三年前

 仕事をしながらも、僕の心は空っぽだった。

 何かを考えられる余裕もなくて、ただ身体が覚えている通りに動きつつ、時間の流れに身を任せた。水上さんから引き継いだシフトは夕方までで、早いようなの遅いような時間が淡々と過ぎていった。


 ようやく仕事が終わると、着替えを済ませてから、従業員用のうす暗い通路を通る。普段は不気味に感じるその場所も、今はなにかを感じることもなかった。

 錆の目立つ鉄のドアを開けて外に出る。途端に、肌にまとわりつくような季節外れの空気が入り込んできた。外を見ると雨だった。


「……最悪」


 折り畳み傘は持っていない。強い雨脚ではなかったけど、家に着くまでの間に濡れるのは覚悟しなければいけない。いっそ、どこかで雨宿りでもしてから帰ろうか。そういえば僕は本来、新入生の集まりに参加することになっているんだった。

 どこか長居できるお店を探そうと、正面の通りを駅側へと向かって歩き出した。だけど、僕はその足をすぐに止めた。


 すぐ正面に、傘を差した一人の女性が立っていたから。

 僕は、彼女がそこにいることを予感していたのかもしれない。それくらいに、驚きはなかった。


「……藤乃さん」


 もう長い間待ってくれていたんだろうか。藤乃さんのジーンズの裾が、濡れて色が変わっていた。

 しばらくの間、まるで対峙するみたいな格好のままでいた。やがて、僕のおでこから雨粒が伝ったのと同時に、「傘、ないの?」と藤乃さんが訊いた。

 傘なんてどうでもいいのに、第一声がそれだった。もっと他に訊くべきことはいくらでもあるはずなのに。


「藤乃さんは、どこまで知っているんですか? 葵のこと」


 この映画館でさまよっていた幽霊は、僕の知る姿のままの葵だった。

 それが意味するところは、考えなくたって分かってしまう。


 葵は死んだ。

 死んだんだ。

 死んで、この映画館をさまよう幽霊になってしまった。


 三年前、葵が突然姿を見せなくなったのは、きっと幽霊になってしまったから。どれほどここで待っていたって、生きた彼女にもう一度会うなんて、叶うはずもなかったんだ。

 幽霊の姿になった彼女と出会ったというのに、今でもまるで実感がない。浮いているのも、触れられないのも、全部お茶目な彼女のいたずらで、次に会った時に笑いながら種明かしをしてくれるんじゃないかと期待をしてしまう。

