「よし!」


 部屋に置いた姿鏡の前で気合を入れる一声。

 鏡の中に映る僕は、ベージュのチノパンと白シャツで、ネイビーのパーカーを羽織っている。どれも春からの大学の通学用に買ったもので、今日はそのフライングだった。普段は私服なんてほとんど意識をしないから、なんだかむず痒い気分になる。


 机の上に置かれた一つの封筒を、僕は手に取った。それは春から通う大学から届いたもので、新入生の事前交流会の案内とその招待状が入っている。

 同じ学部の新入生で集まって、入学式前に知り合いを作ろうというのが、この会の主旨みたいだ。入学式の前から一人でも知り合いがいれば、間違いなく大きなアドバンテージになる。どうにも自分からは動けない僕みたいな人間にとっては、願ってもないチャンスだった。


 四月から僕は、絶対に変わるんだ。


 ちゃんと同級生とも向き合って、弱気な自分はもう捨てるんだ。誰かに手を引いてもらわなくても、自分の力できちんと歩けるように。

 僕はもう一度鏡の中を見つめる。表情が硬いのは仕方ないにしても、目の下に小さくクマができていて、顔色があんまり良くない。


 やっぱり、全然眠れなかったのが良くなかったかな……。


 最初はどんな話題が無難だろう、どんなキャラでいこうかな、同級生がみんな怖かったらどうしよう。そんなことをあれこれ考えているうちに時間が過ぎて、僕が眠りに落ちたのは太陽の薄明かりを窓の外に見てからのことだった。


『先輩から一つアドバイスをするなら、最初が肝心! ってとこかな。下手したら、そのまま四年間ボッチってこともありえるし』


 もう何度目になるかも分からない、一岡さんの言葉が頭によみがえる。

 今日という一日が、これからの四年間を大きく左右する可能性だってある。最初の一歩を間違えないためにも、今日の集まりは絶対に失敗するわけにいかなかった。


 と、突然、部屋に電子音が響いた。

 聞き慣れない長いメロディ。着信だった。机の上に置いたスマートフォンの画面を見ると、水上さんの名前が表示されていた。バイト先の人から通話が来るのは初めてで、怪訝に思いつつ応答をした。


「もしもし?」

『あ、鳴瀬っち。今って家?』

「えっと、まあ」


 質問の意図が分からずに曖昧な返事になってしまう。それでも、電話越しの水上さんは安堵したような息を漏らした。


『よかったぁ。実はさ、ゼミの関係で急用が入っちゃって。今日のシフト、変わってくれたりしない? 他のみんなからは断られちゃって……』


 水上さんが電話越しにしゃべる。僕の頭は、真っ白になっていた。

 その変わって欲しいというシフトがどれほどの時間なのか、確認をしないと詳細は分からない。だけど、大学の交流会の時間と被ってしまうことだけは間違いなかった。


 天秤が揺れる。大学の交流会か、水上さんからの頼みか――。


「大丈夫ですよ。今日はなにもなかったので」


 僕のその答えは、ほとんど条件反射に近いものだった。

 水上さんに気を遣わせたくなかったから、言葉の中に迷いは見せない。その演技力には自信があった。


『良かった! 助かるよ。シフトの時間なんだけど――』


 それから少し、シフトの引継ぎについて話してから通話を切った。切る直前にまた感謝の言葉を言ってもらえたけど、僕の嘘が気づかれた様子はなかった。

 通話が終わって真っ暗な画面になったスマートフォンを片手に持って、部屋の中で立ち尽くす。なんだか、とても虚しかった。

 電話の向こうで、水上さんは困っていた。だから、力になりたいと思っただけのことだ。僕は今までそうやって生きてきたから、今回もその通りにしただけのことなのに。どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。


