大盛況のCinema Bell
タイムカードを切って現場に出ると、そこは想定をしていた通りの状況だった。
春休みの真っ只中であり、さらに今日から新作も始まったこともあって、ロビーやシアターは数えきれないほどのお客さんで埋め尽くされていた。少し前までの僕なら、見ただけでおののいてしまうような状況だ。それでも、今の僕はそれを目の前にしても落ち着いていた。自分が今どう動くべきか、冷静に考えることができる。
混雑の中に飛び込んでからは無心だった。最初に振り分けられた担当セクションはフロアで、本当に汗をたらすほどに劇場中を走り回った。いくつかの作品の入場開始が重なる時間になると、コンセッションにヘルプで入る。そこからは、ずらりと続く大量の行列との格闘だ。疲労は身体に蓄積されていくけど、その疲労感がどこか心地いい。
隣のレジでは一岡さんが疲れも見せずに、笑顔を見せている。負けていられない。
無心でレジを続けていると、唐突な異音がして意識が引き上げられた。レシートが正しく出てこなかったのだ。初めて経験するトラブルに手間取っていると、すぐ隣から伸びる腕があった。
「ロールが切れてる」
五反田さんの手には、新品のレシートロールが握られている。それを機械にセットすると、正常にレシートが吐き出された。僕は五反田さんに小さく感謝を告げてから、気持ちを切り替えて再びお客さんに向き合った。
それだけの短いやり取りだった。仕事で困って、助けられて、感謝をして。時間にすれば一分もなかったと思う。だけど、不思議な高揚感があった。僕は今、この「Cinema Bell」で働くスタッフたちの一部になれている。この不思議な高揚感を的確に表せる言葉は、たぶん一体感だと気づいた。
やがてコンセッションの混雑も引いてくると、もとの持ち場へと引き上げる。ロビーを通ってホワイエまで向かっている時だった。
「おい!」
不意に後ろから呼び止める声があった。
その攻撃的な声色に、嫌な記憶がよみがえる。バッグを盗まれたのだと主張していた、あのお客さんの苛立った表情。
振り向いた先にいたのは、あの時のお客さんと同様、焦りと苛立ちの混じったような初老の男の人だった。
心臓が一度大きく跳ねてから、鼓動が早くなるのを感じる。普段ロビーにいることは少ないから、余計に動揺をしてしまう。だけど、その焦りを自覚できているのなら、逆に大丈夫だと思えた。
「どうされました?」
「チケットがどっかいっちゃってさ。映画始まっちゃうし、早くどうにかしてくれよ」
相手を責め立てるような高圧的な声。攻撃的な感情をぶつけられたことで、胸は締め上げられ、足はすくんでしまう。
自分を落ち着かせようとして、こっそりと深く息を吸い込んだ。焦っていたら、前の二の舞になるだけだ。
周囲を確認してみても、相談できるスタッフの姿はない。それでも、今の状況が僕の手に余る場面だとは理解できた。近くに誰もいないなら、助けを呼べばいいだけだ。
僕は左耳につけたシーバーの存在を思い出して、すぐにロビーへ助けを呼んだ。返事をしてくれたのは一岡さんで、『すぐ行く』という声が頼もしかった。
「少々お待ちください」
焦りで苛立つお客さんをなだめながら一岡さんが来るのを待つ。気が立っている人を目の前にして、萎縮してしまう気持ちはある。それでも、その弱気を見せないことだけは決めていた。
「ったく、ホント早くしてくれよ」
苛立ちを吐き出すこの初老の男の人を、近くにいた別の若い男女のお客さんが白い目で見ている。その迷惑そうな表情を見て、申し訳なく思った。
苛立つ初老のお客さんは連れの人と連絡でも取るのか、ポケットからスマートフォンを取り出した。二つ折りカバータイプのケースに入ったそれを開いて、苛立ちのままに荒々しい手つきで画面を操作し始める。
と、そのカバーの、本体とは反対側のカードが収納できる部分に目がいった。人によってはICカードやクレジットカードを入れているその部分に、何やら白い紙がはみ出していた。その紙の材質に見覚えがあった。
「あの……失礼ですが、その券は?」
「ああ?」
初老のお客さんは苛立ちの声を上げながらも、その白い紙を引き出した。その瞬間、動きが固まった。その紙は間違いなく、今日の映画のチケットだった。
