再会

 気づけば、忙しい時間のピークを抜けて、ホワイエは閑散としていた。いくつかの作品が一斉に上映開始されて、しばらくは何もない時間が続く。

 誰もいないホワイエを一人歩く。

 なにか仕事は残していなかっただろうか。そんなことを考えながら辺りを見回していると、前方に揺れる影が見えた。それはまるで僕を誘うようにゆらゆらと揺れて、近くのシアターに入っていく。

 間違いない。呼ばれているのだと思った。


 その先で待っている彼女へ、はやる気持ちを抑えて、カーペット状の床を踏み締めてゆっくりと歩いた。

 影が消えて行ったのは、空きになっている1番シアターだった。開けられたままになった扉を抜けて、薄暗いシアターの中へと足を踏み入れる。空調のせいだろうか、ひやりとした風が首筋をなでた気がした。

 幼い頃、シアターの扉の向こうは、どこか別の世界へつながっているように感じていたことを、今になって不意に思い出した。

 シアターの中では、現実世界とは別の時間が流れていて、まるで異世界に足を踏み入れたようにさえ思えてくる。映画館でアルバイトを始めて、何度もシアターへ出入りするようになっても、それを感じる気持ちはなくなっていない。


 真っ白なキャンバスのようなスクリーンには、今はなにも映し出されていない。座席には当然誰の姿もなく、がらんとした寂しい空気が漂っている。辺りを照らしているのはわずかな照明だけで、暗闇に慣れない目では、上段の席はぼんやりとした闇に包まれていた。

 僕は、一歩、二歩と傾斜の緩い階段を登って、そこで足を止めていた。

 視線の先に、彼女がいた。


「――葵」


 幽霊の少女――葵は、列の中段あたりでわずかに浮かんで、僕を見つめながら微笑んでいた。三年前と変わらない、心からの笑みに見えた。


「やっと会えたね」


 ずっと同じ映画館の中にいたのに。こうして正面から顔を合わせられるまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。


「ホント、待ちくたびれちゃったよ」


 それは葵の声だった。

 三年ぶりに聞く彼女の声はなにも変わっていなくて、二人で過ごしたあの時間の感覚がよみがえってくる。このシアターの中だけが、まるで三年前に巻き戻ったみたいだった。そういえば、この1番シアターが「過去とつながるシアター」だったことを思い出す。


「ずっと、ここで待っていてくれたんだね。僕が真相に気づく時まで」

「遅すぎだよ。ヒントは出してたつもりなのに、気づかないふりでもしてるのかって思ったくらい」


 口を尖らせる葵の表情は、まるで生前と変わらなくて、それが余計に胸を締め付けた。手を伸ばせば触れられそうなのに、僕は手を握りしめて堪える。背中に回した腕がすり抜けた記憶がよみがえって、再びその事実を突きつけられるのが怖かった。


「そうかもしれない。幽霊の正体に気づくことは、葵の死を認めることと同じだから」

「……うん、そうだよね。分かってた。だからあたしも、直接伝えるのじゃダメだと思ったんだ」


 この映画館で葵が幽霊になって、三年が経った。誰かに気付いてもらうのを一人待ち続けるのは、どれほど心折れそうになる時間だっただろう。それでも、すぐに僕へ正体を明かそうとしなかったのは、すべて僕のためを想ってのことだった。


「あーあ。本当は、あんなことするつもりなかったのになぁ」


 あんなこと、というのがなにを指しているのかはすぐに分かった。この前、失意の底にいた僕を慰めてくれたこと。あれが葵の死に気づく直接のきっかけだった。


「ごめん。あんまり僕が落ち込んでたから、思わず出てきちゃったんだよね」

「分かってるじゃん。でも、立ち直れたみたいだね」

「うん。葵のおかげだよ」


 そう感謝を伝えると、葵は静かに首を横に振った。

 どこか寂しそうに、それでいて、ほっとしたような表情に見えた。


「ううん。あたしがいなくても、鳴瀬くんはちゃんと立ち直れてたよ」

「そんなこと――」

「あるんだよ。ここでのこと、あたし、ちゃんと見てたから」


 有無を言わせないような、強い言葉だった。それでも僕が否定の言葉を口にしようとして、それより先に葵は話題を切り替えた。


「ねえねえ、それよりさ、このコーデどう? 可愛いでしょ?」


 葵は一瞬にして真面目な表情をどこかになくして、顔を輝かせている。両手を広げながら、洋服がよく見えるように身体を回す。その切り替えの速さが葵らしくて、僕は思わず苦笑してしまう。