 新入生の交流会に行かなかったからと言って、大学生活が失敗すると決まるわけじゃない。逆に言えば、そこに行ったからといって、必ずしもなにか収穫があるとも限らない。


 だけど分かってしまった。

 他人を言い訳に利用して、いつも大事な何かから逃げ続ける。これが僕なんだ。


 バイトまではまだ時間がある。お母さんには、今日の予定が変わったことなんて話せるはずがない。いつだってお母さんは、こんな僕をずっと気にかけてくれていた。

 もうそろそろ、家を出ないと不審に思われてしまう。バッグを肩にかけて、最後にまた鏡を眺めた。

 大学の通学用に買った着慣れない私服の姿が、ひどく虚しく目に映った。


 幸い、時間を潰せるようなお店ならそこら中にたくさんある。百貨店の服屋でマネキンを眺めて、本屋で忘れていた漫画の新刊を買って、それ自体は決して悪い時間ではなかった。それでも、時間を確認するたびに、今頃は会も始まっているかな、と意識せずにはいられなかった。


 小一時間ほど暇を潰して、お昼近い時間になった頃、ようやくバイト先へと向かう。

 事務所に入ると、シフトの交代の話はもう水上さんの方から済んでいるみたいだった。いつも通りに準備を済ませてから、タイムカードを切る。現場に向かう前にいくつかの準備をしていると、一人近づいてくる人がいた。


 四角い眼鏡の社員さんは、中村さんだったはずだ。


「鳴瀬くん、ちょっと……」


 どこか言いづらそうにする口調と表情。シフトの交代についての話をされるのかという予測は、その態度ですぐに捨て去った。こういう時、どういう話をされるのかは経験として分かっているつもりだった。

 中村さんに連れられて、事務所の奥まで移動する。


「昨日、洋服が入った袋をお客様に返したのは鳴瀬くんだよね?」


 どきりとした。どんな話をされるか分かっていたけど、その内容に思い当たるものがあるわけじゃなかったから。


「……はい。名前は忘れましたが、お店の袋を女性の方に渡した記憶があります」


「そうか」と、中村さんは頭を抱えるようにして、「せっかく休みのところを出てもらったのに、こんな話をするのは申し訳ないとは思うんだけど……」


 そこで一度言葉を切って、どこから話すかを考えるみたいなそぶりを見せた。


「実は、同じお店のバッグがもう一つあったんだ。鳴瀬くんが渡したのは、別のお客様のものの方だったんだよ」


 なにも言葉が出なかった。

 昨日の出来事が頭によみがえる。幽霊を追いかけることばかりに意識が向いていた僕は、お客さんから声をかけられても気もそぞろだった。倉庫に入って、他にどんな預かった荷物があるのかをろくに確認もしないで、それらしい紙バッグを適当に渡してしまった。その時でさえ、その荷物が合っているか確かめもせずに。


「……あの、荷物はどうなりましたか。ちゃんとそれぞれの手元には……」


 僕は恐る恐る尋ねた。もし二つの荷物が戻っていなかったらと思うと、心臓がキリキリと痛む。だけど、その心配は杞憂だった。


「大丈夫。二つとも無事に正しい持ち主のもとに戻ったよ。鳴瀬くんが荷物を渡したお客様も、慌てて気づかずにすみませんって謝ってくれたから」

「そんな……」


 確認を怠ったのは僕の方なのに。スタッフから同じお店の袋を渡されたら、それが自分のものだと思うに決まってる。


「すみませんでした……。みなさんにも、荷物が入れ替わった二人のお客さんにも、本当に申し訳ないことをしました……」

「結果として、ちゃんと持ち主のもとに戻ったんだからいいさ。クレームにもならなかったわけだし、次からちゃんと確認してくれれば――」

「そんなのただの結果論です……!」


 思わず大きな声を出していた。

 事務所中の視線が集まっていることに気づいて、僕は声を潜める。


「僕は別のことに気を取られて、本来の仕事を忘れていたんです。スタッフとして失格です」

「鳴瀬くん……。失敗なら誰にだってあるさ」


 中村さんの慰めにも僕は首を横に振る。すごく嫌なことをしている自覚はあったけど、止められなかった。


「失敗なんかじゃなくて、僕はそういう人間なんです。いつも流されてばかりで、自分一人じゃなにもできない……」


 中村さんはいよいよ言葉を失ってしまっていた。こんなにも困った表情をさせているのが自分の言葉のせいだと痛感して、また強い自己嫌悪に襲われる。

 中村さんが気まずそうに視線を逸らした先には、ロビーの様子を写したモニターがあった。入場時間が重なっているのか、人だかりが映っていた。


「すみません。現場に出てきます……」


 僕は深々と頭を下げてから、急いで事務所をあとにした。自分への怒りとか、羞恥心とか、いろいろな感情がごちゃ混ぜになって、お腹の辺りが激しく燃えているのを感じていた。


