藤乃さんが見た景色 その2

 平凡な毎日は、唐突に終わりを迎えることがある。それを知ったのは、その年の冬のことだった。


 受験生としての自覚があるのかないのか、年明けの頃になっても、葵は緊張感の欠片もない平穏な毎日を過ごしていた。

 そんなある日、珍しいことが起こった。

 なんとなくリビングのソファに座って無為に過ごしていると、大画面のテレビでは先週から公開されたとある恋愛映画のCMが流れている。「ほしきみ」という略称で親しまれているそれは、この一週間での興行収入が歴代最高を記録したらしい。


「ねえ、お姉ちゃん」


 不意に呼ばれて振り向くと、私服に着替えた葵が立っていた。やけにぎこちない声で、その顔も不自然に硬くなっていた。なによりも目についたのは、首から下の私服だった。


「これ、変じゃないかな……」


 葵が身に着けていた服は、どれも初めて見るものだった。そういえば、この前大きな紙袋をいくつも抱えて帰ってきてたっけ。

 厚手のニットの上に白のダッフルコートを羽織って、ボトムはチェックのミニスカート。私にはファッションセンスなんてないし、批評できるだけの語彙も持っていないけど、普段着ているものよりも女の子らしい毛色のコーディネートだった。


「いいんじゃない? ……としか私は言えないけど」


 私にファッションのセンスがないことなんて、葵だって分かっているはずだ。だからこそ、今まで一度も服装の意見なんて求められたことはなかったのに。

 葵は、私の反応に肩を落とす。


「ま、お姉ちゃんならそうとしか言ってくれないって分かってたけどさ……。その感性、信じてるからね!」


 そう言うと、葵は奥の洗面所の方へ慌てて走っていく。きっと、今からまた入念な準備に取りかかるんだろう。それにしても、今日はやけに気合が入っている。


「今日も映画館?」


 奥の洗面所へ投げかける。


「そーう!」


 賑やかな声が返ってくる。どことなく、そわそわとした印象だった。しばらく洗面所の方を向いていると、躊躇いがちに言葉が続いた。


「今日はね、ちょっと特別だから」


 間違いなく鳴瀬くん関係だ。常連客同士の二人は、普段は特に約束もしないで偶然に任せて会っているらしい。だけど、今日は少し事情が違うみたいだ。

 私は、映画館で見かけた一人の男の子のことを思い出す。周りのことにもしっかり気を配れて、真面目でおとなしい印象の男の子。自由気ままで奔放な葵とはまるで正反対だったけど、その違いが逆に上手くはまっているのかもしれない。

 それからしばらくテレビを眺めていると、長い準備を終えた葵が玄関の方へ走っていく気配を感じた。私はどうせ観てもいないテレビを消して、玄関へと向かう。葵はすでに、靴を履いているところだった。

 普段よりも気合の入っている妹のことを、なんとなく、この日は見送りたくなっていた。


「いってらっしゃい」


 いつも以上にぱっちりとした目をした彼女に、見送りの言葉をかける。


「行ってきます!」


 葵は軽く右手を上げながら、ぱたぱたと勢いよく玄関を飛び出した。扉が閉まると、足音は聞こえなくなる。その慌ただしさは、すぐに静寂へと変わっていた。

 そんな葵が車に跳ねられ、病院へ搬送されたと知ったのは、それから一時間ほど経ってのことだ。


 玄関で見送ったあの背中が、私が見た葵の最後の姿だった。



 葵が死んで、しばらくが経過した。

 彼女の死が私に教えてくれたものは、やっぱり私は狂った人間なんだという事実だけだった。

 突然の娘の死に直面して、絶望の淵に立たされた両親は毎日のように泣き続け、ひたすら悲しみに明け暮れた。それなのに、そんな二人とは対照的に、どれだけ経っても私の瞳から涙が流れることはなかった。


 狂ったように涙を流すお母さんより、よっぽど私の方が狂っている。


 四十九日が経ってから数日。次第に私の中に生まれ始めた感情は、悲しみとは別の息苦しさにも似たものだった。それは、身体の機能の一部を失ったような感覚だった。

 部屋を出ると真っ暗だった。家中のカーテンは閉め切られて、今が日中なのか夜なのかも分からない。家の中には誰の気配もなくて、両親はどっちも外出しているのだと分かった。しばらく部屋の扉の前で立ち尽くして、それから隣の部屋の中に入ってみた。そこは、生前の葵が使っていた部屋だ。

