這い上がるために!

 公園から歩いて十分ほどのところにある、とある高層マンションの上層階が、藤乃さんの暮らす家だった。マンションの入り口は広いエントランスになっていて、明らかに高級感にあふれた内装をしている。今までずっと何気なく眺める景色の一部だったはずの建物の中に、僕はいま足を踏み入れていた。


「お、お邪魔します……」


 藤乃さんのあとに続いて、恐る恐る玄関の三和土に上がる。玄関にはまるで物が置かれていなくて、寂しい印象さえあった。


「遠慮とか、しなくていいから。どうせ親はどっちもいないし」


 だから余計に緊張するんだよなぁ、とは言えなかった。ただでさえ女性の家に上がるのは初めてなのに、こんな立派なマンションで、なおかつ家に誰もいないのはハードルが高すぎる。それに、ここは葵が暮らしていた家でもあるんだ。


「ご両親、共働きなんですね」

「うん、二人ともバリバリの仕事人間って感じ。葵が死んだ直後は落ち込んでたけど、しばらくしたら、一周してますますのめり込むようになったの」


 ふさわしい反応に悩みながら、藤乃さんの後を追って廊下を進むと、正面に広いリビングがあった。テレビもテーブルもソファも、うちのものとは比べものにはないほど大きくて立派だった。


「ちょっと座って待っててくれる?」


 そう言うと、藤乃さんは廊下を引き返してどこか部屋の中に入っていってしまう。言われるままにソファに座って一、二分ほど待つと、手になにかを持った藤乃さんが帰ってきた。

 そのなにかの正体はすぐに分かった。


「それ……」

「うん、家族アルバム。葵がたくさん写ってるから」


 差し出されて、僕は両手で恐る恐る受け取った。いくつかのアルバムが一つのボックスにまとめて収納されたもので、手に持った瞬間、ずしり、と重みが伝わった。


「身体冷えたし、ちょっとシャワー浴びてくるから。それ、眺めて待ってて」


 またしても一方的に言うだけ言って去っていく藤乃さんを引き止められない。

 藤乃さんがいなくなってリビングに静寂が漂うと、手に持ったアルバムへと視線を落とした。これを開けば、また葵に会えるんだ。手が緊張で震えていた。

 背の低いテーブルにアルバムのボックスを置いて、その中の一冊を取り出した。表紙に書かれていた年号の範囲は、今から五年前~三年前のものだ。藤乃さんは両親を仕事人間だと言っていたけど、こうしてマメに思い出を残しているあたり、家族に対してしっかりと向き合える人たちなんだと思った。


 表紙をめくる。目に飛び込んできたのは、「入学式」と書かれた看板の隣に立って、ピースサインとともに笑みをこぼす制服姿の葵だった。僕の知っている葵より数段あどけなくて、制服もまだ真新しかった。

 さっそく手が止まってしまう。見た目は幼くても、写真の中の彼女の笑顔は、間違いなく僕がよく知る葵のものだ。裏表なんてまるで感じさせない、心からこぼれたような曇りのない笑顔。懐かしさと愛おしさがあふれて、止まらなかった。


「葵……」


 つぶやきながら写真をなぞる。その行為が、自分の中で枷を外してしまった。途端に込み上げるものがあって、耐えられなかった。両方の目尻に涙が浮かんで、まばたきの拍子に大粒の滴が二つ、写真の上に落ちてしまった。

 とっさにそれをティッシュで拭き取って、次のページをめくっていく。本当はじっくり眺めていたかったけど、この調子でいったら、一冊も見終えないままに日が暮れてしまう。


 アルバムには当然、葵以外の家族の姿も写っている。藤乃さんは登場頻度が低い上に、写っているのはいつもの無表情ばかり。お母さんは上品な笑顔を浮かべる綺麗な人で、お父さんは痩身で優しそうな人だった。

 このアルバムの中の写真は、まさに家族の幸せを切り抜いたものだった。

 葵は幸せだったんだ。葵は昔から僕の知っている葵のままで、いつだってその人生は笑顔であふれていた。それを知れたことが嬉しくもあり、やるせなくもあった。

 アルバムを埋めているのは誰かの誕生日パーティや、家族旅行の一幕、葵や藤乃さんの節目の行事などがほとんどだ。そして、葵が中学三年生の冬、一家揃ってのクリスマスパーティ。それを最後に、アルバムは唐突に終わりを迎えた。

