第5章 ~Re:vival~

人はなぜ落ちるのか

 三年前、葵は死んだ。

 僕との約束に向かう途中、交通事故に遭って死んでしまった。

 僕は布団の中にくるまって、必死にその事実から逃れようとした。まるで耳を塞ぐみたいにして、あらゆる痛みから身を守りたかった。それなのに、外界のすべてを遮断してみても、知ってしまった事実からは目を逸らせない。


 僕の手を引いてくれた葵は、もうこの世界にはいない。

 今日シアターで出会った彼女は、葵であって葵じゃなかった。

 今は何時くらいになっただろう。さっき晩ご飯に呼ばれたから、もう七時は過ぎているはずだけど。ずっとこんな調子でいるから時間感覚もないし、両親を心配させてしまっていることは申し訳なく思う。それでも、今は誰にも会いたくないし、何も考えたくなかった。


 葵が死んでいたと知った時、それほど大きな衝撃はなかった。三年もの間、なんの気配もなかったのだ。心の奥のどこかで、その可能性を考えていなかったわけじゃないのかもしれない。それなのに、自分の部屋に帰ってきてから、まるで遅効性の毒のように僕の胸をキリキリと締め付ける。

 今になって、心が現実を理解し始めていた。

 葵と過ごしたのはたった一年足らずの時間だったけど、それは僕の他の十七年よりもずっと大事な時間だった。葵だけが僕のすべてで、また葵と会える時を信じていたからこそ、この三年間を過ごしてこられたんだ。


 そういえば、今日のバイト終わり、藤乃さんとはどんな話をしたんだっけ。

 雨の中でいろいろなことを話した覚えはあるけど、頭の中がぼんやりとしていてすぐには思い出せない。そのもやの中を、手探りで一つ一つ思い出していく。


 藤乃さんが、葵のお姉さんだったこと。僕たちが昔一度会っていたこと。そして、七不思議の本当の最後の一つが「幽霊の少女の願い」であること。葵の願いを、二人で見つけようと提案されたんだった。

 頭が追いついていなかった僕は、その提案に「少し落ち着いてから考えさせて欲しい」と言ったはずだった。


 そうだ。だから、また明日改めて話をしようってなったんだ。

 あれ、そういえば明日ってバイトはあったっけ。そもそも、明日は何曜日だっただろう。なんだかもう、なにも分からなくなっていた。

 考えだすと止まらなくなる頭に無理やりストップをかけて、枕に顔を埋めてうつ伏せる。そうしていと、次第に意識はまどろみの中に落ちていく。

 心も身体も本当はひどく疲れていていたのか、僕は深く長い眠りについていた。



 翌日、バイトのシフトに入っていたことは、出勤時間を過ぎた後で知った。

 目覚ましのアラーム代わりになったのは、スマホのバイブレーション。無造作に床に放り出されていたそれを拾い上げると、バイト先からの着信だった。一瞬気づかなかったフリをしようかと思ったけど、体調が悪いことを一方的に伝えてからすぐに通話を切った。風邪の演技をする気力もなかった。


 いったい、どんな顔をしてあの映画館に行けばいいんだろう。今の僕にとって、あの場所はもうただのバイト先じゃない。あそこには幽霊になった葵がいる。死者の姿になってしまった彼女に、どうして会いに行けるだろう。

 スマホの画面に表示された時刻は正午過ぎ。どうやら、半日以上もの間眠ってしまっていたらしい。窓の外を見ると、昨日からの雨が降り続けている。この重たい天気も、長く寝過ぎてしまった一因だろう。


 スマホにはバイト先とは別の通知が一件。お母さんからだ。心配を伝えるメッセージと、今から仕事に出るからテーブルに置いたものを食べてほしいという内容だった。心配をかけてしまったことへの心からの謝罪を、「ごめんなさい」と「ありがとう」の二つの言葉に込めて返信をした。

 部屋の中は淡々とした時間が流れる。カーテンも閉め切って、聞こえてくるのは規則的な雨の音だけ。まるで、僕自身が幽霊にでもなってしまったかのようだった。

 あまり静かだと余計なことを考えてしまうから、賑やかしのためにテレビをつけてみる。平日の昼間にやってるバラエティなんてどうせくだらないものだけど、内容なんて求めていないからどうでもよかった。


 そういえば、今日は改めて藤乃さんと話をすることになっているんだった。いつもの公園を待ち合わせ場所にしたのは覚えてるけど、時間までも決めていたっけ。特に決めていなかったような気がするけど、それなら藤乃さんも日を改めるだろう。

 何気なくテレビを眺めていたら、不意に身体が震えた。その時になってやっと、部屋の気温が冷えていること気づく。テレビではちょうど番組のコーナーが変わって、今日の天気を伝えてる。昼過ぎから気温は一気に下がり、冬の寒さに逆戻りだとキャスターの人が言っていた。


 まさか――。


 頭に浮かんだのは、冷たい雨の降る中で、身体を震わせながらも律儀に公園で待っている藤乃さんの姿。ただじっと、いつまでも現れない僕を待っている。

 僕はそんなイメージを頭から振り払おうとして、だけどそんなことはできなくて、コートを羽織ると家を飛び出していた。

 公園までは走れば数分もかからない距離だ。傘は持ったけど、走る邪魔になるから開くことはしなかった。

 そのわずかな距離さえもどかしい。足元の水たまりが跳ねてズボンの裾を濡らすけど、それも構わずに走った。


 やがて、公園の入り口が見えてくる。どうか僕の杞憂でありますように。そう願いながら公園の中に入ると、そこには傘をさして立っている一人の女性がいた。

 ロングスカートの裾を濡らし、身体を縮めた体勢で立っている彼女は、藤乃さんだった。

 僕は歩調を緩めて、ゆっくりと近づいていった。


「……なんで、こんな天気の中」

「時間、伝えて忘れてたから」


 さもそうするのが当然かのような口ぶりだった。藤乃さんの言動は、僕の理解の外にあると分かっていたはずだったのに。


「だからって、わざわざこんな天気の中待つこともないでしょう」

「それでも」


 と言いかけた藤乃さんの言葉は、「ヘクチッ」という可愛いくしゃみによって遮られた。いったいどれほど前からここで待っていたんだろう。


「風邪、引いちゃいます。また別の日にしましょう」


 その提案に、藤乃さんは反応も示さず黙っている。なにかを考えているんだろうか。


「だったら」


 と、藤乃さんは突然、まるで妙案を思いついたみたいな顔をした。


「今から、うち来ない?」

「え、うちって……?」

「私の家。ここから遠くないから」


 唐突のことに、僕は戸惑うことしかできない。そうしている間にも、藤乃さんは一人でどんどんと歩いていってしまう。そうなってしまったら、僕は慌てて追いかけるだけだった。

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