 まるで気持ちが入らない。

 こんな状況で、まともに仕事なんてできるはずがない。

 だけど、これ以上誰かに迷惑をかけることだけはしたくない。ただそれだけのモチベーションで劇場中を駆け回った。

 じわり、服の下で汗がにじむ。

 事務所を下りてからは、忙しない時間が続いた。無心になって作業を続ける。身体を動かしていないと、余計なことを考えてしまうから。それでも、ふとした瞬間に頭をよぎる感情がある。後悔と落胆だ。


 今頃は春から通う大学で、未来の友達と出会っているはずだったのに。

 昨日、荷物に間違いがないか確認していれば、誰に迷惑をかけることもなかったはずなのに。

 走る。劇場の端から端へ、走り続ける。

 息が切れそうになって、胸を押さえた。苦しいのは、息が切れているからじゃなくて、胸が詰まっているから。


 どうにかホワイエの端にある5番シアターの清掃を終わらせて、僕は思わず天を仰いだ。これでちょうど、この忙しさにも一区切りがついたはずだった。

 ひとまず入場口の方に向かおうとシアターを出たところで、つま先が床に引っかかる。バランスを取り直すこともできないで、僕は両手を床についていた。マットのザラザラとした感触が、両方の手のひらにこびりつく。立ち上がる気力も湧かなくて、這いつくばる姿勢のまま動けなかった。途端にみじめな気持ちになる。

 深いグレーのマットに、てん、てん、と二つの染みができた。それを見て初めて、自分が涙を流していることに気づいた。


 昔から、なに一つ変わっていないじゃないか。


 自分一人じゃなにもできなくて、自力で立ち上がることさえ叶わない。三年前、そんな僕の手を引いて立ち上がらせてくれたのは葵だった。葵さえ隣にいてくれれば、僕は何度だって立ち上がれたのに。いま、僕の隣に彼女はいない。

 ただもう一度会いたかった。だから僕は、この場所で働くことを選んだんだ。

 だけど、それももう限界かもしれない。


「葵……」


 もう続けられないよ。

 もうこれ以上、きみを待っていられないよ。


「なんで会いにきてくれないんだよ……!」


 床に向かってそう吐き出した瞬間だった。すぐ目の前に気配を感じた。

 ゆっくりと、僕は顔を上げる。

 目の前には一人の少女が立っていた。――いや。正確には、わずかに浮かんでそこにいた。


 そこにいたのは、この劇場に住む幽霊の少女だった。これまでと同じ洋服に身を包んだ彼女は、僕のことを見下ろしている。今度は、はっきりとその顔が確認できた。

 その少女の名を、僕はつぶやく。


「葵――」


 少女はなにも答えない。


「葵なんだよね? 最初からずっとここにいて、僕を見ていたんだよね?」


 彼女――葵は、ゆっくりと両腕を広げながら身をかがめると、僕を抱きしめるように包み込んだ。実体のないその身体からは、体温も感触も感じることはない。それでも僕は、確かに葵のことを感じていた。

 彼女は間違いなく僕のよく知る葵で、僕がよく知っているままの姿だった。


「葵! 葵……!」


 その響きを噛み締めるように名前を叫ぶ。懐かしいその唇の動きに、僕はいよいよ耐え切れなかった。


「うわあああぁぁぁ!!」


 三年分のたまった感情を吐き出すように慟哭をした。もっと強く抱きしめようとして、だけどその手はすり抜けて、行き先を失った。

 バランスを崩して、また床に崩れ落ちる。涙を腕で拭いながら上体を上げる。そこにはもう、葵の姿はなくなっていた。

 まるですべてが嘘だったみたいに、人の気配のないホワイエは静かだ。

 僕は床に膝をついたまま、そこから立ち上がることができなかった。

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