 葵が身につけているのは、最初に見かけた時から変わらない、白のダッフルコートとチェックのスカートだ。どのアイテムも生前には見覚えがない。それに、僕が知っているいつもの葵の私服とは雰囲気が違っていた。

 女の子らしいその服装もしぐさも可愛らしかったけど、相変わらず意気地なしな僕は、顔を逸らしながら、


「似合ってるよ」


 と言うのが精いっぱいだった。

 それでも葵は、本当に満足そうににっこりと笑う。


「よかった。三年越しで褒めてもらっちゃった」


 と、その瞬間だった。

 葵の姿が揺れる。まるで風に吹かれた煙みたいに。ほんの一瞬のことだけど、僕の視界から葵が消えたような気がしていた。


「え――」


 まばたきをしてみても、葵は当たり前にそこにいる。普通ならただの見間違いで済ませる程度のことだけど、とてもそんな風には片付けられなかった。


「聞いたよね、お姉ちゃんから。七不思議の最後の一つのこと」


 葵の口から、再び真剣な言葉が漏れた。それは僕の胸の中に鉛のようにのしかかる。

 自分がそんな感覚を抱いたことに驚いてから、それが切り出されるのを、僕はどこかで恐れていたのだと気づいた。

 昔みたいに、もっと何気ない会話を続けていたい。ただ楽しくて、心落ち着くだけの時間が欲しい。なのに、葵はそれを許してはくれなかった。

 僕はくちびるを噛んで、それからゆっくりとうなずいた。


「幽霊の少女の願い……。考えてみたんだ、葵が叶えたいと思うことは何か」


 葵が叶えたいと願うもの。それはきっと、葵が幽霊になってしまった理由。葵をこの世界に引き留めるもの。


「本当にいろいろなことを考えてみたんだ。だけど、この世界に留まりたいと思うほどの願望みたいなものは見当たらなくて。葵が願うことは、いつだって自分のことじゃないって気づいたんだ」


 葵の顔に浮かぶのは、珍しく複雑な笑みだった。

 いつだって葵は、感情をそのまま形にしたみたいな表情を浮かべて、僕はそんな葵が好きだった。今、そんな彼女の顔に浮かぶんでいるのは、喜びとか、寂しさとか、感慨とか、そういういくつもの感情が混ざり合った表情に見えた。


「鳴瀬くん、今日シフト何時まで?」


 唐突にそんなことを訊いてきた。僕は戸惑いながらも素直に答える。


「え、五時までだけど……」

「それじゃあさ、今夜、お姉ちゃんと二人でここに来てよ。それで、そのとき改めて答えを聞かせて」


 そう言った葵は、どこか覚悟を固めたような目をしていた。

 なんとなく分かってしまう。今夜、その時が最後なのだと。

 僕と、葵と、藤乃さんと、三人がこの「Cinema Bell」で集まる時、きっと今まで通りではいられなくなる。それを直感しながらも、葵に見つめられて、僕は小さくうなずいてしまう。

 その反応に満足をしたのか、葵は小さく微笑むと「それじゃあ、またあとでね」と、その場で闇へと溶けていってしまった。

 葵がいなくなったシアターの中で、僕は一人きり立ち尽くす。辺りにはただ静寂だけが漂って、まるで時間が止まってしまったかのように、何の気配も感じなかった。


 ――今夜、お姉ちゃんと二人でここに来てよ。


 頭の中で、さっきの葵の言葉を反芻する。

 三年前から止まっていた時が、いよいよ動き出すのだという予感があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る