周りのお客さんの話し声も止んで、本当の静寂が漂った気がした。
「ちょっとド忘れしてただけだからな!」
引き抜いたチケットを慌ててポケットの中に隠すと、言い訳のような言葉を叫んだ。僕は呆気に取られて、近くにいた男女のお客さんは「ぷ」と鼻から吹き出すみたいな笑いをこぼした。初老のお客さんはそれが聞こえたのか、逃げるように入場口の方へと走っていった。
入れ替わりでやってきたのは一岡さんだった。何が起こったのかと、頭に疑問符を浮かべている。
「えーっと……、とりあえずチケットは見つかりました」
「なんとなく、何があったのか分かった気がする。あの人、チケットなくす常習だから」
「そうなんですか?」
「まあね。……けど、鳴瀬くんも成長したね。あの手の輩に遭遇したら、もっとワタワタして大慌てになっちゃうイメージだった」
ひどい言われようだけど、本当にその通りだと思った。働き始めたばかりの頃の僕なら、頭が真っ白になってただ棒立ちになるしかできなかったかもしれない。自分の手に余る状況に遭遇した時、適切に助けを求めることも大事な仕事だと今は分かる。
「そんなことありません、と言えないあたりが辛いところですけど……。それでも、少しは変われているなら嬉しいです」
「あ、この前のおにーちゃんだ!」
突然、ロビーに幼い声が響いた。
声がした方を見ると、小学校低学年くらいの男の子が僕の方を指さしていた。隣には、さらに幼い女の子と、その子と手をつなぐ母親らしき女の人がいた。
三人のことはすぐに分かった。僕がアルバイト初日に出会った迷子の男の子と、その妹とお母さんだ。
「また来てくれてたんだ」
「以前はありがとうございました」
二人のお母さんが頭を下げた。僕はとっさに両手を身体の前で振る。
「そんな、当たり前のことをしただけです」
「今日はね、レンジャー大集合を観に来たんだ!」
男の子は、大きな目をこれでもかと輝かせて僕に言った。
この男の子が迷子になってしまったのは、妹の映画に付き合わされて、退屈になって途中でシアターを抜け出してしまったからだった。その時、自分はお兄ちゃんだから我慢しなければいけないのだと強がっていたことを覚えている。
今日は逆に、妹さんの方が付き添いになって、お兄ちゃんが観たい映画を観に来られたみたいだった。
「よかったね」
男の子は「うん!」と大きくうなずいてから、それじゃあね、と手を振りながら去っていく。お母さんは妹さんの手を握ったまま、また一礼をしてから、男の子を追って小走りで駆けて行った。
僕はその背中が見えなくなるまで、じっと見送り続ける。胸の中が暖かかった。
「やるじゃん」
一岡さんの言葉がくすぐったい。頭の中には謙遜の言葉がいくつも浮かんだけど、今はそのどれもが相応しくないような気がした。
「今、なんだか不思議な気分です。入試で合格通知が届いた時みたいな……。でも、それよりももっと、満たされてる気がします」
口にした後になって、恥ずかしいセリフだったことに気づいた。だけど、一岡さんは優しい笑みで返してくれた。
「うん、いいことだ。その感覚、大事にとっておいた方がいいよ」
一岡さんの言葉を、じっくりと噛み締めてみる。そして、言われた通りに僕は、この感覚を胸の奥にそっとしまい込んだ。いつか必要になった時、また取り出すことのできるように。
「さ、早く持ち場に戻らないと! まだもう少し忙しい時間は続くからね」
一岡さんに促されて、僕は急いで持ち場へと戻る。
現場は相変わらずの忙しさで、また劇場内を走り回る時間が続いた。たとえいつも以上に忙しなくても、仕事の内容自体に大きな変化はない。それなのに、いつもとはまるで違う心地を覚えながら働く自分がいることに気づいていた。
アルバイトの初日、一人にされて怯えていた頃の僕はもういない。声をかけられることを怖がって、スタッフの仲間とも距離を作って、一人ではなにもできなかった。そんな僕は、いつの間にかどこかへ行ってしまった。
今の僕はもう、葵がいないとなにもできなかった僕じゃない。
そんな風に生まれ変われたのは、きっと……。
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