 そんなことあり得ないと、頭では分かっているのに。


「鳴瀬くんは、葵に会ったんだね」


 葵――。

 藤乃さんは、ごく自然にその名前を口にした。藤乃さんは葵の名前を知っていると、その予想は当たっていた。


「やっと気づけました。あの幽霊が葵だったなんて……。葵がもう、死んで、いたなんて……」


 その言葉を口にした瞬間、胸に深く刃物が突き刺さる感覚があった。実際に言葉にすることで、本当になってしまうみたいで。認めなければいけないみたいで。

 不意に、空から降りしきる雨が止んだ。止んでいたのは僕の周りだけだった。

 顔を上げると、藤乃さんが自分の傘を僕の頭上へ差し出していた。代わりに、守るものがなくなった藤乃さんの前髪が濡れて、しっとりと額に張り付いた。


「葵は、私の自慢の妹だったの」


 藤乃さんは、愛おしそうな声でそう言った。言葉の内容より先に、その声色に驚いてしまった。こんな声も出せたんだ。


「藤乃さんは、ずっと知っていたんですね。ここに、葵が幽霊となって暮らしているって」


 僕は、小さく頭を下げながら差し出された傘を押し返した。傘が必要なのは、藤乃さんも同じはずだから。


「私も、幽霊になってるなんて知ったのはつい最近。冬のはじめの頃に、一人でここに映画を観に来たの。映画館は嫌いだったけど、葵が最後に向かった場所だったから」

「最後に……」


 嫌な予感が胸の底から込み上げる。葵は、僕とこの「Cinema bell」で待ち合わせをした時からその姿を消していた。


「それじゃあ、葵は……」


 藤乃さんは、決まりが悪そうに目を逸らしてから、ゆっくりとうなずいた。


「葵は、友達と約束があるって言って、この映画館に向かう途中で事故に遭ったの。映画が好きだったあの子だけど、その日は朝から本当に張り切っていて……」


 なにも言葉が出なかった。

 僕がなにも知らず、呑気にここの入り口で待っている間に葵は――。

 柄にもなく、おかしな約束なんてしてしまったから。こんなの、僕が殺したようなものじゃないか。

 一段と雨脚が強くなってきた。ざあざあ、とアスファルトを叩く音がうるさい。


「どこか屋根の下に行こう。風邪、引いちゃうから」


 藤乃さんに促されて、僕は小さくうなずいた。いっそ風邪でも引いてベッドに閉じこもりたいくらいだったけど、藤乃さんに迷惑はかけなくなかった。

 藤乃さんの傘に一緒に入れてもらって、雨宿りができる場所を探して歩いた。女性用の傘はサイズも小さくて、お互いに肩がはみ出してしまって無防備だった。

 その間僕たちはずっと言葉も交わさず、雨から身を守れる場所を探して視線をさまよわせた。そうして、やがて見つけたのは小さなビルの入り口だった。一階の玄関部分は大きく窪んだ構造になっていて、出入りする人もいなかった。

 藤乃さんはそこで傘を閉じたけど、お互いにすっかりびしょ濡れになっていた。


「すみません。僕のせいで、こんなに……」

「別に。今日は気温も高いから寒くないし」


 お互いに通りの方を向いて並んで立つ。歩道部分の広いその通りでは、傘をさして気怠げに歩く人もいれば、雨に濡れながら駅の方へ走っていく人も少なくない。


「藤乃さんは、映画を観るふりをして葵と会っていたんですか?」


 僕は途切れてしまった話題を戻した。訊きたいことは、まだまだいくらでもあった。


「そうだね。映画だって、別に観てなかったわけじゃないけど」

「だから、いつもお客さんのいない作品を選んでたんですね」

「そうだね。……けど、前にも一度話したよね。私、誰かと観る映画は嫌いなの。なんだか、周りと同じ感情になることを強要されてるみたいで。だから、理由としてはどっちも」


『私、映画館で観る映画って、嫌いだから』


 以前、そんな風に言っていたことを思い出す。その言葉の意味がやっと分かった。映画館は、一つの作品を大勢で観て感情を共有できる場所だけど、逆にそれが苦手な人だっているんだ。


「そう、だったんですね」


 雨に濡れて冷えたのが逆によかったのかもしれない。少しずつ頭が落ち着いてきて、冷静に考える余裕が生まれていた。

 葵のこと、藤乃さんのこと、そして、僕のこと。


 今から三年前、僕との映画の約束に向かう途中で、葵は事故に遭った。

 去年の冬のはじめ、藤乃さんは「Cinema Bell」で幽霊になった葵と出会った。

 それから年が明けて少し経った頃、僕はバイトを始めて葵の幽霊と遭遇した。

 そして、それとほとんど同時に藤乃さんと出会った。

 きっと、全部が最初から繋がっていたんだ。


「藤乃さんは、最初から僕のことを知っていたんですか? 僕が、葵の友達だって」


 そうでなければ、僕に声をかけた理由がない。七不思議だなんて適当な理由まで見繕って。

 藤乃さんはうなずいた。


「葵からいろいろ聞かされてたから。……それに私たち、実はむかし一度出会ってるの。あの『Cinema Bell』で。葵に無理やり連れてこられたことがあるんだけど、その時に」

「あ――」


 藤乃さんの言葉を起点に、一瞬にして記憶がよみがえる。

 あれは確か、三年前の夏頃のこと。受験勉強の息抜きも兼ねて「Cinema Bell」に行った時、綺麗な年上の女の人と二人で来ていた葵に会ったことがあった。その人は誰かと尋ねた時、姉なのだと紹介されて、お互いに軽い会釈だけを交わしていたはずだった。


「葵からは、よく名前も聞かされていたから。私も最初は顔を忘れていたけど、名札を見た時にピンときたの」

「……でも、それならどうして七不思議なんですか。葵のこと、もっと最初に教えてくれたらよかったのに」


 恨み節になった自覚はあった。

 もっと早くからあの幽霊が葵なのだと気づけていたなら、バイト中の行動も、もっと違うものになったはずなのに。たとえ幽霊になってしまったとしても、なにか言葉を交わすことだってできたかもしれないのに。


