さまよう幽霊の少女

「鳴瀬くん!」

「は、はい!」


 出勤のために事務所でタイムカードを切るのと同時、一岡さんがものすごい勢いで迫ってきた。僕はお昼前からで、一岡さんは朝からの勤務だった。


「大・スクープだよ!」

「大・スクープ?」


 本当に興奮しているのか、身体がぶつかりそうな位置まで迫られてちょっとドキドキしてしまう。だけど、ただ事じゃない予感はしていた。

 社員さんに聞こえないように事務所の隅まで移動させられる。一岡さんは、声を抑えながらも興奮した調子で語り出した。


「あのね、お化けが出たんだって! 私だけじゃなくて、今日の朝のメンバーみんなが見てるの!」

「あ――」

「これ、七不思議の最後のやつだよね? 今度こそ絶対本物だよ!」


 忘れていた。

 ここで働き始めた頃に出会った少女の幽霊。あれは間違いなく本物の幽霊だと確信していたし、七不思議の話を聞くよりも前に、幽霊の存在については一岡さんからうわさを聞かされていたはずだった。


 七不思議の最後の一つ――「さまよう幽霊の少女」。


 僕は、前に目撃した少女の幽霊の姿を思い起こした。


「その幽霊って、やっぱり女の子でしたか?」

「そうそう! よく見えなかったけど、たぶん中学か高校生くらいだったかな」


 僕が出会った幽霊の少女と同じだと確信した。すっかり姿を潜めていたあの少女が、今になって再びその姿を見せるようになったのか。


 ふと考えた。


 僕があの幽霊の少女と遭遇をしたのは、まだ七不思議を調べるようになる前のことだった。どうしてそれきり遭遇することがないのだろう。その時がくるまで姿を隠していたのかと、勘ぐってしまいたくなる。

 ただの偶然かもしれない。だけど、七不思議の最後の一つにもなっている彼女には、確実になにか意味があるはずだと思った。


「あの……、その幽霊をどこで見たか教えてもらえますか?」

「もちろん――」


 言いかけて、一岡さんは現場を映したモニタを一瞥して苦笑した。


「って言いたいけど、まずは仕事がひと段落してからかな。新作のせいで結構ドタバタしてるし、ちょうど入れ替えのラッシュのタイミングだし」


 幽霊のことは、ひとまず後回しになる。一岡さんと二人で事務所を出て、現場まで下りた。一岡さんが言っていた通り、ホワイエにはたくさんの人が行き交って、賑やかな空気が漂っていた。世間はいよいよ春休みムードになって、混雑には平日も休日も関係なくなりつつあった。


『3番シアター、誰か清掃ヘルプお願いします!』


 左耳にはめたシーバーのイヤホンから聞こえたのは水上さんの声だ。僕は一岡さんに小さく合図をしてから、箒を持って水上さんのもとへ急ぐ。

 幽霊探しは、この混雑が落ち着いてからだ。自分にそう言い聞かせながら、ホワイエを早足で駆ける。それでも、通路の向こうや天井、シアターの影の中に幽霊の女の子の姿を探すのはやめられなかった。


 あっちに行って、こっちに行って、劇場中を忙しなく動き回る。仕事をしているのか、幽霊の女の子を探しているのか、自分でも途中から分からなくなっていた。

 だけど、その幽霊の女の子を見つけて、僕はどうしたいんだろう。「勝手に七不思議にされちゃってますけど、なにか知りませんか?」とでも訊くんだろうか。


 清掃を終えたシアターをあとにする。出勤をしてから一時間ほどが経っていたけど、いまだに少女の影も見えてない。だんだんと気持ちも萎れかけてしまっていた。

 ふと、数粒のポップコーンが床に落ちているのが目に入る。それを拾おうと腰をかがめた時、視界の端に、なにか黒い影がかすめた気がした。

 とっさに顔を上げると、黒い影は奥の方にあるシアターの中へと入っていき、すぐに見えなくなってしまった。


 あの影に間違いない。


 走り出そうと踏み出した瞬間、


「ちょっと」


 呼び止められて、とっさに足を止めた。

 振り向くと、四十代ほどの女の人が小走りで近づいてきていた。僕は思わず黒い影が消えていったシアターの方を目で追ってしまってから、すぐにお客さんの方に向き直る。


「どうしましたか?」

「荷物を預かってもらっていたのだけど、返してもらっても? 洋服が入った紙バッグなんだけど」

「はい。ただ今!」


 僕は慌てて荷物を保管している倉庫まで走る。お客さんには急いでいる雰囲気があったし、なにより僕自身も早くあの幽霊を追いかけたかった。

 邪魔になるような大きな荷物を預かるのもアルバイトの仕事で、駅の百貨店で買い物をした荷物を預かることは多くあった。


 倉庫にはいくつもの荷物が雑然と置かれていて、その手前に大きな紙バッグが目に入る。そのバッグには、高級そうなアパレルブランドのロゴが大きくあしらわれていた。

 これに違いない。

 それを持って、お客さんのもとまでまた急ぐ。


「お待たせしました」


 荷物を手渡すと、お客さんは「ありがとう」とだけ言って急ぎ足で出口の方に向かっていった。ちょっと慌ただしくなったけど、短い対応で済んだのは幸運だった。

 すぐにさっきの影が消えていった先へ急ぐ。

 そこは、上映の合間になっているシアターだった。スクリーンには何も映っていなくて、照明もわずかで全体的にうす暗い。今もここにいるかは分からないし、そもそも消えていった先が本当にこのシアターだった確証もない。それでも、このうす暗い無人のシアターには、どこか初めて幽霊の少女を見かけた時と雰囲気があった。

 シアター内をざっと見渡してみる。探していた幽霊の姿は見当たらない。


「いないの……?」


 小さくつぶやいてみても、もちろん返事はない。

 ゆっくりと階段を上っていく。いるはずがないと思いつつも、椅子の陰まで探してしまう。マット状の床は足音を吸収して、シアター内は完全な静寂だった。


 いないのかな、やっぱり。


 最上列まで上ってみても、どこにも彼女の姿は見つからない。いつまでも現場を放棄しているわけにもいかないし、いったん諦めて、また姿を見かけるのを待った方がいいかもしれない。シアターを出ようとして、出入り口の方へ振り向く。


 と、すぐ目の前にその姿はあった。


 いつの間に僕の背後まで来ていたのか。唐突のことで、一瞬足が動かなくなる。

 彼女は背中を向けて立っていた。初めて見た時と同じ、白のダッフルコートを羽織っている。僕に背を向けたまま、滑るようにして階段を下りていこうとしている。


「――待って!」


 とっさに手を伸ばして追いかける。だけど彼女は、僕が駆け下りるのと同じだけの速さで階段を降りていく。

 肩の先まで伸びた少女の黒髪がなびく。不意に、どうしてかその姿に懐かしさを覚えた。


「待って! 訊きたいことがあるんだ。きみは――」


 呼びかけもむなしく、少女の姿はそのまま壁の向こうに消えていく。

 僕はただ、彼女が消えていったシアターの壁を茫然と見つめ続けた。

 彼女は僕をからかっていたんだろうか。突然背後に現れたと思ったら、捕まらない程度の速さで逃げ出して。だけど、ただのいたずらだと片付けるには釈然としなかった。


 全身がなにか必死に叫び声を上げている。その言葉が僕には聞き取れない。

 胸の奥がざわめいている。

 得体の知れない胸騒ぎがして、いつまで経っても治まってくれなかった。

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