 今では使われなくなったその部屋は、毎日お母さんが掃除に入って、あの日の状態のままで維持がされている。おかげで、一月以上が経った今でも、どこを触っても指に埃が付くことはない。


 葵の部屋に忍び込んで、私が目指したのは奥の引き出しだ。その上から二段目を開けると、中には二つのメイクポーチが入っていた。葵は、学校用と休日用でポーチを使い分けていた。

 私は、中身がたくさん詰まった休日用の方を取り出して、その中の道具を机の上に並べていく。そして、卓上の鏡を前にして、素のままの自分の顔を飾り付けていく。参考にするのは頭の中に浮かぶ葵の顔。我ながら手際が悪いと思いながらも、ベースを整えてから、目元や頬、口元を明るく彩った。


 口紅まで塗って葵のメイクが完成したのは、三十分ほど経ってのことだった。改めて、鏡に映った自分の顔をじっと見つめる。


 鏡の中にいたのは私だった。葵じゃない。


 メイクの腕が下手くそなのを差し引いても、葵からはほど遠い。顔の造りは同じはずなのに、どうして?

 鏡を睨んでいるうちに、ふと気づく。この能面みたいな顔がいけないんだ。

 少しでもイメージの中の葵に近づきたくて、頑張って口角を上げようとしてみる。だけど、笑みと呼ぶにはあまりにも不格好で、やっぱり私は私だった。


 葵にはなれない。


 私は天井に向かって思い切り息を吐き出してから、メイク落としのシートを使って、擦るように全部拭き取った。

 鏡の中に映るのは、相変わらず表情のない女の顔だけだった。



 それからは淡々とした静かな日々が続いた。

 少しずつ両親は落ち着きを取り戻していったけど、葵がいた時間が戻ることはない。それでも、上辺だけなら普通の家庭を演じる程度のことはできるようになっていた。もともと家族の会話の八割は葵が占めていたから、食卓が静かになるのは当たり前のことで、その静寂を埋めるようにテレビがつけっぱなしになるようになった。

 家庭内での変化といえばそれくらいで、私は相変わらず自分から喋ることもないし、笑うこともないし、結局葵のための涙も流せないままだった。


 そのままなんとなく大学を卒業した私は、中堅の銀行に就職をして、仙台にある支店へと飛ばされた。

 そこでの日々のことはあまり覚えていない。とにかく忙しくて必死に働いた記憶はあるけど、具体的な出来事はなに一つ頭に残っていない。一人暮らしの家ではひたすら資格の勉強をして、仕事ではとにかくお金を数えていたことは覚えている。女性という立場が社内の競争で不利に働くことは分かっていたけど、上司からはそれなりに期待を寄せてもらっていたと思う。

 就職をしてからの日々は、本当にあっという間だった。まさに無心という言葉が当てはまるような毎日で、寝て起きたら一週間が過ぎていたような感覚。


 それが終わりを迎えたのは、本当に唐突だった。

 秋の終わり頃のある日だ。朝起きて、スーツに着替えて、家を出ようとした私は、そこで動けなくなっていた。金縛りにあったように、足が床に縫い付けられたように、どうやっても動けないと直感をした。

 そんな自分の身体に起きた異変に、不思議と焦りはなかった。限界がきたのだと、受け入れられていた。

 葵を失ってからの間、ずっと私の中に溜まり続けてきた何かが、ついに限界を迎えてしまったのだ。


 銀行からは休職を打診されたけど、そのまま退職届を出していた。職場近くの仙台のマンションをあとにして、実家に帰ってきたのは、葵が死んでからおよそ三年後のことだった。

 その時になって、やっと気づいていた。


 私は、葵に甘えていたんだ。こんなにも欠落した私が今日まで普通にしていられたのは、その欠落を葵が補ってくれていたからだ。私の代わりに、葵が笑ってくれるから。喋ってくれるから。私が吐き出せずにいたものを、葵が全部代わりに吐き出してくれていた。

 だからこんな私でも、今までパンクせずに生きてこられたんだ。でも、今はそれがなくなって、パンクをしてしまった。ただそれだけのことなんだ。


 実家に帰ってからしばらくが経って、ふと例の映画館へ行く気持ちになっていた。そこに行くのは、葵に無理やり連れられて、ホラー映画を観に行ったとき以来だった。

 平日の昼間ということもあって館内はガラガラで、誰かと映画を観るのが嫌いな私は、他に客の入っていない作品を選んだ。


 私はそこで、足のない葵と再会を果たす。

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