 どれだけめくっても、写真のポケットは空っぽで、そこで一家の時は止まってしまったかのようだった。


「私の高校の卒業式、ちゃんと写真は撮ったんだよ。だけど、ここに混ぜるのは違う気がしたから。アルバムはこのままにしようって、私が頼んだの」


 振り向くと、藤乃さんがシャワーから戻っていた。長い黒髪は生乾きでしっとりと水分を含み、部屋着のようなスウェットはダボついていて、首元が大きく露出していた。思わず、勢いよく視線を逸らしてしまう。


「……早かったですね」

「そう? まあシャワーだけだったし」


 言いながら、藤乃さんは僕の隣に座った。二人掛けだったから、自然と身体の距離が近くなる。藤乃さんからはお風呂上がりのいい香りがして、それがまた僕をドキッとさせた。


「アルバム、ありがとうございました。葵のこと、もっと理解できたような気がします」

「ならよかった」と、藤乃さんはアルバムの最初の一ページをめくった。「私も、これを開くのは久しぶり」


 そこには、僕が涙で濡らした葵の入学式の写真がある。


「本当に、いい表情を浮かべるよね。うらやましくなるくらいに」

「……はい」


 心からの同意を言葉に込めた。

 藤乃さんは、アルバムの中の葵の姿をじっと見つめている。


「私にはね、葵がいなきゃダメだったの。昔からずっと自分の感情を吐き出すのが苦手で、なにをしている時も無表情だし、思ったことも話せない子供だった。……だけど、そんな私がここまで生きてこれたのは、私の代わりに、全部葵が吐き出してくれたからだったの」

「……はい」

「そんな葵がいなくなって、私はパンクしたんだ。仕事も、人間関係も、なにもかも投げ出して。最後には何かすがりたくなって、気づいたら、あの映画館に行ってたの」

「……はい」


 これまでで、一番の同意を込めた。

 きっと僕も同じだったから。死んでしまったことは知らなかったけど、葵と会えなくなって途方に暮れていた僕は、すがるような気持ちであの映画館で働くことを選んだ。もう一度葵に会いたくて、三年前と変わらず弱虫なままの僕を導いて欲しくて。


「葵は、本当にすごい人でした。葵といる間だけは、僕が僕じゃなくなるみたいで……。たった一年足らずですけど、あの時間が僕にとってのすべてだったんです」


 僕の言葉に、藤乃さんは「うん」と同意するみたいにうなずいてくれる。


「私、誰かの気持ちを察するのは苦手だけど、鳴瀬くんの気持ちは、少し、分かる気がする」


 僕は小さく苦笑を浮かべる。


「僕も、藤乃さんの気持ち、分かる気がします」


 僕たちは正反対で、まるっきり逆の悩みを抱えているのに、葵とのことになると、こんなにも似たもの同士になってしまう。


「僕、学校じゃ友達と呼べる友達もいなくて、上辺だけのつまらない付き合いしかしてこなかったんです。感情に触れるのが、傷つくのが怖かったから」

「……うん」

「本当に、物心がついた頃からそんな感じで、そんな自分を変えたかったのに。全然、どうすることもできなくて……」

「……うん」


 藤乃さんが真剣に話を聞いてくれている。それだけで心が軽くなっていくのが分かった。藤乃さんの落ち着いた相槌には、話していて安心するような心地の良さがある。もしかしたら、葵も同じことを思ってたんじゃないかな。

 自然と、笑みがあふれていた。


「なんだか、やっと藤乃さんのことが分かった気がします。……僕たちは、ずっと葵でつながっていたんですね」

「そうだね。私も、やっと鳴瀬くんを知れたかも」


 誰かと話をするというのは、本当に不思議なものだ。部屋にこもっていた時は、あれだけふさぎ込んでいたというのに、今は穏やかな気持ちだった。

 もちろん、葵への悲しみが癒えたわけじゃない。きっとこれは一生抱えていかなければいけないものなのだと思う。それでも、今はその悲しみにしっかりと向き合いたいと思えた。


「藤乃さん」


 覚悟を込めて、すぐ隣に座る女性の名前を読んだ。


「明日、葵とちゃんと話をしてみます。逃げてるばかりじゃ、始まらないから」


 幽霊になってしまった彼女と、もう一度。今度こそ、逃げることはしないで向き合おう。


「そっか。……うん、それがいいと思う」


 藤乃さんのその声に、僕の中の覚悟はさらに強固なものになった。

 今日は無断でバイトをサボってしまった。葵に会う前に、そもそも次に出勤をするだけで精神的ハードルが高すぎる。いったいどんな顔をして事務所のドアを開ければいいんだろう。気は重かったけど、一つ一つ乗り越えていくしかない。


 だから、まずはそこから始めよう。

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