するどころか、ますます肥大化をしてしまっていた。


 広いエントランスに入ると、正面には住民しか開けられない自動ドアがある。その隣には、部屋番号を指定するタイプのインターホンが設置されている。これで入り口を開けてもらうのが、文字通りの第一関門だ。

 まだ覚悟はできていないけど、ひとまずインターホンの前に立ってみたところで、ふと気づく。そういえば、部屋番号が分からない。

 思わぬ障害に固まることしかできずにいると、自動ドアの向こうから近づいてくる足音があった。不審に思われたらどうしようかと思って、とっさに後ろにあった宅配ボックスの陰に隠れる。その時になって逆に不審な動きをしていることに気づいたけど、今さらだった。


 自動ドアが空いて、向こうから一人の女性が現れる。その人の顔が見えた瞬間、思わず「あ――」と声を漏らした。

 ドアの向こうから出てきたのは藤乃さんだった。声をかけようと思って、一歩を踏み出そうとした瞬間、今度は慌ただしい足音がドアの向こうからもう一つ近づいてくる。

 その音に気づいた藤乃さんは、足を止めてドアの方を振り向く。閉まりかけた自動ドアがもう一度開き、そこから出てきたのは、なにかに焦った様子の女性だった。


 その女性が誰なのか、顔を見た瞬間に直感した。歳は四十代前後だろうか、目元には疲れを感じさせるシワが浮かんでいるけど、顔の作りは端正で、低い位置で一つ結ぶにされた黒髪は綺麗だった。

 まるで葵と藤乃さんの顔を混ぜ合せたような見た目をしたその人は、二人の母親に違いなかった。

 藤乃さんのことを慌てて追いかけてきたのだろう、その女の人はわずかに息が上がっていた。


「お願い、待って。せめて行き先だけでも教えて」

「だから、止めてっててば。そんなに心配されるようなことじゃないから。危ないことをしてるわけじゃないし」

「それじゃあなんで教えてくれないの? やっぱり、家に居たくないから?」


 母親らしき女の人は、悲痛な面持ちで声を絞り出した。どこかヒステリックにさえ見える彼女とは対照的に、藤乃さんは動揺する様子の一つも見せない。


「そんなのじゃない。ただ、本当に大した用事じゃないから」

「だったら――」


 と、それに続く言葉は呑み込まれた。

 二人の間に静寂が漂う。その間も藤乃さんは表情一つ変えなくて、ついに母親らしき女の人はその場でうなだれてしまう。

 足元を見つめるようにうつむいた体勢のまま、弱弱しく首を横に振る。


「分からないの、ちゃんと言ってくれないと。あなたがなにを考えているのか」


 消え入りそうなほどのか細い声で、僕の耳までかろうじて届いていた。藤乃さんがなにも言えないでいると、女の人は、「お願い……」と続けて、さらに深く頭を下げる。

 二人が話している内容について、僕には推測をすることしかできない。だけど、そんな二人の様子を見ているだけでひどく胸が締め付けられる。

 藤乃さんは、頭を下げ続ける母親の姿をしばらく見つめてから、やがて、「ごめん」とひとことだけを残して去っていった。顔を上げた女の人は、それを追うことはしなかった。


 藤乃さんがエントランスを出ると、その姿は見えなくなってしまう。僕はいよいよ隠れるのをやめて、あとを追って飛び出した。

 表の通りに出て、とっさに左右を見渡す。と、左手側の歩道の先にその背中は見つかった。歩くのが速い藤乃さんの背中は、みるみる遠ざかっていく。

 見失ってしまわないように、僕は駆け寄って声をかけた。


「藤乃さん!」


 振り向いた藤乃さんの表情が見えた瞬間、僕は思わず足を止めていた。


「鳴瀬くん、なんで」


 出会って間もない頃なら、絶対に気づけなかったと思う。僕が感じ取ったのは、それほどに些細な変化だった。だけど、わずかに目を見開いて僕を見つめる藤乃さんの表情は、どこか安堵しているかのようで、小さな弱さがのぞいて見えた気がした。


「藤乃さんのこと探してて……。映画館にも公園にもいなかったから、家に行けば会えるかなって……」

「家に……」


 藤乃さんから視線で問いかけられる。エントランスでのやり取りを見たのかと、訊いているのだと分かった。


「お母さん、だったんですよね」

「やっぱり聞いてたんだ」

「……すいません」

「ううん」と、藤乃さんは首を横に振ってから、「歩きながら話そうか。お母さん、また追いかけてくるかもしれないし」

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