「ねえ、七不思議を考えたのが私じゃないって話、鳴瀬くんは覚えてる?」

「まあ、はい」


 忘れていたわけじゃない。けど、意識からは抜けてしまっていた。その話を聞いた時は、藤乃さん以外に思い当たる人物なんて、まるで見当もつかなかったから。

 だけど、今なら一人、頭に浮かぶ名前があった。


「まさか――」

「うん、七不思議を考えたのはね、葵なの。私はただ、それを鳴瀬くんに調べてもらうように頼まれただけ」

「なんで、そんなこと……」


 なんでもクイズにして遊びに変えてしまうやり方は、葵らしいと思う。だけど、そんなことをする理由が分からない。そんな回りくどいことをしないで、ここにいるんだと教えてくれたら良かったのに。なにより、同じ場所に居ながら、ずっと僕のことを避けていたのだと思うと寂しかった。


「葵は、鳴瀬くんに自分で気づいてほしかったの。葵の方から直接真実を伝えるんじゃなくて、鳴瀬くんに自力でたどり着いてほしかったの」

「そんなの、だからって……分からないですよ……」


 葵が死んでしまっただなんて、もう幽霊になってしまっただなんて、そんなことは想像もしたくないことだった。


「私も最初は素直に伝えたらいいのにと思ってた。……けど、葵は鳴瀬くんのことをよく分かってる。いきなり伝えてもきっと受け止め切れないから、少しずつヒントをあげて、自分から気づいてもらうのが一番いいんだって」


 七不思議の最後は、幽霊の少女についてだった。一つ一つ解いていけば、必ず最後にはたどり着くようになっていたんだ。


「だからって、こんなの周りくどすぎます」

「うん、本当に私もそう思う」


 藤乃さんは、濡れた前髪を鬱陶しげにつまみながら曇天の空を見上げた。


「ねえ、七不思議の最後の一つは覚えてる?」

「えっと、『さまよう幽霊の少女』でしたっけ?」


 曖昧な記憶を掘り起こして答えると、藤乃さんはゆっくりとうなずいた。


「実はね、それは不完全なの。本当の最後の一つは、『幽霊の少女の願い』なんだって。それで、その最後の一つは、私に課せられたものでもあるの」

「藤乃さんにも?」


 藤乃さんはもう一度、今度はさっきよりも深くうなずいた。


「私も、葵の本心はなにも知らない。七不思議のことを頼まれた時に言われたの。鳴瀬くんが全部に気がついたら、本当の最後の一つは、二人で解いて欲しいって」

「僕たち、二人で……?」


『幽霊の少女の願い』。つまり、幽霊になってしまった葵の願い。


「そう。私と、鳴瀬くんで」


 言葉がなにも浮かばない。

 いつだって葵は、僕の一歩前を歩いて手を引いてくれた。知らない景色を見せてくれた。知らない世界を教えてくれた。

 頭によみがえる葵は、いつだって溌剌とした笑顔を浮かべていて、大袈裟なくらいの表情で僕を魅了してくれた。僕に欠けているすべてを持っていて、二人でいる間はその隙間を彼女が埋めてくれたから。

 僕は、葵がいないとなにもできない。それは、今も昔もまるで変わっていない。


 見つけられるのだろうか、そんな僕に。

 叶えられるのだろうか、こんな僕でも。

 葵が願うことなんて、僕には想像さえもつかない。


 助けを求めるように、藤乃さんの顔を見上げた。


「一緒に考えよう、葵のこと。葵が、私たちに叶えて欲しいと思っていること」


 藤乃さんに諭されて、僕はゆっくりとうなずいた。

 そうだ、今の僕は一人じゃない。葵以外に頼れる人がいなかったあの頃とは違う。

 藤乃さんは相変わらずいつもと変わらない無表情だけど、それでも、その顔を見ているだけで自信が湧き上がるみたいだった。

 バイト先である映画館「Cinema Bell」にまつわる七不思議の、その最後の一つについて、僕たちは考える。


 幽霊の少女の願いは、なんだろう?

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